若井に手を引かれて寝室に来た元貴は、抵抗する気力もなく、大人しくなった。しかし、ベッドに横たわることはなく、隅の方で地べたに座った。若井もベッドのすぐそばの床に座り込む。
「寝ないの」
若井が手話で尋ねるが、元貴は返事をしない。若井の存在すら無視しているように、ただ虚空をぼーっと見つめている。
(聞きすぎると逆にうざいだけか)
若井はそう思い、何も言わずそっとしておくことにした。自分の膝を抱え、目の前をぼんやりと見つめる。
その視界の隅に、カーペットの上に落ちている小さいものが捉えられた。若井は手を伸ばしてそれを拾い上げる。
それは、元貴が普段使っている補聴器だった。
若井が手に取ってじっと見つめると、プラスチックの筐体に細かなひびが入っていて、あきらかに壊れているのがわかった。
若井がそれに目をやっていると、横から素早い動きで、元貴に無理やり奪われる。
元貴は奪い取った補聴器を握りしめ、若井から目をそらしている。その目が微かに泳いでいることから、補聴器を見つけられたこと、そして壊れていることが若井にバレたことにひどく動揺しているのが見て取れた。
「壊したの」
若井が手話で尋ねた。
その言葉を聞いた途端、元貴の表情が突然、怒りに変わった。目には再び涙が浮かび、若井に向かって体を乗り出してくる。
「ぉ、あぃて、ぁい!!」
元貴は、若井の胸元をめがけて、怒りに任せて突き飛ばそうとしてきた。喉から絞り出すような、不慣れな「声」だ。
「わ、壊してないんだな、分かった分かった」
驚いた若井は、元貴の体を受け止めながら、慌てて両手で手話を伝えた。
しかし、元貴の怒りは収まらない。「ぅああああぁぁっ」と叫びながら、若井の胸を何度も叩き続ける。若井はされるがままだ。
「ごめん、ごめん、元貴。壊してない、分かった」
若井は何度も手話で伝えようとするが、元貴はそれを無視して、ただ泣き続ける。
若井は静かに元貴の体を抱き寄せ、その背中をさすった。
(自分で壊したんじゃないんだな……)
若井は背中をさすりながら、思考を巡らせる。壊してないとしたら、勝手に壊れた? 落とした? いや、もしかしたら……誰かに壊されたのか?
しゃくり上げるような泣き声だけが、部屋に響き渡る。
「……ひっく……ぅう……」
若井の腕の中で、元貴の嗚咽は小さくなっていった。若井の胸に顔を押し付けていた元貴が、ゆっくりと顔を上げる。その目の周りは赤く腫れているが、感情の激しい波は引いたようだった。元貴は袖で雑に涙を拭った。
「水、飲む?」
若井は優しく手話で尋ねる。元貴は虚ろな目で若井を見て、首を横に振った。
若井は何か手話で話そうと思うが、元貴を刺激しない、適切な話題が見つからない。両手が宙で止まった。
その時、元貴が突然、脈絡のない話を始めた。
「今日、ご飯、作った」
元貴は、壊れた補聴器のことも、死のうとしたことも、何もかもを無視して、まるで何事も無かったかのように手話をする。
「偉いじゃん」
若井は反射的にそう返した。
「……でも、途中で、やめた」
元貴は暗い顔でそう話す。
「……なんで?」
「…ない」
元貴の手話は、いつも抽象的で何を指しているのかわかりにくい。「ない」と言われても、若井にはさっぱりわからない。
「…ない?どういう意味?」
問い返しても、元貴は首を横に振るだけだ。何を言いたくないのか、言えないのか。
元貴はふいに顔を上げた。
「若井、明日、大学」
それは、だから自分のことなどほっとけ、という意味だろう。元貴は、俺がここにいることで、自分の生活リズムを崩してしまうのを気にしている。
だが、若井はここから一歩も動く気は無い。
「大丈夫」
「大丈夫じゃないでしょ」
「いいの」
若井はきっぱりと拒否した。
元貴は「はぁ」とため息をつき、再び顔を伏せた。
元貴のため息を聞いて、若井は「これで少しは諦めたか」と思った。すると突然、元貴がベッドから立ち上がった。若井はすぐに気づき、元貴の腕を掴んだ。
「どこ行くの」
「風呂」
元貴は手話でそう答える。確かに、雨に少し濡れたし、体を洗い流したいのかもしれない。
「俺も一緒に入る」
若井はそう言って、元貴の返事を待たずに立ち上がった。元貴を一人にしたら、また何をしでかすかわからない。
「え」
元貴が何か手話で言おうとしたが、若井はそれを遮って、急いで脱衣所へ向かった。二人は一緒にシャワーを浴び、お風呂に入る。
先に髪を乾かした若井はベッドに腰掛け、元貴の部屋を観察する。元貴の部屋は、壁一面が本棚になっていて、文学書や哲学書がぎっしり詰まっている。その本たちとは裏腹に、部屋の隅には薬の空き箱や、読みかけの雑誌などが雑然と置かれていた。
若井がぼんやりしていると、元貴が部屋に戻ってきた。風呂に入ってさっぱりしたのか、少しだけ顔色が良くなっているように見えた。
元貴はベッドに横たわることなく、またベッドの端に座る。さっきまで若井が座っていた位置だ。
「寝よ、」
若井はもう一度手話で伝え、自分が先に布団に入り、元貴のスペースを空ける。
二人は、顔を向き合ったまま、シーツの中で横になった。若井は、元貴が眠りについたことを確認すると、そっと目を閉じる。
(明日も、俺が止めなくちゃならないのか)
そんな疲れた思いが、若井の胸の中を渦巻いた。そして、元貴がどうして死にたがるのか、いつか話してくれる日が来るのだろうかと、どうしようもない切なさに襲われた。
若井は、強く、深く、元貴の体を抱きしめ直した。
「……おやすみ」
声にならない独り言を、若井は暗闇に落とした。
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