「いや、お母さんっ。
私は焼き牡蠣には日本酒が好きなんですけど。
ワインもいいですねー」
「あら、じゃあ、日本酒にしなさいよ、のぞみさん。
此処、日本酒もいいのがあるのよ」
伽耶子の行きつけだというダイニングバーに三人は来ていた。
「降ります、とか叫んでた奴、誰だろうな……」
運転手なので、酒の呑めない京平が言ってくる。
そういえば、私の車は駐車場に入ったままなんだが、と思っていたのだが、
「明日まで置いておきなさいよ。
駐車場代は私が払うから呑みなさい」
と伽耶子に言われたので、のぞみは素直に呑んでいた。
「あんたも車置いて帰るか、代行で帰ればいいじゃない」
と京平は伽耶子に言われていたが、
「いや、俺は坂下を送っていきたいんだ」
と言って、京平は固辞する。
「変わってるでしょ、この子ー」
と伽耶子は笑った。
「ほんとですねー、お母様」
と追従して笑うと、おい……という目で京平が見る。
「でも、専務は、学校でも、すごくモテてたんですよー。
生徒にも先生にもー」
「モテるのかもしれないけど、私だったら、こんな男と結婚するのは嫌だわー。
いろいろうるさいし、めんどくさいじゃない」
伽耶子の言葉に、はははーとのぞみは笑う。
「頑固だしねー。
一度、言ったことは、絶対、引っ込めないし」
「私とのことだって、そうですよ。
一度、私と結婚すると言ってしまった手前、結婚するしかないって感じで。
私のことなんて、好きでもなんでもないのに、ひどいと思いませんー?」
「……誰が好きじゃないって言った?」
と横から京平が口を挟んでくる。
「でも、好きだとは言われていません」
「言ったろうっ」
「かもしれない、くらいじゃなかったですか?」
と突っ込むのぞみの後ろから、笑って伽耶子が言ってきた。
「京平、あんた、いつから、のぞみさんを好きだったの?
高校からなら、犯罪よ~。
いやあね、自分の息子が犯罪者なんて」
のぞみさん、と伽耶子に呼びかけられる。
「うちの息子に送り迎えさせるなんて、貴女くらいのものよ。
ちゃんと結婚してやってよね」
「嫌です」
とのぞみは言った。
おい、と京平は言うが。
「だって、息子さんはわけわかんないし、おうちはお金持ちすぎて緊張するし。
おかーさまは、なんかキラキラしすぎてて、怖いし
私、絶対、結婚なんかしませんーっ!」
「……お前、俺でも言わないような恐ろしいことを」
と京平は炭酸水の入ったグラスを手に固まっていた。
だが、伽耶子は少しやさしい声で、
「京平にそんな言いたいこと言えるのも貴女くらいよ」
と言ったあとで、
「……京平をよろしくね」
と言ってきた。
……よろしく、
よろしくとか言われてしまいましたよ。
いまいち状況が理解できないまま、のぞみは酒の入ったグラスを両手で握っていた。
先に伽耶子を送っていくことになり、やはり豪邸……と闇夜にそびえる京平の実家をのぞみは眺めた。
ぜひ、結婚したくない。
こういういいおうちは、なんだか、しきたりで、きゅうきゅうにされそうで嫌だ、と思うのぞみの頭の中で、のぞみはベルサイユに居て、コルセットを着せらせ、ウエストを細くするために、きゅうきゅう絞られていた。
「どうした、いつもより更にショボイ顔をして」
……この人、思ったままをすぐ口にするの、やめてくれないだろうか。
のぞみは運転している京平の横顔をチラと窺う。
子どもの頃は思ってた。
素敵な王子様のような人とある日、運命的な出会いをして、恋に落ちて、結婚するんだと。
なんの疑いもなく、そう思っていた。
……童話を子どもに読ませてはいかんな、とのぞみは思う。
お幸せなシンデレラストーリーに洗脳されて、あとで困るのは、その子どもだ。
素敵な王子様は現れたけど。
別に運命的な出会いでもなく、転勤でやってきただけだし。
結婚することにはなったけど、恋には落ちてないし。
第一、
……この王子、本当に私を好きなのか、疑わしいんだが。
だって、私、なにもこの人に好かれるようなことしてないしっ。
ヘタレの、まだ全然使えない新入社員だしっ。
と京平が聞いていたら、
「よく自己分析ができてるじゃないか」
と言ってきそうなことを思う。
そのとき、京平が、
「ちょっと車とめて歩くか」
と言い出した。
「お母さんたちにも連絡してあることだし」
まめな京平は、のぞみの親への連絡を欠かさない。
「まず、馬を射なければな……」
とのぞみの家に連絡しながら、京平は呟いていた。
お父さん、お母さん、馬とか言われてますよ。
「お前が将かどうかはともかくとして」
……本当に一言多いですね。
私に好かれる気あるんですか?
実はなにかの怨念と因縁で、復讐のために結婚とか、とのぞみが妄想を膨らませている間に、車は川沿いの駐車場に着いた。
もっと早かったら、桜が綺麗だろうなーと思う桜並木があった。
今は緑の木々がずらっと続いていて、これはこれで綺麗だ。
川原には下りずに、上の道を京平と歩く。
青々とした木々の上に、少しおぼろな三日月が浮かんでいるのを見ながら、まるでデートみたいだな、とのぞみは思っていた。
京平も夜空を見上げながら、呟いている。
「少し霞んで、いい月だな」
「そうですね。
PM2.5か黄砂のせいでしょうかね」
「……よく女が男に、ロマンがないというが、うちは圧倒的にお前がロマンがないな」
そんな失敬な、と少し酔った頭でぼんやり思っていたが、あれ? と気づく。
手がつながれている。
誰かと。
いや、誰かとって、霊かなにかじゃない限り、専務なんだが、と思っていると、京平は前を見たまま、言ってくる。
「お前と手をつなぎたかったんだ。
……一緒に珈琲を飲みに行きたかったり。
手をつなぎたかったり。
お前と再会してからの俺は莫迦みたいじゃないか?
やりたければやればいいのにな。
仕事ならそうしてる。
お前のことも、お前の意見など聞かずともやればいいのに、なんでできないんだろうな?」
いや、聞いてください。
私にも、職場の人にも。
っていうか、貴方、結局、なにも聞かずに、勝手に結婚しようとしたり、キスしようとしたり、手を握ってきたりしてますよ。
言いながら、……おや、順番がおかしいぞ、とのぞみは思っていた。
普通、手を握る。
キスをする。
結婚する、では?
いや、そもそも、もっと最初が抜けている、と思うのぞみを振り返り、京平は言ってきた。
「何故、お前だとできないんだろうな」
そう言う京平の後ろには、あの三日月の朧月があって。
なんだか夢のような光景だな、とのぞみは思う。
昔から、この人のこと、格好いいとは思ってたんだよな。
だから、みんなにつられたとはいえ、チョコレートもあげてしまったのだ。
……まあ、ハッピーバレンタインー! ではあったが、とあの夕暮れどきの学校の昇降口を思い出す。
あまり日の差さない下駄箱の前。
湿ってひんやりした空気の中、廊下を歩いてくる京平を見かけた。
ずいぶん軽い感じにくれたと京平は言うが。
いや……、恥ずかしかったからですよ、と当時を思い出し、のぞみは思う。
だから、渡したあと、先生の顔も見ずに駆け出した。
そんな風に封印していた思い出に浸るのぞみの頭の上で、京平はまたなにやら怒っている。
「何故、お前のような元生徒の小娘に、俺はこんなに遠慮がちなんだっ」
知りません……。
「お前を見ていると、イライラしてくるっ」
なんか学生時代にもそう言って怒られた気がする、と思っていると、
「顔も見たくないっ」
と京平は言い出した。
じゃあ、帰れ、と思ったのだが、いつの間にか、両手を握られていた。
「お前を見ていると、落ち着かなくなるんだ。
まるで俺が俺じゃないみたいに。
俺の人生の主導権は俺が握っていたいのに。
妻なんて添え物でいいと思っていたのに」
おい……。
「お前と居たら、お前が俺の人生の中心になるんだよ。
ほんと顔も見たくないよ。
毎日、イライラして、自分が駄目な人間みたいな気がして、情けなくなってくる」
月を背にした京平は、
「――いつからだろうな」
とまっすぐのぞみを見つめ、言ってきた。
「俺は、いつから、お前が好きだったんだろう?」
伽耶子に言われてから、ずっとそのことを考えていたようだった。
のぞみの両手を握ったまま、一歩近づいた京平がキスしてきた。
長いですよ、今日は……。
そう思いながらも、周りの光景が夢のようなので、酔ったのぞみは、そのまま、ぼんやりとしていた。
「駄目だ、帰ろう」
と焦ったように京平は言い出す。
「このままでは、お母さんたちの信頼を裏切るようなことをしてしまう。
まず、馬を射って、外堀を埋めねば」
のぞみの手を引き、慌てて帰ろうとする京平はそんなことを言ってくる。
のぞみの頭の中では、馬が射られて、お城のお堀に埋められていた。
車に乗るまで、ひとり何事か考えていたらしい京平は、乗った瞬間、言い出した。
「結婚しよう、のぞみっ。
そしたら、なにをしても文句を言われないはずだっ」
そうだ。
来週辺りにっ!
と勝手に決めて、高らかに言ってくる。
「俺はもう、そのくらいしか待てないからなっ」
なにをですか……? と思うのぞみの横で、京平は車を出しながら、
「さあ、早くお前を連れて帰って、お母さんたちの心証をよくしようっ」
と叫んでくる。
この人、計算高いんだか、ちゃんとしてるんだか、よくわからないな、と思いながら、のぞみは家まで送られた。
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