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甘夏剤
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「終わりまであなたと」
🟦🏺ゾンビパニックもの
※第一話の注意書きを見た上で閲覧してください。
3: 二人だけの場所へ
成瀬力二は夜道を早足で歩いていた。
オレンジ色の街灯がぼんやりと道を照らしている。そのくすんだ光の中、歩道には雨で溶けかけて張り付いたチラシやガムがこびりついているのが見える。そのゴミを避けつつ、足は真っ直ぐではなくかかとから静かに下ろして歩みを進める。
空は漆黒の闇夜だった。昨日は月がのぼっていたはずなのに、垂れ込めた雲が星までも隠している。
もはや懐かしさすら覚えるかつてのロスサントスの夜とは違って車の音はあまり聞こえない。その代わり遠くで銃声がした。成瀬が歩いている通りの奥には安全区域と緩衝区域とを区切るバリケードがある。まだチョケで撃ち合う気力のある市民が暴れたのでなければ、どこかでゾンビが出たのだろう。
夏の名残もとうに消え失せたのに風はどこか生ぬるい。先の影が道をそれた。成瀬は早足のせいで少し上がった呼吸を静かに整える。歩道を曲がり、小洒落た門をくぐり、芝生を踏みつけ建物の前にたどり着いた。
ザラザラで味気ない外壁は高野豆腐みたいだな、と成瀬は思った。階段の天井にある黄ばんだ蛍光灯には虫がたくさん集まっている。ということはその下の段に無数の虫の死骸が砂埃に混じって転がっている。
なるべく足音を忍ばせてその死骸を踏みつける。もう一つの足音に紛れて息を殺してゆっくり階段を登っていく。
先のほうで鍵の開く音がした。
最後に少しだけ迷い、息を吸って、飛び出す勢いで吐き出すように言った。
「お疲れさまっす、らだおさん」
コンクリートの階段に声が嫌に反響する。
蒼白な顔が振り向いた。
*
青井らだおは今日もウキウキで家路を急いでいた。
本日何人処分したかはもはや覚えていない。記憶と現実の照合はとっくにやめていた。今日もなんとか隙をついてワクチンを盗み出せたし、つぼ浦のために美味しそうな夕飯も手に入れた。
あとはいつものように愛しい人の待つ家に帰るだけ。
外の世界がどうだったとしても、そして青井がなにをしていたとしても、部屋の中には幸せが満ちている。
激務を終えて、やっと愛する人に会える嬉しさだけで頭がいっぱいだった。
「お疲れさまっす、らだおさん」
背後から声をかけられ青井は猫のように勢い良く振り向いた。
見間違えるわけもないおどけたペンギンの被り物。下の踊り場に成瀬がいた。
急に冷水をかけられたかのように体が冷えた。指先が震え、頭の芯まで一瞬で凍りついたかのように言葉が出ない。
後をつけられていたのだ、と気づくと同時にそれに気づけなかった自分に一番驚いた。背中を冷たい汗が滑り落ちる。戸惑いを隠すように青井はただ成瀬を睨みつけた。
青井が逃げないのを見て成瀬は一段、階段を上る。青井は素顔だった。黒く淀んだ目が青白い顔の中でぎょろりと見開かれ、成瀬をじっと見ていた。
青井が片手に持っているビニール袋からなにかがぽたりと床に垂れた。白いビニールの表面は濁った液にまみれている。
「……いつから尾行してたの?」
長い沈黙の末、青井が口火を切った。
「いやいやそんな、怖い顔すんなって、シワ増えますよ。あー、今ならあの鬼の顔のほうが可愛いかもな」
「成瀬」
いつものようにおどけてみせても青井は成瀬の軽口にまったく乗ってこない。声には恐ろしいほどに温度がない。
漂っているのは殺気ではない。しかし到底まともな空気ではない。成瀬は少し目線を彷徨わせた。ペンギンマスクのおかげで動揺が隠れるのは幸いだった。軽く息を吐いてからゴムのペンギン越しに青井をまっすぐ見据える。
「別に?ももみ先生が最近ワクチンの数が合わないって言うからいつも最後に部屋に入るのが誰か探偵ごっこをしたとか?まあ、関係ないよな。関係がないなら関係ないよな」
「……それで?」
「だって関係ないだろ?そんなの、なぁ」
「成瀬、いつから?」
「あー、……らだおが病院出て、バリケード越えてって、ぶっ殺した心無きの肉を捌いてるところから」
成瀬がなにかするより先に青井が素早く銃を抜いた。銃口は迷いなくペンギンの眉間を捉えている。闇のように黒く染まった目には怒りも温度もなく、ただ邪魔者を排除しようという機械的な恐ろしさがあった。
たまらず成瀬は両手を上げた。もはや軽口を叩ける雰囲気ではない。
それでも聞かなければならないことがあった。
「いるんだろ?つぼ浦さん」
手を上げたままドアを指さす。金属の重たいドアの向こうになにかの気配がした気がした。
成瀬の仕草を見て青井はドアを背に守るかのように立ちふさがった。銃はまっすぐに成瀬の頭に向けられたままだ。
「なんでそう思うの」
「まぁ色々怪しいところはあったんだけど……」
その先を言おうとして成瀬は思わず言い淀んだ。ペンギンの下で小さく舌打ちをする。
しかし、もうパンドラの箱に手をかけてしまった。カラカラに乾いた口で強引につばを飲み込んで、続きを口にした。
「覚えてるか?昨日、結婚できるといいねって言ったとき。気づいてなかったかもしれないけど過去形じゃなかったんすよ、つぼ浦さんの扱いが。それが決定打っすね」
ずっと眉一つ動かさなかった青井の眉間にシワが寄った。読みが当たったことを、成瀬は素直に喜ぶことはできなかった。
「いるんだな?」
「…………」
「都合が悪いとすぐだんまりかよ。なぁ、わかってんだろ?」
成瀬は声を荒らげた。とにかく対話を試みないといけない。こうしているうちにもどんどん青井との距離が離れていくのを感じていた。いや、もとからもう横にはいなかったのかもしれない。
青井が越えてはならない領域をとっくに越えていたことに成瀬は苛立っていた。
ワクチンを盗み、心無きを捌き、家で一体何をしているのか。警察では誰もしたがらない仕事を引き受けて模範のように働いていたのに、その本音はどこにあったのか。
今日まで悟らせないほどに青井の行動は完璧だった。まるで隠した罪との釣り合いを取るかのように。
そのわずかなほころびを引っ張って嘘の糸をほどいてしまったのは成瀬だった。成瀬もまた責任を取らなければならなかった。
必死に問い詰めてみても青井の表情は変わらない。ドアを守るように立ちはだかり、感情の読めない真っ黒な目が成瀬を睨みつけている。
銃口を向けられているのに、焦燥感から成瀬は思わず一歩前に出た。
これが幕切れになっていいわけがない。心無きと揶揄される男の心に届くように必死に声を張り上げた。
「わかってんだろって言ってんだよ!頼む、なんか答えてくれよ」
「なにを?」
「だから、もうそれはつぼ浦さんじゃないんだよ!このままだとお前も……」
銃声が2回響いた。
荒い呼吸のまま青井はもたれかかるように玄関のドアを閉めた。鍵がかかったことを何度も確認する。不意に喉が詰まってむせるように咳込んだ。吐き気がこみ上げてきたが喉を締めるように掴んで抑え込む。
足元に落としたビニール袋から肉塊がこぼれ出て、置いてあった古いスニーカーにぐちゃりと乗っかっていた。血と体液の混じったベタつく液体が染み出て足元にまで広がっている。
なんとか呼吸を落ち着かせようと必死になっているとリビングから物音が聞こえた。すぐさま我に返って青井はもつれる足でリビングに駆け込んだ。
「ごめんつぼ浦、おっきい音してびっくりしたよね」
つぼ浦は床で毛布にくるまっていた。ゾンビになっているほうの顔まで眉をぎゅっとひそめて不安げな顔で青井を見上げている。毛布ごと抱きしめてあやすように背中を撫でても、強くしがみついてくるばかりだった。
「ごめんね、ご飯……落としちゃった。三秒ルールはちょっと、厳しいかもな」
駄目になった靴と肉塊を思い青井はため息をついた。靴に落ちた肉をつぼ浦に食べさせるのは誰が許しても青井が許さない。
「ちょっと時間かかるけどまた持ってくるからね」
冷たい頬を優しく撫でる。立ち上がろうとした青井の手を、震える手が力なく掴んだ。
「あおせん、だれ、きた」
「んー?誰も来てないよ」
「かに、くん?」
「…………」
あれだけ声を張り上げたのだから部屋の中まで成瀬の声は届いたのかもしれない。予期せぬ問いかけに答えに詰まった青井の顔から表情が消えた。
初めてつぼ浦の目から目をそらした。そらしてしまったことが信じられなくてしばらく固まってしまった。
「……大丈夫、帰ってもらったからね」
「ほ、んとか?」
「本当だよ。でも……ふ、はは、バレちゃったな」
飲み込んだはずの震えがまた沸き起こり、ごまかすために手を強く握りしめた。それでも呼吸の乱れを止められない。
青井の目の前ではつぼ浦がなにか言いたそうに口を動かしている。頭も口も回らなくて上手く言葉が出ないのだろう。しかしまだ青井の名前は呼べた。今日はワクチンは必要ない。きっとお腹が空いているから感染していない心無きを探しに行かなければ。最近は数が減ってなかなか見つからずいつも帰宅が遅くなってしまう。こんなことでつぼ浦を苦しませるわけにはいかない───そんな青井の思考を打ち砕くように、「もうそれはつぼ浦さんではない」という成瀬の的外れな指摘が胸に深く突き刺さっていた。
「つぼ浦だよ。……つぼ浦なんだよ」
気づけば涙をボロボロ流して青井はつぼ浦に抱きついていた。背中に手を回してもスウェット越しに伝わる体温は冷たい部分のほうが多かった。
最初はただ嬉しかった。奇跡のようにとりとめた命だった。しかし毎日少しずつつぼ浦はつぼ浦ではなくなっていく。
足掻けば足掻くだけ終わりの訪れを拒否できるのなら、手段を選ぶ理由はなかった。青井の天秤の片側に乗った愛はあらゆる全てを凌駕するほどに重いのだ。
それでも、自分を慕う後輩との関係も軽い方の皿に乗せることになるとは思っていなかった。
「……もうここにはいられないか」
グズグズになった目を何度も擦り、青井はやっと顔を上げた。目尻が痛むほどに涙をぬぐい取って部屋の中を見回す。
つぼ浦が元気な頃からこの部屋は二人の愛の巣だった。初めて身体を重ねたのは寝室のベッドだ。猛烈に恥ずかしがりながらも身体を許してくれた日のことを青井は今でも鮮明に覚えている。
今こうして向かい合っているリビングでも何度も抱き合った記憶がある。ゾンビ化したときにつぼ浦が暴れて落としてしまったが、まだ無事な写真立てが棚の隅に置いてある。他にも大切な思い出がたくさん。
そしてあの日、つぼ浦が感染してからの記憶も。
「つぼ浦、お引越ししよう!新しい家探そう」
感傷的な気分に浸っている暇はない。青井は気分を切り替えるように手をぱんと叩いた。
明るく振る舞う青井とは裏腹につぼ浦は浮かない顔で毛布を握りしめている。
「あおせん、だい、じょ……」
「大丈夫だよ、俺がいるからね」
「そ、じゃな、」
「心配しないで、すぐ準備するから」
青井は声を上げようと口をぱくぱくさせるつぼ浦の頭を優しく撫でる。部屋の中をバタバタ歩き回る青井のことを、つぼ浦は無事な方の目で追うことしかできなかった。
機転と頭の回転が売りだったはずなのに、ゾンビになりかけてからつぼ浦の頭には常に霧がかかったようでもどかしい気持ちを抱えていた。頭が動いても言葉が出ない。言葉が出るときは頭が動かない。泥酔した夢遊病患者のごとく、意思の疎通が困難だった。
それでも人格が損なわれたわけではない。体の半分が冷たい死体になってもつぼ浦はつぼ浦だった。手に力を込め、玄関から二人分の靴を持ってきた青井の腕をしっかり掴んで引き止めた。
「どしたの?」
「いくの、か?」
「……うん。お前のこと、誰にも渡したくない」
青井はまっすぐにつぼ浦を見た。今なにもしなければこれから起こるであろうあらゆる全てが青井にとっては悪夢だった。
「あおせん……」
それは強い決意と深い深い愛情だった。つぼ浦の左目にうっすら涙が浮かんだ。ぎゅっと目を閉じて、次に目を開いたときには元気だった頃と同じ、不敵な光が宿っていた。
「いこう、ぜ!」
「……そうだね!うん、行こうか」
伸ばされた手をしっかりと掴む。
この温かい手を離さなければ暗い海でも泥の船でもきっとどこまでも行ける。
青井はつぼ浦を抱き上げた。
*
流れる街灯がサングラスに反射し光の筋を残す。広くはない車内に何度目かのため息が落ちた。
「まさからだおくんが、ね」
ハンドルを指でコツコツ叩き、ドリーは苦い声でつぶやいた。
さほどスピードをあげないまま、サイレンも鳴らさないパトカーが夜道を走る。いつもより丁寧に角を曲がり、アクセルを踏む足にもまるで力が入らない。
「教えてくれて、……まあ、ありがとうって言えばいいのかな」
「……そうっすね」
助手席のシートに深く背中を預け、成瀬が複雑そうに答えた。
「心無きの殺害に、ワクチンの窃盗……気持ちはわかるけどね、でもまさかそこまでとはね」
「つぼ浦さん死んだのにやけに落ち着いてるなとは思ってたけど、あんなにこじらせてるとは思わなかったっすよ」
成瀬のスマホには警察の死亡者リストが表示されていた。特殊刑事課つぼ浦匠を処分した人の欄には青井の名前が書かれていた。青ざめた顔でつぼ浦の死を告げてきたあの日から、誰にも悟られぬまま青井はずっと嘘の向こう側にいた。つい先程、成瀬が手を突っ込むまでは。
「でもあいつ、俺に当てなかったんですよ。だから、……だからまだ戻れると思うんっすよね」
成瀬はためらいがちにドリーに訴えながら、青井に撃たれた瞬間のことを思い出していた。2発の弾丸はかすりもしなかった。青井のエイムが終わっているからではない、きっとあれは躊躇か恩情か。どちらにしろ成瀬はそれ以上踏み込むことができず、一旦引き下がって同じ黄金世代、そしてなによりもこういうときに話のわかるドリーに相談したのだった。
「俺だって失いたくないよ。同期だし、この状況でらだおくんが抜けるのは痛すぎる」
いつも鷹揚としているドリーの声にも焦燥が見えた。
大ごとにしたくないのはドリーも同じだった。警察がゾンビを匿って、あまつさえワクチンを盗んでいたなど士気の低下にも繋がりかねない。しかもその犯人があの青井とは。人徳の高さはそれが暴落したときの穴の深さに等しい。
青井のアパートはすぐそこだった。近づくにつれて成瀬の息が浅くなる。発砲してきたときの青井の顔が頭に焦げ付いて離れない。まだ憎悪や殺意を向けられる方がましだった。それはまるで巣穴を守る猛獣で、いつものようにマンゴーと三人で馬鹿騒ぎしていたときの青井はどこにもいなかった。
成瀬は嘘を見抜いた。あの部屋の中には嘘がある。青井が一体何と暮らしているのか、精神はどんな状態なのか、考えれば考えるほど正解がわからない。
「俺たち、正しいんっすよね?」
沈みきった声がペンギンの向こうから漏れた。ドリーはゆるくブレーキを踏む。
「けど止めないわけにはいかないでしょ。正しいとかどうかよりも」
「……でも、つぼ浦さんを奪っても、あいつ……戻ってきますかね」
成瀬の独白に返事はなかった。
階段を駆け上がり、二人は足音を忍ばせてドアの横の壁に張り付く。中の音を伺うが、金属製の扉の向こうに気配はない。試しにノックをしてみるが変わらなかった。
ヘリで来ればサーマルで見れたのにな、と成瀬はふと思ったが口にはしなかった。そこまで事を大きくしたくなかった。このまま内輪で片が付けば、と考えていた成瀬の目の前でドリーが鍵を撃ち抜いた。
ドアを蹴破ったドリーに続いて、背中を押されるように成瀬も部屋に入った。入るなりぐにゃりとしたものを踏みつけて思わず足を引き上げた。生々しい肉の塊が汚れたビニール袋と一緒に落ちていた。
部屋の中は電気が消えて真っ暗だった。ドリーは銃を構えたまま右側のドアを開けた。途端に溢れた生臭い匂いに顔をしかめ、手探りで電気をつける。
「うわっ……」
「なんだ、これ」
そこは台所だった。まず目に飛び込んできたのは赤黒いもので汚れた調理台だった。白かったであろうまな板にも古いものから新しいものまで血がべっとりこびりついていて、横に包丁が何本も置いてある。
部屋に漂うすえた匂いで二人は思わず鼻を手で覆った。変色した血のついたビニール袋が黒いゴミ袋に乱雑に押し込まれている。捨てに行く気力がないのか、あるいはもうどうでもよくなったのか、ゴミ袋は棚の隙間で山になっていた。
見た瞬間の印象は殺人現場、だろう。あるいは証拠隠滅のための解体現場か。青井の抱えている嘘、その真実がこれだった。二人とも流石に声を失って異様な部屋の様子を見回す。
冷蔵庫のドアにも血の手形が残っていた。成瀬が恐る恐る開けてみると中は部屋の惨状とは似つかわしくないほど綺麗で、皿に盛られラップで包まれた赤い肉と未開封のサンドイッチが並んで置かれていた。
「……リビング見てくる」
「お、俺も行きます!」
先に部屋を出たドリーに続いて成瀬も地獄のような台所から飛び出した。
廊下を進みながら途中のドアを開ける。トイレ、風呂、物置き、そのどこにも人影はない。
突き当りのドアの向こうでなにかの音がした。ドリーは銃を構えるべきか少しだけ悩んだ。隣で呼吸も早く身構えている成瀬は銃を持っていない。ならば自分だけでも持つべきだと判断し、勢い良くドアを開けた。
「らだおくん、動かないで!」
「とりあえず、話!話をしましょう!!」
部屋の中は真っ暗だった。成瀬がフラッシュライトで部屋の中を照らすが、家具が壁に不気味な影を伸ばすだけで人の姿はなかった。
ベランダに続く窓が開いていた。外から吹き込む夜風でビリビリに破れてかろうじて残ったカーテンの残骸が音を立てて揺れていた。
「ああ……遅かったか」
ベランダの鉄柵に縛られたロープが暗い地面まで伸びている。ドリーは大きく息を吐いた。眼下にはただ夜のしじまが広がるばかりだった。
成瀬は寝室のクローゼットまで確認したがやはり誰もいなかった。電気のスイッチを見つけて明かりをつける。ドリーと顔を見合わせて、すぐに目をそらした。
明るくなったリビングもやはり異様な様子だった。カーテンだけでなく、壁には血の染みと一緒に爪痕がいくつも残っている。しかし家具は妙にきれいなことに気づいて二人は部屋の中を見回した。
テレビの前の床には毛足の長いラグと毛布、二人分のクッションが置いてある。ソファーには雑誌や本が乗っていて、床で暇つぶしに誰かが読んでいたのだろう。
テーブルの上にはトランプやボードゲームがまとめておいてあった。広げられた盤面にはコマが乗ったままで、残りのコマやカードは2つに分けてあった。ドリーはそのコマを一つ取ってしげしげと眺めた。盤面から察するに赤が優勢のようだ。なんとなく、崩さないようにコマを元の位置に戻した。
つまづきそうになって成瀬はテーブル横の段ボールに気づいた。ガムテープで補強した段ボールには皿が2枚乗っている。1枚はパンくずが残っているが白くきれいで、もう1枚は血と肉の染みが乾いてこびりついていた。
ここには、明らかに二人がいた。
その結論に達し、ドリーと成瀬は同時にため息をついた。
「……俺、ゾンビになったつぼ浦さんを諦めきれなくて監禁してると思ってたんっすよ」
棚に置かれた小物を眺めながら成瀬がぽつりと言った。
「それか、あいつおかしくなって、居もしないつぼ浦さんと暮らしてると思い込んでるのかって」
写真立てにはふざけたポーズで腕を組む二人の写真が収まっていた。その隣のひび割れた写真立てにも、たくさん。
この部屋でなにが起きていたのかは二人には想像しかできない。つぼ浦は明らかに人間ではなく、青井はなにをしてでもそれを養っていたのだろう。
しかし真実が何だとしても、ここは二人の思い出の詰まった部屋に間違いなかった。
「……助けられると思ったんだよ」
何度目かの汗が成瀬の頬を伝った。嘘を暴き、開いたパンドラの箱の中身は成瀬が思っていたものとはまったく違った。実情がどうであれ間違いなく二人はここで一緒に暮らしていた。
嘘を暴く必要などなかったのかもしれない。その結果、二人は手の届かないところに消えてしまった。
壊してしまったものの残骸だけが成瀬の眼前に広がっていた。
無言で部屋を見ていたドリーの目が、ふと壁際のゴミ箱に止まった。中に放り込まれていたのはスマホと、警察無線だった。
「ああ、そうなんだ……」
肩からどっと力が抜けてドリーは深い溜息をついた。ポケットから取り出したスマホを操作して、それから自分の警察無線に告げる。
『みんな、よく聞いて。……らだおくんをリストに入れておいた。警察の、死亡者の』
間髪入れずに青井が噛まれた?!とざわつき悲鳴にも近い無数の声が無線から返ってくる。ゴミ箱の中の青井の無線機からもその声が漏れていた。ドリーは重たい手で無線機の電源を切った。
「いいんすか?これで」
「これでいいよ。……どちらにしろもう戻らないよ」
電源を切られ冷たいだけの機械になった無線を見てドリーは苦々しく息を吐いた。
口を挟むタイミングを逸した成瀬は持ち上げかけた手を力なく下ろした。本音と建前に挟まれて、ある意味これがドリーの最大の情けなのだろう、そう思うしかなかった。
あとに残ったのは踏み荒らしてしまった部屋だけだった。
「あーあ、青い悪魔が抜けたかー」
軽口を叩いてみても虚しかった。成瀬の胸に苦い感情が雪崩のように押し寄せる。
どこに目をやっても地獄のような世界で精一杯生きようとした二人の痕跡しか見えない。なのにその床には他人の土足の足跡がいくつもついていた。
「……気づいてあげられなかったな」
ドリーの声には深い後悔の色が見えた。完璧に仕事をこなす青井が実はどこまで壊れていたのか、誰もが自分のことで精一杯で、同期とはいえ他人の実情にまで気を回すことができなかった。
その結果が取り返しのつかない離別だった。
開いた窓からぬるい風が部屋に吹き込む。家主の消えた部屋には二人分の後悔だけが残された。
「ゾンビの処分係も考えないとね。まあとりあえず俺が……」
「俺がやりますよ」
気分を変えようと実務の話をしはじめたドリーの言葉に今度こそ成瀬が割って入る。
「え、いいの?でも」
「はい。だってこいつら、多分きっと……」
幸せだったのだろう。
その言葉を続けることが、成瀬にはどうしてもできなかった。
コメント
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成瀬の後悔もドリーさんの悔しさもすごく分かって……😭😭今までの話で二人の幸せな生活を見せてからの、他の人視点で「きっと幸せだったのだろう」はほんとに😭😭(語彙力) 部屋を見ていくにつれて二人の生活の解像度が上がっていくの本当に辛かったです。もうそこにはないのに。 素晴らしいお話を書いてくださりありがとうございます。曲も聞きましたがドンピシャすぎました。折り返しということで続きも楽しみにしています!
お話の途中ですが今作のイメソンはバンプの「ゼロ」です、あまりにもドンピシャ過ぎて泣きました。タイトルも僭越ながら歌詞から取らせていただいております。 ここが折り返しです。またちょっと時間空きますがお待ちください…