コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
しばらく夜の暗い海面を見つめて押し黙っていた彼が、「言いにくいんだが、」と、一言を前置きして、
「……その、新婚旅行のことなんだ」
そう重たげに口を開いた。
「新婚旅行、ですか?」そういえば、そんな話ってなんにもしてなくてと、今になって思う。
「……いろいろとスケジュールの調整を試みたんだが、どうもその……予定を空けられそうになくてな……」
うつむいて顔の半分を片手で覆い、心底申し訳なさそうに言う彼に、
「ああいえ、大丈夫ですから!」と、ねぎらうように手を大きく振って応えた。
「……本当にか?」
心もとなく尋ね返される。
「はい、だって貴仁さんの忙しさは、私もわかっていますから」
にっこりと笑顔を向ける。──掻き立てられていた不安が拭い去られたこともあったけれど、何より彼が二人の新婚旅行のことをそれほどまでに気にしてくれていたことが、私には単純に嬉しいことでもあった。
「私はまだ社長就任からあまり経っていないため、長期の休暇はやはり取りにくくてな」
よく理解していてと、こくっと頷いて返す。
「……すまない。君に寂しい思いをさせてしまうだろうと、なかなか言い出せなかった……」
小さく頭を垂れる彼に、
「いえ、謝ったりなんてしないでください!」
声を上げ、首を何度も横に振った。
「……その気持ちだけで、充分ですから。すまないなんて思わないでください」
うなだれて見える彼の頬に両手を当てて、
「だから、顔を上げていて」
その瞳を下から覗き込んだ。
「ありがとう……。君にそんな風に言ってもらえて、私は幸せに思う」
「私もです。あなたがそうまで考えてくれていたことが、とっても幸せ」
彼に釣られるように、先ほど私自身も思っていたことを口に出した。
「キス、してもいいですか?」
誰もいない夜の港という場所が、少しだけ私を大胆にさせる。
一瞬驚いたように目を見開く彼へ、にわかに顔を迫らせる。
本音を言えば、こちらからモーションをかけた時に垣間見える、そんな風に彼のちょこっとびっくりしたような表情が見たくて……なんていうこともあったのだけれど。
薄っすらと目の縁を赤く染める彼に、つま先立ちでチュッと唇を寄せた刹那──
片腕に引き寄せられ、胸の中に強く抱きすくめられた。
「……彩花、君を愛した私を、誇りに思う」
耳元へ囁やきかけられた言葉に、心音が一瞬でドクンと跳ね上がる。
二度目のキスは、貴仁さんの方から……。
夜の港で時折り潮風に吹かれて、私たちはいつまでも離れがたく抱き合っていた。