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第六話 神は遠く声は近く
冬の朝の空気は、刃物みたいに澄んでいる。
吐く息は白く、けれど寒いとは思わなかった。
この程度の冷たさで身を縮めるほど、やわな育ちではない。
「本日は教会へ参りましょう」
アディポセラ様の声は、いつも通りやわらかい。
「……教会、ですか」
そう返すと、あの人は嬉しそうに微笑んだ。
まるで、聞き分けの良い子どもを見るみたいに。
「ええ。町の方々も集まりますし、きっと良い経験になります」
良い経験、か。
私は黙って頷いた。
従うのが役目だ。考える必要はない。
考えたところで、口にすれば面倒になるだけだ。
石造りの大きな教会。
尖塔は空を突き刺すように高い。
人々の視線が、馬車から降りた私に集まる。
珍しい獣でも見るような目。
慣れている。
北から連れてこられてから、ずっとそうだった。
教会の中は、冷えた石の匂いと香の煙で満ちていた。
入口の壁に、板が掛けられている。
細かな文字が並んでいるのが見えた。
読めない。
だが、昔どこかで聞いたことがある。
身分によって座る場所が違う、と。
「こちらですよ」
アディポセラ様が前を指す。
数歩進んでから、あの人は足を止めた。
「……あちらに座ってください」
後ろの長椅子。
ああ、そういうことか。
「はい」
それだけ答えて、私は後方へ向かった。
当然のことだ。
奴隷が前に座る理由などない。
礼拝が始まる。
司祭の声がラテン語で響く。
その響きは、遠い記憶を揺らした。
──北の国でも、同じ言葉を聞いた。
石の聖堂。凍りつく朝。
薄いパンの匂いと、古い蝋燭の煙。
孤児だった私を拾った教会で、
毎日のように聞かされた言葉。
そして一度だけ。
誰もいないはずの祈りの時間に、
確かに“声”を聞いた。
言葉にはならない、けれど意味だけが胸に落ちてくる声。
あれが何だったのか、今も分からない。
けれど私は、あの瞬間だけは確信していた。
神は、遠くにいるだけの存在じゃないと。
あの声は、きっと、神だった。
前方の席に座るアディポセラ様の背を見る。
まっすぐで、誇らしげで、疑いのない背中。
私が文字を読めぬから、
御言葉も分からぬと思っているのだろうか。
神を知らぬ、哀れな存在だと。
教会に拾われた孤児を。
凍える石床で祈っていた子どもを。
神の声を聞いたこの身を。
……侮るなよ。
胸の奥が、じり、と熱を帯びる。
だが表情は動かさない。
祈るふりくらい、いくらでもできる。
礼拝が終わり、外へ出る。
前庭で、貴族の女がアディポセラ様に話しかけていた。
「ごきげんよう、アディポセラ様。その美しい方は?」
「北から来た子ですの。まだ文字も読めませんけれど、信仰を学ばせているところですわ」
聞こえている。
全部、聞こえている。
胸の奥で、何かが静かに軋む。
学ばせている。
与えている側の言葉だ。
私は目を伏せたまま、何も言わない。
言ったところで、届かない。
帰りの馬車の中。
「今日の礼拝はどうでしたか?」
問われて、少しだけ考える。
本当のことを言えば、面倒になる。
「……静かでした」
それだけ答える。
「ええ、とても良い教会でしょう?何度も通えば、きっともっと落ち着いて祈れるようになりますよ」
嬉しそうな声。
窓の外で、教会の尖塔が遠ざかっていく。
神は遠い。
けれど、あの朝に聞いた声は、
今も胸の奥に残っている。
あの人は知らない。
後ろの席から見上げる景色も、
石の床の冷たさも、
神の声が、時に人間より近いことも。
私は黙って目を閉じた。
祈りの言葉は、口にしないまま。