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第七話 偽りの祝宴
夜の空気は冷たく澄んでいた。
しかし、馬車の中の暖かさと、アディポセラ様の明るすぎる声で、体感温度などどうでもよくなる。
──晩餐会だ。
館の侍女たちの慌ただしい動き。
変に着飾られ、動きづらい。今すぐにでも脱ぎ捨てたい。
アディポセラ様の思惑はなんとなくわかっていた。
金や宝石が使われた高級なドレスを着て、化粧のおかげでなんとか美しさを保っている顔で晩餐会に参加するアディポセラ様。
豚に真珠とは、このことだろう。
本当によく言えたものだ。
馬車から降りると、煌びやかな光に包まれた広間が目に入った。
宝石のきらめき、絹の擦れる音、香水の甘ったるい匂い。
北の国にはない景色だ。
「アディポセラ様!」
次々に声がかかる。
その笑顔に私は慣れた。慣れたつもりだった。
しかし、内心で私の体は正直に反応する。
燭台の光に照らされた広間。
私は黙って後方に立つ。目の前の光景を、冷めた視線で見下ろす人々のように見つめる。
「やはり、恵まれない方々にも正しい導きは必要です」
アディポセラ様がワインを片手に楽しげに長々と語る。
「生まれではなく、与えられた環境が人を形作るのです。ですから、手を差し伸べることが大切なのです」
何度も聞いたことだ。
北の教会でも、聞いた。
だが、あの時は神の声として心に落ちた。
今は、人間の声として重くのしかかる。
人の上に立って、講釈を垂れるその言葉のたびに、胸の奥がざわつく。
北の孤児として生き延びた私に向けた、偽りの祝福。
その慈悲は飾り。
私を縛る鎖。
私は黙って従うしかない。
答えれば、余計な誤解を生む。
だから口を閉ざす。
「まあ、あの美しい方は?わたくしの許婚よりもお顔が整っておりますわね!」
「北から来た子です」
アディポセラ様は微笑み、私を紹介する。
「まだ文字も読めませんけれど、今、信仰と礼儀、文字の読み書きを学ばせているところです。」
「なんてお優しい!」
私は心の中で、毒を込める。
慈善、信仰、礼儀、そして自分の手柄。
どれも正しいことだろう。
でもその声の奥に、私への押し付けが潜んでいるのを知っている。
そのたびに、喉の奥が熱くなる。
笑えば、その熱が溢れ、怒りに変わる。
だが私は笑わず、黙る。
沈黙でしか、この場を生き延びられない。
晩餐会の一幕。
ひとりの紳士が、私を見下すように尋ねた。
「しかし……その者をなぜお側に? 奉公人にしては、ずいぶんと目立つ容姿だ。
しかも、文字も読めぬなら、それは猿と言っても過言ではなかろうに。」
──猿。
笑うのか、怒るのか。どちらにしても無意味だ。
答えは簡単だ。
あの人は、私を手放すつもりがない。
この場を飾るための存在として、置いているだけだ。
「ええ、確かにまだ粗削りで文字すら読めぬ猿と言っても良いところはあります」
私の心に、刃物のような言葉が響く。
「ですが素直で従順な子です。野の獣でも、きちんと手をかければ人の役に立つようになりますでしょう?」
野の獣でも、きちんと手をかければ人の役に立つ。
人形を褒めるような言葉だ。
……嬲るな。
指先が無意識に握りこぶしになる。
しかし、視線は小さな笑いが起こった前方へ向けたまま。
声は出さぬ。
言えば、すべてを奪われるのだから。
「時間はかかるでしょうけれど、あの子もきっと、神にふさわしい生き方を覚えてくれます」
私はひたすら背を正す。
足元を這いつくばりたくなる衝動を、押し殺す。
教会での慈悲は、ここでは飾りだ。
その飾りの影に、私を縛る鎖が見える。
人々は笑い、頷く。
私は冷めた目で見返すだけ。
何を言っても、届かぬ。
晩餐会が終わる。
館へ戻る馬車の中。
「今日は長かったでしょう」
アディポセラ様は酔いが回っていた。
「ですが、とても良い夜でしたわ。
皆あなたを珍しがっていましたけれど、悪くは言わなかったでしょう?」
声をかけられ、私は少し間を置いて答える。
「……はい」
──それ以上は言わぬ。
言えば、また正しさの鎖で縛られる。
それが嫌で、沈黙を選ぶ。
「少しずつでいいのです。ああいう場にも慣れていきなさい。あなたのためなのですから」
アディポセラ様は満足そうだ。
微笑む。
その顔を見るたび、私は思う。
アディポセラ様は、私を手放すつもりなどない。
祝福も、慈悲も、全部飾りだ。
私を縛る飾り。
窓の外に広がる夜。
馬車は静かに走る。
私は目を閉じ、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む。
言葉にならぬ祈りを心で繰り返しながら。
いつか、この飾りを脱ぎ捨てるために。