深夜、若井が深い眠りについていたとき、近くでゴンゴンと、何か鈍い音が響いていた。眠い目を薄く開ける。部屋は暗闇に包まれていて、何も見えない。若井は目を凝らした。
暗闇に目が慣れてくると、自分に背を向けて横になっているはずの元貴が、上半身を起こし、背中を丸めているのがわかった。そして、自分の右手を右耳に当たるように、頭を殴りつけているのが見える。
(自傷だ)
そう気づいた瞬間、若井の眠気は一気に吹き飛んだ。素早く手を伸ばし、自らを殴る元貴の右手を、上から自分の両手でしっかりと覆い被せる。
急に動きを封じられた元貴は、ビクッと驚き、勢いよく若井の方を振り向いた。
暗闇で視界が悪い中、耳が聞こえない元貴はさらに不安だろう。
若井は静かに手話で伝えた。
「痛いよ」
元貴は、その言葉に対し、何も言わず首を横に振った。
強く握りしめていた元貴の手を、優しくさすって開かせる。
「手当しよう」
そう伝えると、若井はベッドサイドの電気をつけた。ほんのりと部屋を照らす光の中で、近くにあった除菌シートと絆創膏を取り出す。
元貴の手を見ると、爪が手のひらの皮膚に食い込んで、薄い皮が破れている。そこからにじむ血が、痛々しい。
(…また嫌な夢でも見たのか)
心の中で呟きながら、優しく血を拭き取った。元貴は、その行為をただ黙って見つめている。
手の処置が終わったあと、若井は元貴の顔の近くに手を運び、今度は殴っていた耳も、そっとさすってみる。元貴は目を伏せたまま、抵抗しない。
「痛い?」
若井が尋ねるが、元貴はまた首を振るだけだ。
元貴は少し間を置いて、何か言いたげに手を動かす。
「どうせ……」
若井はすぐさま反応する。
「なに?」
元貴はすぐに目を伏せ、手話を打ち切ろうとした。
「なんでもない」
「どうせ、なに?」
「いい」
(『どうせ、聞こえないから、傷つけてもいい』って言いかけたんだろ)
元貴の考えていることが、手に取るように分かった。元貴はいつもそうだ。自分のことを蔑ろにする。そんな自傷的な考えを持っていることが、若井は心の底から嫌いだった。
若井の表情から感情が消え、真顔になる。
「怒ってんの、」
急に真顔になった若井を見て、元貴が手話で尋ねる。
今度は若井が黙った。何も言わなかった。
「ねぇ」
元貴が若井の袖を軽く引き、手話を促す。若井は黙ったままだ。
元貴はふっと力を抜き、どこか冷めたように手話をした。
「……若井って怒るポイントわかんないよね」
若井は耳を疑った。
(どういう意味?元貴が自分を大事にしないこと以外に怒ることなんてないだろ)
怒りと戸惑いが入り混じり、若井は思わず声を荒らげそうになる。
「……は?」
若井が聞き返すと、元貴は感情の読めない顔で返した。
「だから、若井が怒る時がわかんない」
「…それ、本気で言ってんの」
若井の問いに、元貴は目を泳がせながら、小さく頷いた。
「……うん」
その瞬間、若井の中の何かがプツリと切れた。これまでの疲労と怒り、そして悲しみが一気に増幅した感覚がした。
無言で立ち上がり、そのまま寝室のドアへ向かう。
「待って」
若井の袖を、ベッドに残った元貴の手が咄嗟に引っ張った。袖を引く元貴の手に、静かな熱が伝わる。
「……そんな怒んなくてもいいじゃん」
動揺した、泣きそうな顔。自分の言葉が若井をひどく怒らせたことを、元貴はようやく理解したようだった。
若井の中に一瞬、罪悪感が生まれる。こんなに不安定な元貴を、今突き放していいのか。だが、この場で向き合ったら、制御できない言葉をぶつけてしまいそうだった。
「水、飲んでくるだけ」
思わず冷たい返しになってしまった。しかし、このまま話せば、感情的になってきっと元貴を傷つける。
一度元貴と距離を取り、頭を冷やしたかった。
「俺も行く」
元貴がそう伝え、ベッドから降りようとした。
若井は一瞬目をつぶり、怒りや何かの感情が混ざった気持ちを、グッと飲み込み、出来るだけ冷静に手話で返す。
「ここで、待ってて」
元貴は、若井の態度に、また泣きそうな顔で目を伏せた。その表情を見て、若井の胸は痛んだ。すぐに抱きしめて、「ごめん、大丈夫だから」とフォローしてやりたかった。
だが、今は、その気持ちの余裕がない。
今度こそ袖を引っ張る元貴の腕を振り払い、一人でリビングへと向かった。見つめてくる視線を背中に感じながら、重い足取りで寝室のドアを閉めた。
リビングに入ると、そのままキッチンへ向かった。冷蔵庫は、やはりドアが半開きになっていて、庫内の冷たい光がピカピカと点滅している。若井は乱暴にドアを押し込み、カチリと閉めた。
コップに水を注ぎ、一気に飲み干す。喉の渇きを潤しても、胸の奥で燻る怒りは治まらない。
(怒るポイントがわかんない? ふざけんなよ)
若井は、元貴が自分の命や身体を軽んじる行為に、どれだけ自分が心を削られているか、言葉にできない苛立ちを感じていた。元貴は、自分が死のうとすることが、若井を怒らせているのではなく、ただの迷惑か何かだと思っているのだろうか。
若井はテーブルに寄りかかり、目を閉じた。冷静にならなければ。このまま寝室に戻っても、また感情的にぶつかり合うだけだ。
長く、深く息を吐き、再び寝室へ向かう。ドアを開けると、 元貴はさっきと同じようにベッドの端に座っていた。若井が出て行った時のまま、膝を抱え、顔を埋めている。
若井は何も言わず、元貴の隣に座った。水の入ったコップをそばの机に置く。
元貴の背中にそっと手を伸ばし、少し撫でた。
元貴はビクッと体を震わせ、顔を上げる。その目は涙で濡れていた。しかし振り払おうとはしない。
「さっきは、ごめん」
と、自分が一方的に部屋を出て行ったことを謝った。
「………」
若井は、言葉を選びながら、ゆっくりと手話をした。
「元貴が死のうとするのも、体を傷つけるのも、全部、俺は凄い辛い。俺は、それで元貴に怒ってる」
元貴は静かに聞いている。
「元貴が、元貴自身を大事にしないことが、一番腹が立つ。それ以外に、俺が元貴に怒る理由なんてない」
元貴は、若井の言葉を受け止めたあと、何か言い返そうと、もごもごと言葉にならない音を出しながら、震える手で手話を始める。
「だって……」
涙を拭うと、言葉を続ける。
「若井は、いつも、俺が死のうとするのを止める。怒鳴る。でも、その後、すぐ、いつも通り、優しい」
元貴の訴えは、若井にとって痛い指摘だった。
「だから、本気で怒ってるのか、俺には、わかんない。でも、若井は、怒る必要ない。俺なんて、……」
そこで手話が止まった。
(俺なんて、どうなってもいい、って言いたいんだろ)
若井は元貴の手を握りしめた。
「本気で怒ってる。俺は、本気でお前に怒ってんの」
若井は元貴の顔を覗き込み、強い視線で手話をした。
「だから、もう、あんなことすんな」
若井はそう言うと、元貴を強く抱きしめた。元貴は若井の肩に顔を埋め、静かに泣き出す。若井はその背中を規則正しく叩き続けた。
少し落ち着いたあと、ゆっくり体を離し、
一つ、質問を口にする。
「あの補聴器、誰かに壊されたのか?」
元貴の表情が、わずかにこわばるのが分かった。
コメント
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初コメ失礼します Web版で更新されるたびに見てました すっごく私のタイプを突いてて好きな作品です〜… 大森さんが喋れないっていうのも 作品に味を出しててほんとにやばいです🤤 これからも応援させてもらいます、っ! フォローとマイリスト設定失礼しました、っ
えっと、とりあえず初コメ失礼します。 で、天才ですか? 今一気見しましたけどどタイプすぎていいねを押す指が止まらない