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湊に今までの不満をぶつけてから1ヶ月半が経った。
「美月、残業で遅くなるから先に寝てて」
「え、また? 最近毎日じゃない?」
「月末だから仕方ないよ。でも土曜出勤は無いから出かけよう、美月新しく出来たショッピングセンターに行きたいって言ってただろ?」
「え、いいの?」
「ああ」
湊はあれから優しくなった。
仕事が忙しくてすれ違いの生活は続いているけれど、今までと違って気を使ってくれてるのは分かる。
「ありがとう、楽しみにしてるね」
「ああ、じゃあ行って来る」
湊は優しく微笑み、出かけて行った。
だんだんと二人の関係が良くなってきている気がする。
相変わらず寝室は別だし、スキンシップは無い。それでも湊が努力してくれてるのは分かるからしばらくその事には触れないと決めた。
本音を言えば寂しい。
だけど、こうやって少しずつ昔みたいに戻れたら、自然と抱き合える日が来るかもしれない。
湊が使ったカップを洗い、部屋をざっと片付けると私も出勤の時間になった。
「遅刻しちゃう」
慌てて玄関に向かう途中、バッグの中で着信音が鳴った。
マンションを出て確認すると、湊からのメッセージだった。
【久しぶりに虹を見たから】
写真付とひとことだけ。
だけど凄く幸せな気持ちになった。
感動したときに、私を思い出して伝えてくれた事が嬉しかった。
湊のメールのおかげで、爽やかな気持ちで出社した。
いつも通りカフェラテを買って、総務部のオフィスに向かう。
オフィスの半透明のドアを開けると、私の席に誰かが座っているのが見えた。
……誰?
ディスプレイの影になっていてよく見えない。
近付いて顔を確認した私は、一気に嫌な気持ちになった。
「あの……そこ私の席なんですけど」
そう言うと、私の席に堂々と座っていた藤原雪斗はゆっくりと顔を上げた。
「知ってる」
「……知ってるならどいて貰えますか?」
「旅費担当者に用が有るんだけど」
「え……」
それは私の担当だった。
「何か問題があったんですか?」
「海外出張の精算の件で」
「ああ……」
そう言えばインドネシアに視察に行くと申請が上がっていたっけ。
「立て替分で領収書が無いのが有るんだけど」
「それなら申請書がありますから記入して上司の承認を貰って送ってください」
「……面倒だな、前はそんな処理なかったけど?」
「そんなはずないです、規則ですから」
「ふーん、じゃあ前の担当者融通利かせてくれたって事か」
まるで、私が融通が利かないと言われてる様な気がした。
なんとなく責められてるような気分になったけど、会社の規則を破って融通する方がおかしいはず。
「私はルール通りにしかやりませんから。精算したかったら申請書出して下さい」
はっきり言うと、藤原雪斗はつまらなそうな顔をした。
「入ってきた時は珍しく機嫌良さそうに見えたけど、やっぱりいつも通りか」
「いつも通りって?」
「素っ気なくて、愛想なくて、可愛くない」
「はっ?」
素っ気なくて愛想もないって、私が藤原雪斗に対して思っていたのと一緒な気が……しかも可愛くないってオマケまで付いてるし。
と言うより、なんでこんな失礼な発言をされないけないんだろう。
以前にも飲み会で、欲求不満とか有り得ないこと言われたし。
社内では完璧だって噂のエリートかもしれないけれど、性格は最悪。
「用はそれだけですか?」
本当は言いたいことが山ほど有るけど、我慢するしかない。
私まで変なことを言って、オフィスで喧嘩なんかしたくないし、もう藤原雪斗とは関わらないようにしよう。
私の拒否のオーラに気付いたのか、藤原雪斗は何か言いたそうにしながらも総務部を出て行った。
……感じが悪い。なんなのかなあの人。
まだムカムカしたまま、すっかり冷めてしまったカフェラテを飲んだ。
それにしても、藤原雪斗があんな性格だとは知らなかった。
女性問題はあるにしても、もう少し落ち着いている感じの、少なくとも同僚に変な嫌みを言うイメージは無かった。
噂はやっぱり相当美化されているんだな。
そんな事を考えてたら、「秋野ーちょっと来てくれ」と三列先のエリアにいる江頭課長に呼び出された。
「何か有りましたか?」
失敗でもしたのかと心配していると、課長は一枚の紙を見ながら言った。
「秋野に異動の内示が出た。来月十日から営業部勤務だからそのつもりで」
「え、営業部? な、なんで……」
驚きのあまり敬語も忘れてしまう。
だって管理部門から営業部門への異動なんて滅多に無い。
今の部署からの移動を希望していない私が、営業部勤務になるなんて思ってもいなかった。
「営業部って言っても内勤の事務だから心配すんな。前任者が妊娠して急に辞めることになったからその補充だそうだ」
補充って……来月からなら異動まで半月も無いじゃない。
「引き継ぎは早速今日からやっていいから。あっちは休みがちだから居る時にサッサとやってな」
江頭課長が軽く言う。
「……今の私の仕事はどうするんですか?」
「後任居ないから宮本成美に引き継いで。あいつは暇してるから大丈夫」
「……はい、わかりました」
私は不満を呑み込み、返事をした。
言いたいことは山ほどある。営業部勤務も嫌だし、短く不確かな引き継ぎも不安が有る。
自分の後任が居ない事も、なんだか虚しい。大した仕事をしてなかったって言われてるみたいで。
でもただ嫌だって気持ちだけで、異動命令を断れない。
朝の幸せな気持ちが消えてしまうようだった。
営業部は同じ会社でも、だいぶ雰囲気が違っていた。
総務部に比べて騒然としていて、落ち着きが無いというか……。
なんとなく緊張しながら目当ての人物に近付いて行く。
「総務部の秋野です。引き継ぎに来ました」
「あっ、ちょっと待ってね」
引き継ぎをしてくれる女性社員、皆川さんは私をチラッと見ただけでかかって来た電話を取ってしまった。
そして放置される事十分。
なかなか電話は終わらない。
居たたまれない気分でいると、視線を感じた。
顔を上げ辺りを見回すと、少し離れたところに居た藤原雪斗と目が会った。
……そう言えば、これからは藤原雪斗と同じ部署なんだ。
あんな嫌なやつと毎日顔を合わせないといけないなんて……ため息しか出て来ない。
藤原雪斗から目を反らすと、ちょうど皆川さんの電話が終わったところだった。
「ごめん、待たせた」
「いえ、大丈夫です」
「そう、じゃあ座って」
皆川さんは早口で言うと、隣の椅子を勢いよく引いて私に勧めた。
……すごいサバサバしてる人だな。
そんな第一印象通り、引き継ぎは細かい事は気にせずハイスピードで進んでいった。
「この場合は藤原君に聞いて処理して」
「これは課長に確認してから処理」
ハイスピード引き継ぎで休む間もなく、あっという間に定時になった。
……疲れた。
覚える事は沢山有るし、やり方は総務と全然違うし。
殴り書きしたノートを片付けていると、皆川さんが私の顔を覗き込んだ。
「どう? やっていけそう?」
無理です。 なんてはっきり言える訳もなく私は曖昧に笑いながら言った。
「まだ初日なので何とも言えません」
「そっか、疑問に感じた点とか有った?」
「疑問と言うか……マニュアルが無いのが気になったんですけど、作ってないんですか?」
今日の引き継ぎには一切資料を渡される事が無かった。
内容は濃いのに全て口頭。
マニュアルが有れば楽なのにって何度も思った。
「マニュアルはこれと言って無いな、イレギュラーが多いし、やって覚えた方が早いから」
「……そうなんですか」
「分からないことが有ったら藤原君に聞けば大丈夫だから安心していいよ」
全く安心出来ない。むしろ不安。
引き継ぎ中も何かと『藤原君』って出て来てたけど、あの人そんな簡単に話しかけられる雰囲気じゃないし、また変な事言われたらと憂鬱になる。
ただでさえイレギュラーって嫌いなのに、その度藤原雪斗に教えて貰うなんて憂鬱すぎる。
でも皆川さんは藤原雪斗を信頼しているようだった。
仕事が出来るって噂は聞いてたけど、噂以上に営業部では頼られる存在のようだった。
でも、私は必要以上に関わる気はないけど。
それなのに、帰る直前また藤原雪斗と目があった。
怒っているような強い視線……また文句でも言ってくる気?
身構えていると、予想外に藤原雪斗は何も言わずに営業部のフロアを出て行った。