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翌日。
私は「ごめんなさい」という言葉を準備して、放課後の部室へ向かった。
けれど、部室のドアは、半開きになっていた。
中は、昨日と同じだった。
机の上には、キャップが外れたままの赤ペンが転がっている。
私の数学の答案用紙には、「惜しい。もう一歩だ」と、私への赤文字が書かれたままだった。
流し台には、洗われていないティーカップ。
底には、角砂糖が溶け残っていた。
スマホを取り出す。
『昨日はごめんなさい』
送信。
いつまで経っても、既読はつかない。
二時間後。
すっかり薄暗くなった部室のドアが、ゆっくりと開いた。先輩かと思って顔を上げた私の前に立っていたのは、青ざめた顔をした担任の教師だった。
『……やっぱり、ここにいたか』
そこで彼から告げられたのは、駅前で無差別通り魔事件が発生したこと。
そして。
『……3年の碇が、昨日、事件に巻き込まれて』
昨日。
昨日?
私は昨日。あの薄暗い部室で、背中を向けて。
「いなくなればいい」と、言った。
時間が逆流する。
キーン、という酷い耳鳴りがして、教室のざわめきが遠のいていく。
自分の足元がぐらぐらと揺れた。
胃の内容物が逆流し、私はその場で、盛大に吐いた。
担任の焦ったような声が聞こえたけれど、私にはどうでもよかった。
ただ、吐瀉物の酸っぱい匂いに混じって、昨日の甘い紅茶の匂いがこびりついて離れなかった。
お葬式で、綺麗な花に囲まれた先輩の顔を見ても、どうしてもこれが現実だと思えなかった。
数日後、先輩のお母さんが私の家を訪ねてきた。彼女は、血の匂いが微かに染み付いた『ダッフルコート』と『伊達の丸眼鏡』を私に手渡した。
『あの子ね、あなたの話、家でよくしてたのよ』
心臓が、痛いほど跳ねた。
『不器用だけど、真っ直ぐで……僕が守ってあげたい子だって。あの子、そんなこと言ったの初めてでね』
守ってあげたい。
守ってあげたい。
守ってあげたい。
私は、私を守ろうとしてくれたあの人に。
『いなくなればいい』と言ったのだ。
その夜。
私は、あの冷え切ったマンションの一室で、鏡の前に立った。
誰もいない、愛のない家。私は、震える手で先輩の伊達眼鏡をかけ、あの大きめのダッフルコートを羽織った。
『……大丈夫だ。論理的に思考しろ』
口から出た声は、酷く震えていた。
目から、止めどなく涙が溢れ続ける。
『僕は、死んでいない』
違う。違う。違う。
先輩は死んだ。私が殺したんだ。
でも。
その嘘をつかなければ、私は本当に壊れていた。
罪悪感と喪失感で、脳が焼き切れそうだった。だから私は、自分自身を殺し、先輩の偽物になることでしか、自我を保てなかった。
一人称を先輩と同じ『僕』に変えた。
難しい言葉を使った。少しずれる眼鏡を、中指で押し上げた。
誰にも見られない部屋で、完璧な先輩の幻影を演じ続けた。
部屋は暗い。カーテンは閉め切ったまま。
時間の感覚がなくなって、昼か夜かも分からない。
スマホは何度か鳴った。クラスのグループ通知。誰かの誕生日。既読をつける気力もない。
先輩のコートを着たまま、床に座っている。
甘い匂いがする。いや、しない。鼻の奥が乾燥しているだけだ。
口の中が鉄の味になる。水を飲もうと立ち上がる。視界が真っ暗になる。壁に手をつく。そのまま、ずるりと崩れ落ちる。
二日目。
冷蔵庫を開ける。光が眩しすぎて、すぐ閉める。
何も取らない。胃は空なのに、何も欲しくない。代わりに、吐き気だけがある。
水を飲む。すぐ吐く。
床に、透明な液体が広がる。拭かない。どうでもいい。
三日目。
スマホのバッテリーが切れる。
充電器は、手の届くところにある。でも、刺さない。
世界と繋がる理由がない。
夜、玄関のドアが開く音がした。
母親が帰ってきたのだろう。カツカツというヒールの足音が、廊下を通り過ぎていく。
でも、私の部屋のドアが叩かれることはない。
世界は、本当に私に無関心だった。
先輩は死んだ。私が殺した。私を唯一見てくれていた人はもういない。それだけが真実。
五日目。
立ち上がれない。身体が冷たい。
コートの内側に顔を埋める。微かに、血の匂いが残っている気がする。
気のせいだ。でも、それに縋る。
『……合理的な判断だ』
声が掠れる。誰に言っているのか分からない。脳がぼんやりしている。
視界の端に、先輩が立っている気がする。
逆光。あの日と同じ。
『その数式の展開は、根本的な論理が破綻している』
叱る声。でも、優しい。
『……ごめんなさい』
返事はない。身体が痙攣する。寒い。指先が紫色になっている。
息を吸うたび、胸が痛い。
鼓動が、やけに大きく聞こえる。
ドクン。
間。
ドクン。
間が長い。怖い。
でも。
これが、罰だ。
先輩の代わりに、私が消えればいい。
最後に動いたのは、右手。
ずり落ちた伊達眼鏡を、中指で押し上げる。
レンズの奥で、涙が乾いて白く跡になる。
『……僕は、死んでいない』
もう、声にならない。
呼吸が浅くなる。
浅く。
浅く。
止まる。
静寂。
エアコンは切れている。時計の秒針だけが動く。
夕方になっても、誰も来ない。
夜になっても、誰も来ない。
翌日になっても。
その次の日になっても。
やがて、部屋に甘い匂いが満ち始める。でも、もう本人には分からない。
発見されたのは、数日後。
珍しく早く帰ってきた母親が、強烈な異臭に気付いて悲鳴を上げたのだった。
ドアを開けた瞬間。転がったままの身体。
丸眼鏡は、顔から外れて床に落ちている。
コートの裾が、乾いた吐瀉物に貼り付いている。
部屋の隅には、「惜しい。もう一歩だ」と書かれた答案用紙。
そこだけが、やけに綺麗だった。
それが、僕――『宮本 真帆』の、愚かで惨めな人生の全てだ。