テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
会場の外──薄闇を孕んだ廊下。
時也は婦人用のレストルームにも
当たり前のように入れず
どこで紅を直すべきかと 静かに見渡した。
人影は薄く
天井に沿って並ぶ間接照明が
淡い金の線となって
大理石の床に反射している。
足裏を伝う冷気が
火照りを帯び始めた皮膚に触れ──
微かな酩酊が、遅れて呼吸の奥から立ち上る
(⋯⋯全く、アラインさんのお巫山戯には
ほとほと参りましたね)
腰元に、まだ彼の指の温度が残っていた。
それはもはや
熱と呼ぶには余りに冷たく、鋭く
刃の触れた〝記憶〟のように
その場所だけが微細な疼きを宿していた。
会場を離れた今になって──
喉へ落ちていった
赤き液体が体温の中へ静かに溶け
内側から灯りをともすような仄かな火照りが
胸の奥に沈む脈動とともに
密かに広がってゆく。
扉の向こうでは、舞踏会のざわめきが
繭の内側で震える絹糸のように揺れ
欲望と虚飾の泡立つ地獄の沼を
なお上品な仮面で覆い続けていた。
心をかすめる読心術は壁を越えて滲み込み
人々の声は薄い幻聴のように
耳の内側を流れ続ける。
──ささやきは血潮に似て
耳殻の奥へぬるりと流れ込む気配すらあった。
時也はひとつ細い息を洩らし
視界の端に、非常階段へと誘う白光を捉える。
(⋯⋯まだ会食の時間は続きそうですね。
例の〝催し〟までは間がありますし──
少し涼ませてもらいましょうか)
淡い決意とともに
彼は非常階段の扉へと歩み寄る。
ノブを押す指先は 慎ましく
扉は、わずかに空気を吸い込むような
静かな音で開いた。
階段の踊り場へと落ちる白光が
石造りの壁面を淡く照らし
夜気に近い冷たさを含ませて流れ込む。
人目は──ない。
そう〝見えた〟
風が上昇気流となって 頬を撫で抜けるたび
会場の濁声は幾分薄まり
痛む眉間がわずかに緩む。
(ここなら⋯⋯)
時也は鞄から
コンパクトミラーとルージュを取り出した。
レイチェルの練習で何度も繰り返した仕草を
ぎこちなく思い出しながら蓋へ指を添える。
だが、そこで深くひとつ息を吐いた。
(⋯⋯いえ。
やはり、落ち着けないようですね)
彼はルージュをそっと閉じると
すべてを鞄に収めた。
その瞬間
階段の踊り場の影が、ふるりと〝揺れた〟
女の吐息──
甘く湿った、蜜月の香りさえ孕む呼気。
続いて、男の低い囁き声が
影の奥に沈むように響いた。
(はぁ⋯⋯。
恥じらいもなく、こんな場所で⋯⋯。
会場の心の声の多さに
陰に潜む気配に気づけませんでしたか⋯⋯)
時也の頬が
呆れと苦笑ともつかぬ熱がかすめ
耳まで静かに染まった。
──影の奥からから降り注ぐ言葉は
熱を孕んだ空気の波となって 石壁に反響し
花弁の散るような軌跡で届いた。
「あぁ⋯⋯食べたい程に愛しているよ」
「お願い⋯⋯ひとつになりたいの。
〝来世こそ〟あなたと添い遂げたいの」
肌をなぞるような熱に濡れた声が
時也の呼吸をかすかにもつれさせる。
逃げるように扉へ振り返り
ノブへ手を伸ばした──その刹那だった。
──ごきっ
甘い声のすぐ後で
骨が砕けるような 乾いた音が
静寂を稲妻のごとく引き裂いた。
石壁へ反響し
一拍の遅れとともに
冷たく時也の背筋へと刺さる。
階段の影で──〝何か〟が折れた。
体なのか、運命なのか
あるいは、もっと別のものか。
風が止まり
空気が一瞬──凍る。
時也の指が、扉のノブの上で震えた。
(なん、ですか⋯⋯今の、音は⋯⋯!)
胸腔の奥で震えが脈を打ち
時也の意識は、ゆっくりと、しかし確実に
常軌を逸した領域へと
引きずり込まれていった。
耳朶を撫でた気配は
ただ事ではないのに輪郭を持たず
風の切れ端に紛れた亡霊のように曖昧で──
その癖、確実に〝こちら側〟へ響いてくる。
荒い吐息。
濡れた何かが擦れあう、粘りつく湿音。
そして──
狂気を通り越して甘美さすら帯びる
愛の叫びすら孕んだ──心の声。
(⋯⋯おかしい。
これは、愛でも欲望でもない。
もっと別の──〝渇き〟だ)
理解の外側から迫る熱量が
背中の皮膚を逆立たせる。
喉は勝手に呼吸を浅くし
心臓は鼓動の間隔を乱しはじめる。
やがて──音が、混じった。
〝咀嚼音〟
湿った肉が潰れ、引き千切られ
舌の上で練られていく音が
高級ホテルの非常階段という現実に
見えない裂け目を穿つように響いた。
時也は、そっとヒールを脱ぎ、手に持つと
一切の足音を殺しながら階段を下る。
一段、一段──
天井灯が紡ぐ白光が、影の輪郭を鋭く削る。
(⋯⋯嫌な気配です。
〝行くな〟──と
胸の奥の〝 何か〟が、反対するような⋯⋯)
壁へ背中を寄せ
息を細く絞りながら、そっと覗き込む。
──視界が、凍りついた。
(──⋯⋯は?)
踊り場の影に寄り添う男女は
祝福の瞬間にいる恋人のように
〝幸福そのもの〟の笑みを浮かべていた。
ただし── 血塗れの顔で。
(お互いを──喰い合ってる⋯⋯っ!?)
男は女の肩口へ顔を埋め
獣とは異なる
奇妙に〝丁寧な噛みちぎり方〟で
肉を剥ぎ取っていた。
最初に響いた鈍い破砕音──
あれは、肩の骨が折れた音だったのだろう。
だが、女は痛みを訴えない。
むしろ、頬を染め、目尻を蕩けさせ──
甘い声を漏らして〝悦んで〟いた。
男の唇から滴り落ちる血は
まるで光を帯びた深紅のワインのように
女の胸元を染め
その温度に女は陶酔したように喉を鳴らす。
まるで
シャワーの中で愛を交わす恋人たちのように。
血潮に濡れた肌を寄せ合い
互いの傷口へ口づけながら
痛みではなく
快楽を確かめあうかのように睦み合う。
(⋯⋯こ、んな──)
二人は、深く唇を重ねた。
優雅な舞踏のようなキス。
だが次の瞬間
重ねた〝唇〟が噛み千切られる。
ぷつり──と、柔らかいものが裂ける音。
噴き上がる鮮血は
泉のように二人の頬を濡らし
伝い落ちる紅は
涙のように顎へ滴り落ちていく。
そして、それを── 咀嚼した。
舌に絡め、喉へ落としながら 幸福の吐息を零し
恍惚とした表情で
また相手の残った唇を探す。
その一連の動作は──
あまりに優雅で
あまりに悦びに満ちていて
現実の残酷さが霞むほど美しくすら見えた。
血と愛が同じ温度で混ざりあい
階段の踊り場に
沈黙の中で猟奇的な〝儀式〟が成立している。
(これは──本能が壊れ
愛と捕食の境界が崩れているのか⋯⋯っ?
そんな、馬鹿な──常軌を逸している!)
階段の白光は
二人の血濡れた影を長く引き伸ばし
その輪郭はまるで
〝神に許されぬ愛〟を貪る
眷属のように揺れていた。
時也の指先が震える。
冷気ではない。
もっと別の何かが──
肺の奥で、静かに音を立てはじめていた。
(アラインさんと、ソーレンさんに
知らせなければ──っ!
人身売買、だけではない⋯⋯
ここは、 何かが──おかしい!)
──焦燥は
胸の内側で裂ける音さえ孕んでいた。
思考が鋭く軋むその瞬間
時也はドレスの裾を片手で持ち上げ
弾かれた弓矢のように
非常階段を駆け上がった。
ヒールを手に握りしめた足音は
一切音を立てない。
だが、背後からはなお──
囁く愛の声、肉を食む湿音
骨を砕き咀嚼する甘美な音色が
ぬめる影のごとく追ってくる。
壁面に反射したそれらの音は
背に追い縋る亡霊が、耳へ指を差し込むように
執拗に意識へ染み込んでくる。
(あんなのは、異常だ──!
どれほど愛し合っているとはいえ
互いを喰らうなど⋯⋯
狂気そのものじゃないか)
扉の前で一度足を止め、 人の気配を探る。
──いない。
静かに廊下へ戻った刹那
そこで初めて──深い呼気が零れた。
胸の上下に合わせ
心臓が〝煩い〟ほど、激しく壁を叩き続ける。
(鼓動が、速い⋯⋯痛いほどに、速い。
息が、うまく整わない──)
原因を知らぬまま
熱だけが血管の内側をゆっくりと這い上がり
思考の端をひそやかに灼いていく。
(あそこまで人の欲を掻き立てる
破滅の秘密が──なにか、あるはず⋯⋯っ!)
鼓動は警鐘となり
潮騒のように耳底へ打ち寄せる。
(何が彼らを、あそこまで⋯⋯
僕だって
アリアさんをお想いする気持ちは強い⋯⋯
ですが〝食べたい〟などと──)
─食べたいほど、愛しているよ⋯⋯─
男の熱に掠れた声が、脳裏に響く。
思考が沈み、黒い染みが広がり始めた。
(まさか〝劣って〟いる、と──?
僕の想いが、あの二人よりも、 薄いと⋯⋯?)
ゆっくりと視界が揺らぎ
廊下の照明が細波のように歪む。
鼓動が喉元へ押し上がり
息が浅く掠れ、細く、途切れ始める。
(違う⋯⋯僕は、そんな⋯⋯
そんなはず、ないのに)
ふいに── 意識の底を攫うような
強烈な眩暈が襲った。
膝が床を求めるように沈み
硬い大理石が脚を受け止める際の
乾いた衝撃だけが現実を繋ぎとめる。
時也は片手をつき
辛うじて崩れ落ちるのを堪える。
視界の縁は墨を流したように黒ずみ
形が溶け、灯が滲む。
──その時。
「──どうされましたか?
ご気分でも、優れませんか?」
その声は、何処からともなく
滲むように降りてきた。
廊下の奥から 黒服の男が二人
影を引くように近づいてくる。
輪郭は揺れ
顔は黒い染料でぼかしたように曖昧だ。
光を呑み込み、形ばかりが浮かぶ。
「おい、この女──
あっちの会場で見かけたぜ?」
「は!道理で──だな。
へぇ⋯⋯見た目も肉づきも上等じゃねぇか」
「だが、これじゃ──
〝中身〟は売れねぇな?」
「いや〝愛玩〟なら十分だろ。
こういう壊れかけは値がつく」
声が落ちるたび
酩酊した意識の水面に
黒い石が沈むような鈍い衝撃が走る。
時也は声を出そうとして──
喉が焼け付くように熱く、言葉が出ない。
呼吸するたび甘い昏さが肺を満たし
世界がふわりと傾いた。
「ならよ──その前に
俺らで〝味見〟したって構わねぇよな?」
伸びてきた指先。
爪の光沢が照明を受け
刃物のような光を帯びる。
(誰⋯⋯ですか。
僕に触れていいのは── アリアさん、だけだ)
胸の内で、その名がかすかに灯る。
しかし、すぐに── 紅い靄の中へ沈んだ。
思考が剥がれ、 呼吸が遠のき
鼓動だけが乱れた拍動で跳ねては沈む。
男たちの声は
水底から聞こえるように歪みはじめる。
「ほら、立たせろ。
使えるうちに運ぶぞ」
「壊れてても構わねぇよ。
どうせ、さらに金持ちに壊されんだからよ」
乱暴でも優しさでもない
ただ〝物を扱う手〟が、腕を掴む。
抵抗しようとした──
が、その直後、 膝が完全に抜けた。
視界が暗い海へ落ちていく。
呼気だけが白く揺れ、 ほんの一瞬だけ
夢の残り火のように
アリアの深紅の瞳が、脳裏を掠めた。
(⋯⋯アリアさん)
名を呼ぶ声は胸の奥で消え
世界は完全に閉じた──
黒服の男たちは
崩れた身体を無造作に抱え上げ
衣擦れと靴音だけを静かな廊下に残して
闇の奥へ運び去ってゆく。
煌めく照明。
整えられた静謐。
上品な夜会の気配は一切乱れない。
ただ──
一人の貴婦人が
音もなく消えたという事実だけが
冷たい影となって、廊下に残った。