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霧が濃い。
クレアン・ニールヴァルトは、送迎車の窓越しに外を眺めていた。
山道はどこまでも続き、視界は白く煙っている。窓に映る自分の顔は、雪のように白い髪のせいで、今にも霧の中へ溶け出してしまいそうに見えた。
膝の上には、一枚の辞令書。『異質物取扱所 第三区画 職員採用通知』。
概念や物語を「人形」に閉じ込め、管理する場所。実際にそこへ赴任することになるとは、昨日までは思いもしなかった。
「……着きましたよ」
運転手の無機質な声に、クレアは顔を上げた。
霧の向こうに、研究施設と教会が混ざり合ったような灰色の建物が、巨大な影となって聳え立っている。
車を降りると、湿り気を帯びた冷たい空気が肌を刺した。クレアは軽く息を整え、正面の重い鉄扉へと一歩を踏み出す。
その扉が、まるで彼女を待ち構えていたかのように、内側から勢いよく開いた。
「お、新入り〜?」
場にそぐわないほど明るい声。
そこに立っていたのは、青い髪に黄色いおさげを揺らした少女だった。
「あ、えっと……クレアン・ニールヴァルトです」
「おっけー!あたしはダンテ・スタシス。よろしく〜」
スタシスは「にへら」と笑い、クレアの腕を軽やかに引いていく。
「緊張してる?大丈夫、ここ見た目怖いけど意外と普通だから」
スタシスは軽快に歩きながら、肩の前へ持ってきたおさげの先を無造作にいじっている。
廊下の奥、ガラス張りの部屋で黒髪を長く伸ばした青年が書類を整理していた。アンティ・ストーだ。
その時、アンティの真後ろに、羊の角のようなヘルメットを被った女性がふっと現れる。
「うわっ!……やめてくれ、ヘイスト」
「すまない。つい、新しい子の顔が気になってしまって」
未来的な軍服を着たその女性――ヘイストの声は、仮面の奥で少し楽しそうに響く。
さらに奥へ進むと、向こうからラフなニットを着た少女が歩いてきた。
独特なリング状の黒髪。少女が立ち止まり、クレアを真っ直ぐに見つめる。
「あら……新入りさん?」
「はい。クレアニールです。よろしくお願いします」
丁寧な挨拶。だが、アスモデウスは返事をする代わりに、その場で凍りついたように動かなくなった。
風景を眺めるような、クレアの温度のない瞳。
アスモデウスは自分の喉元にそっと手をやり、震える指でクレアの白い髪に触れる。
「……クレア……ニール。そう、そうなのね」
その声は、消え入りそうなほど微かに震えていた。
「クレア。素敵な名前ね。……これから、よろしくね」
アスはどこか泣き出しそうな笑みを浮かべて、名残惜しそうにしながらも、ゆっくりと立ち去っていった。
「……なんか、アスの様子おかしかったな」
スタシスが小声で呟く。クレアが振り返ったときには、もう少女の姿は霧の混じる廊下の先へと消えていた。
その後、服の裾を引く小さな子供、ロビンに出会った。
口を布で塞がれた子供は、クレアの手をぎゅっと握り、嬉しそうに「ピ」と喉を鳴らす。
「君がクレアニールか」
低い声に振り返ると、短髪でガッチリとした体格の男――所長のジェイドが立っていた。
「資料は見た。君の“心を無にする”適性。それはここでは重要だ。君ならうまくやれるよ」
ジェイドはそれだけ言うと、クレアの肩をポンと叩いて歩き去った。
その背中を見送りながら、クレアは改めてこの施設の広さと、そこに漂う得体の知れない静寂を感じていた。
やがて夜が訪れ、施設の窓には冷たい月光が差し込み始める。
自室で荷解きをしていたクレアの耳に、静かなノックの音が届いた。
「クレア。……今夜は、寒くなるらしいの。ちゃんと、暖かくして寝てね」
扉の向こう、アスモデウスの声だった。
「はい、ありがとうございます」
足音が遠ざかっていく。
クレアは扉をじっと見つめた。アスが自分の髪に触れたときの、あの指の熱がまだ肌に残っているような気がした。
「……声、震えてた……?」
クレアは小さく首を傾げたが、その理由を知る術はない。
彼女は窓の外、霧の向こうで揺れる施設の明かりをぼんやりと見つめ続けた。
ここが、私の新しい場所。
クレアは、風景を眺めるような瞳のまま、ゆっくりと目を閉じた。