テラーノベル
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高校に入学してすぐの、春。
教室のざわめきに馴染めない私にとって、学校はひどく息苦しい場所だった。
でも、だからといって、早く家に帰りたいわけでもなかった。
両親は互いに無関心で、父親は別の家庭を持ち、母親も滅多に帰ってこない。広いマンションの一室には、いつも乾いた静寂と、冷え切った惣菜、そしてテーブルに置かれた生活費の入った茶封筒だけがあった。
家にも、学校にも、私の居場所はなかった。
だから私は、放課後になるといつも逃げ場所を探して校内を彷徨っていた。
そんな時、立ち入り禁止の旧校舎の片隅で、埃を被った『文芸部』のプレートが掛かったドアを見つけたのが、全ての始まりだった。
そっとドアを開けた瞬間。
古い本の紙の匂いと、わずかに甘い紅茶の香りが鼻を刺した。
西日の当たらない、薄暗い部屋。窓際に、ひとり。
逆光で顔はよく見えないのに、ページをめくる、紙が擦れるような乾いた音だけがやけに鮮明に聞こえた。
『……新入生か』
『あ、あの……』
低い声だった。少し、怖かった。
でも、その部屋の薄暗さと埃っぽい静けさが、三十人の呼吸と笑い声で満ちた教室よりも、私が一人で冷めたご飯を食べるあの家よりも、ずっと優しく感じられた。
『あの……少しだけ、ここにいてもいいですか』
沈黙が落ちた。
カチ、と時計の針が進む音だけがして。やがて、パイプ椅子が一つ、足でこちらへ押し出される。
『好きにしろ。騒がなければな』
その時だった。
初めて、彼女の少し大きめの伊達眼鏡越しに、目が合った。
ほんの一瞬。
――寂しそうだった。
私と同じように、誰にも馴染めず、たった一人でこの薄暗い部屋の奥に隠れているような、そんな目をしていた。
それが、決定打だった。
私は、この人の隣にいたいと思った。
あの日、あの薄暗い部屋で救われたのは、きっとお互いだった。
……そう、信じたい。
秋になる頃には、私はすっかり文芸部に入り浸り、彼女――碇先輩の隣が私の指定席になっていた。
『その数式の展開は、根本的な論理が破綻している。僕が教えた公式を忘れたのか』
『うう……先輩、数学教えてくださいよぉ……』
『……仕方ないな。ほら、隣に来い』
彼女はため息をつきながら、自分の隣のスペースをポンポンと叩く。
私が嬉々としてそこに座ると、先輩は微かに甘い紅茶の匂いを漂わせながら、手元のノートに赤ペンで丁寧に数式を書き込んでくれた。
『先輩の字、綺麗ですね』
『無駄口を叩くな。手を動かせ』
冷たい口調とは裏腹に、彼女の教え方はとても丁寧で、ポンコツな私が理解するまで何度でも根気よく付き合ってくれた。
一人称に『僕』を使う少し変わった彼女は、いつも難しい言葉を使い、感情を表に出さない完璧な人を装っていたが、本当は少し抜けたところのある、不器用で温かい人だった。
居眠りした私に自分のダッフルコートをかけてくれたり、私の持ち込んだクッキーを文句も言わずに食べてくれたり。
彼女の淹れる紅茶は、いつも決まって角砂糖が三つも入っていて、喉が焼けるほど甘かった。
『僕が淹れる紅茶は甘すぎるか?』
『いいえ、脳の疲労回復にはぴったりです!』
そんなちょっと抜けたところのある、不器用で、生身の温かい人間。それが、私の大好きな先輩だった。
この閉ざされた部室で、二人だけで笑い合う時間が、永遠に続けばいいと本気で思っていた。先輩がいれば、外の世界の煩わしい人間関係も、冷え切った家のことも、どうでもよかった。
朝、教室に入ると、クラス女子が同時にスマホを伏せた。
笑い声はない。ただ、目だけが合って、すぐ逸らされる。
私のスマホは静かだった。
クラスのグループチャットは動いている。でも、既読が付くのは私の発言だけやけに遅い。たまに送ったメッセージには、絵文字のリアクションすら付かない。
ある日、気付いた。
――別のグループがある。
それを知ったのは、写真共有アプリのストーリーだった。
『親しい友達のみ』に公開されたはずの動画が、何故か私のおすすめ欄に一瞬だけ表示されたのだ。
すぐ消えたけど、もう遅い。
画面に映っていたのは、私の後ろ姿。旧校舎へ向かう廊下。ズームされた私の足元。
そこに、ポップなフォントでテキストが重ねられていた。
『#今日も徘徊』『#幽霊部員』
翌日から、知らないアカウントにフォローされるようになった。
プロフィールは空白。投稿はゼロ。
でも、DMは届く。
『先輩と付き合ってるってほんと?』
『なんであの人なの?』
『てかさ、見られてるよ?』
決定的だったのは、匿名質問箱だ。
クラスの誰かが、私の名前をタグ付けしてリンクを貼った。
『あの子ってなんであんなに陰キャなの?』
『先輩に利用されてるってマジ?』
『可哀想』
可哀想。
その言葉が、一番残酷だった。
私は、被害者ですらない。ただの観察対象。見世物なのだ。
抗議する勇気なんてなかった。私が何か言えば、さらに面白おかしくネタにされるだけだと分かっていたから。
放課後。
誰もいない教室で自分の席に戻ると、机の上に私の数学のノートが開かれていた。
そこには、パステルカラーの付箋が何枚も貼られていた。
『字はきれい』
『でも性格は無理』
『空気読んで』
そして、最後のページ。
小さく、薄い鉛筆の字で書かれていた。
『消えても誰も気付かないよ』
『誰も困らないから』
消しゴムで擦れば、すぐに消える。証拠なんてどこにも残らない。
でも、私は震える手でそれを消すことすらできなかった。
背後で、忘れ物を取りに来たらしいクラスメイトが、クスクスと笑って言った。
『……別にさ、いじめてないよ?』
その一言で、全部が成立してしまう。
誰もその言葉を否定しない。誰も、私を助けようとはしない。
(ああ、そっか)
私は思う。ここには、私の居場所なんて最初からなかったんだ。
私はノートを胸に抱き抱え、保健室にも行けず、逃げるように旧校舎へと走った。
私は保健室にも行けず、逃げるように旧校舎へと走った。
文芸部のドアを閉めた瞬間、足の力が抜け、私はその場に崩れ落ちた。
先輩が本から顔を上げる。
『どうした』
『……っ、あ……』
私は、何も言えなかった。惨めで、情けなくて、声にならなかった。
でも、先輩は理由を問いたださなかった。
ただ黙って私の隣の床に座り込み、自身のポケットからハンカチを取り出して、私の手に押し付けた。
『……外は、騒がしいな』
それだけ。
ただ、隣にいる。
その静かな沈黙が、私にとっては世界で一番安全だった。
(ああ、ダメだ)
ここがなくなったら、私は壊れる。この人がいなくなったら、私は二度と息ができない。
だから。
『……新入部員を、本格的に勧誘しようと思う』
冬の足音が聞こえ始めた、ある日の夕暮れ。
向かい合わせの机で、先輩が言い出したその言葉を、私はどうしても受け入れることができなかった。
『今のままでは規定人数に満たず、来月には完全に廃部になってしまう。それに……』
『どうしてですか! ここは、私たちの場所なのに! 私じゃ、ダメなんですか!?』
思わず、声を荒げてしまった。
後輩の私がいて、先輩がいれば、それで十分じゃないか。ただ二人で甘い紅茶を飲んで、隣に座っていたいだけなのに。
『そうじゃない。人はいつかいなくなる』
『やめてください!』
『君は僕がいなくなったら、一人で立てない』
その言葉が、私の図星を突いた。
『……先輩がいなくなるなんてありえません!』
『ありえる』
一拍置いて。
先輩は、ひどく静かな声で言った。
『僕だって、死ぬ』
心臓が止まった。
全身の血が凍りつくような感覚。私はパニックになり、子供のように叫んだ。
『縁起でもないこと言わないでください!!』
『現実だ』
『そんな現実、いらない!!』
そして。
『私がいれば十分じゃないですか!』
その瞬間。
先輩の目が、ほんの少し揺れた。
それは怒りじゃない。失望でもない。
――怖れだった。
いつか来る別れの時、一人残される私を、ただただ心配して、恐れている目だった。
でも、その時の私にはそれが分からなかった。私を拒絶しているようにしか見えなかった。
『先輩なんて……』
私は椅子を蹴飛ばし、振り返りもせずに、言ってはいけない最低の一言を投げつけた。
『先輩なんて、いなくなればいい!!』
言った瞬間。
世界が、凍った。
部室に、恐ろしいほどの静寂が落ちる。
私は逃げるようにドアを開け、その静寂から、先輩から、走り去った。
明日になれば、また謝ろう。どうせ明日も、先輩は甘すぎる紅茶を淹れて、呆れたように私を許してくれるはずだから。
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