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翌日、京平は落ち着かない気持ちでのぞみを待っていた。
昨日の今日だ。
どんな顔で会えばいいんだろうな? と仕事をしながらも、何度も専務室の扉を窺っていたのだが。
「失礼します」
と専務室に入ってきたのぞみは、
「これとこれとこれ、急ぎみたいですよ。
あ、昨日はどうもありがとうございましたとお母様にお伝えください。
では」
と頭を下げ、あっさり出て行こうとする。
「待て」
と言うと、のぞみは、はい? と振り返る。
「のぞみ」
と呼びかけると、初めて、そこで、のぞみは赤くなった。
……何故、今?
ちょっと嫌な予感がしながら、京平は、
「なんで今、赤くなった?」
と訊いてみた。
「えっ。
だって、急に専務がのぞみとかおっしゃるので」
「……昨日から呼んでるよな?」
と確認するように言うと、ええっ? とのぞみは叫ぶ。
それが、と苦笑いしながら、のぞみは言ってきた。
「いや~、今朝もなんか頭痛くて~。
専務の車に乗った辺りから、なんにも覚えてないんですよね~」
「覚えてないっ?」
と言う京平の声が裏返る。
「はあ。
サザエの下の塩が食べもしないのに、昔ながらの製法で作られた天日塩だとシェフに聞いたところまでは記憶があるのですが」
「そんなどうでもいい細かい話は覚えておいてかっ」
のぞみは、いや~、そんな風にキレられても~という顔をしている。
……覚えてないのか。
俺は一生忘れまいと誓ったのに。
歳をとっても、何度も思い出すだろうと思ったのにっ。
あの朧月の夜にしたキスをっ。
まあ、のぞみに言わせれば、PM2.5か黄砂により、霞んでいるだけだそうだが……。
だが、覚えてないのなら、それもいい。
京平は、やはり、えへ、と笑っているようにしか見えない誤魔化し笑いで後ずさりつつある、のぞみに言った。
「そうか。
覚えてないのか。
……実は昨夜、もう俺たちは結ばれたというのに」
「そっ、それは嘘ですーっ!」
と真っ赤になったのぞみが叫び出す。
ちっ、と京平は舌打ちをした。
「処女は騙せんか……」
「当たり前ですーっ」
とのぞみは叫ぶ。
のぞみが専務室から出ると、デスクに座ってイヤホンでなにかを聞きながら、ノートパソコンに打ち込んでいた祐人が顔をあげて言ってきた。
「なに騒いでたんだ?」
と。
またまた、御堂さん、とのぞみは思う。
分厚い専務室の扉の向こう。
しかも、イヤホンをしていた祐人に、なにも聞こえるはずがないと思ったのだ。
だが、
「……いや、今日はほんとに聞こえた」
あれだけ騒げばな、とICレコーダーを止めながら、祐人は言ってくる。
「お前は専務を怒らせる天才だな」
「なのに、何故、あの人は私と結婚しようとしてるんでしょうね?」
「好きだからだろ?」
そこにA4の紙ならあるだろ、と言うのと変わらない口調で祐人は言ってくる。
「そんなこと……」
と言いかけたのぞみの頭に、ふっと浮かんだ。
夜の川べりで、月を背に立つ京平の姿が。
『――いつからだろうな』
まっすぐ自分を見つめ、京平が言ってくる。
『俺は、いつから、お前が好きだったんだろう?』
……夢でも見たのでしょうかね?
いや、そんな、だいそれた夢、見るはずないと思うんですが、と思いながら、のぞみは専務室の扉を振り返った。
そのあとの京平は忙しく、特に私的な会話もできないまま、のぞみは仕事を終えた。
ただ、用事で覗くたび、なんだかわからないが、恨めしげな瞳で見られたのだが。
なにもなしに帰るのも、ちょっと寂しいものですね、と思いながら、失礼します、と専務室を後にする。
久しぶりにゆっくりお風呂に入り、アイスを食べながら、テレビを見た。
ははは、と笑いはするのだが、好きなお笑い番組も、なんだか前程、面白くない。
専務に振り回されずにゆっくりしたいなーと思っていた。
でも、実際にそうなってみると、なんだか味気なく……
「寝よ」
と立ち上がり、部屋に行った。
枕許にスマホを置いて、うとうとしていると、メールが入る。
京平からだった。
思わず、スマホをつかみ、飛び起きる。
いやいやっ。
いやいやいやっ。
別に、ものすごく喜んでるとかじゃないですからねっ、と思いながら、
『もう寝たか?』
という京平のメールに、
『寝てませんっ』
とすぐ送信しようとして、
『寝てません。
お疲れ様です』
と打ち直した。
もう十一時半だ。
今まで仕事だったのだろうか。
それとも、今から寝るところなのだろうか。
遅くまで大変でしたね、お疲れ様です、と入れたかったのだが、照れもあって、まるで、仕事の挨拶のように、
『お疲れ様です』
と入れてしまった。
すぐに、
『電話していいか?』
と入ってくる。
『はい、大丈夫です』
と入れると、電話がかかってきた。
ひーっ、かかってきたーっ、と当たり前なのに、動揺する。
「こ、こんばんは……」
思わず硬い声で出てしまうと、
『……こんばんは』
と京平もつられたように硬い返事をしてきた。
そのまま沈黙する。
『歯は磨いたか?』
唐突に京平はそんなことを言ってきた。
「は、はい。
専務はもう磨かれましたか?」
『……これからだ』
「そうですか」
また沈黙してしまう。
今日は結局、会えなかったから、せめて、電話で話したい、と京平は思っていた。
まだのぞみは寝ていないというので、電話する。
昨日のことを覚えてなかったこととか、問い詰めたいし、覚えてないのなら、ちゃんと好きだと言いたいと思っていたのだが。
のぞみは、
『こ、こんばんは……』
とやけに硬い声で出てきた。
「……こんばんは」
と京平もつられたように硬い返事をしてしまう。
そのまま、のぞみも自分も沈黙した。
まずい。
なにか言わなければ、と焦った京平は、
「歯は磨いたか?」
とうっかり、子どもに訊くようなことを訊いてしまう。
『は、はい。
専務はもう磨かれましたか?』
「……これからだ」
『そうですか』
いやいやいや。
俺たちは、なんの会話をしてるんだっ。
何故、深夜に、お互いが歯を磨いたかどうか確かめ合っているっ?
確かめ合わなきゃいけないのは、愛だろうっ!
と思いながらも、沈黙していた。
『そ、そういえば』
とのぞみが口を開く。
『私、昨日、車置いて帰った気がするのに、朝、車があったんですよね。
頭痛くて、ぼんやりしていたので、よくわからなかったんですが。
何処からが夢だったんですかね?
昨日、専務に出会ったところからでしょうか』
と無茶を言う。
そのうち、自分と再会した辺りから夢なんじゃないかとか言い出しかねないのぞみに、京平は、
「何処からも夢じゃないぞ」
と言った。
「お前は車を置いて帰った。
翌日、迎えに行くのにちょうどいいと思っていたのに、うちの母親が変な気を利かせて、お前の車を取りに行かせて、運ばせたんだ」
『はあ。
そういえば、小人さんが磨いてくれたみたいに、車の中まで、ピカピカになっていました』
あの母親。
気を利かせているつもりで、息子のチャンスをつぶしている……と京平は思っていた。
「送っていった俺がお父さんたちに歓待され、ぜひ、今度一緒に酒でもと誘われたのも知らないんだろう」
『はあ、すみません』
と言ったのぞみが、そこで小さく欠伸をする。
おっと。
あんまり長くしゃべるとしつこい男だと思われるな、と思い、
「遅くに電話して悪かったな。
おやすみ」
と言って、京平は電話を切った。
昨日のことをのぞみが覚えていないのは残念だが。
まあ、昨日の自分はなんだかいっぱいいっぱいで、みっともなかった気もするから、また、一から告白し直せるってことで、よしとしよう、と思う。
「おやすみ、のぞみ」
ともうつながってはいないスマホに向かい、話しかけたあと、それをベッドに置いた。
京平と話している途中で、のぞみはうとうとし始めていた。
京平から電話がかかってきたことと、少し話したことで、不思議な安心感が生まれたからだ。
なんだかわからないが、ほっとする。
小さく欠伸をすると、京平が、
『遅くに電話して悪かったな。
おやすみ』
と言って電話を切る。
おやすみなさい、専務……と思いながら、すぐに目を閉じた。
夢の中、夜の川辺に居る京平が必死になにか言っていて。
こんなこと言ったら、怒鳴られるだろうけど、なんか可愛いな、と思う。
ふふ、と笑ったのぞみは、そのまま、笑いながら眠っていた。