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黒い瓦の総檜造りの和風家屋。離れには鹿おどしが響き、白に朱色の錦鯉が揺らぐ瓢箪池、辰巳石の門構え、赤松の枝が曲がりくねり空を目指し針葉樹の陰を作る。手入れが行き届いた芝生を臨む軒先に揺れる卵型のハンギングチェア。
カコーン
菜月のスカートが微風に揺れ、絹糸の髪がふわりと舞う。静かな庭にカラコロと下駄の音が近付いて来た。屈み込んだ影が菜月の唇に軽く触れた。
「菜月、起きて」
「…」
「菜月」
菜月の膝の上で擦り切れた赤い表紙の赤毛のアンのページがパラパラと捲れた。その指先がピクリと動く。二重瞼、長いまつ毛の焦茶の瞳がゆっくりと開いて湊に微笑む。
「おはよう」
「寝ちゃった」
「風邪ひくよ」
「うん」
湊が足元の御影石に腰を掛け、菜月の顔を見上げた。
「なに?」
「僕、今日二十七歳になったよ」
「え、え、な、なに突然」
「約束でしょ」
「そ、そうだけど」
菜月は両手で顔を覆った。その頬は真っ赤で耳の端まで色付き、心臓の鼓動が早くなった。
「お、お父さんやお母さんが、いるから」
「もうみんな出掛けたよ」
「あ…そうだった!」
郷士は、杜撰な経営による一連の不祥事で社員に迷惑と心配をかけたと深く謝罪し、1泊2日の慰安旅行を計画した。朝の座敷に差し込む光の中、代表取締役としての責任を果たそうと、郷士は社員の士気を高めるべく奔走していた。社長の湊も本来なら参加すべき立場だったが、ゆきから「菜月を屋敷に一人残すのは心配だから」と留守番を言い付けられた。
「そう、慰安旅行だったわね。」
「うん」
「でっ、でも!多摩さんがいるでしょう」
「多摩さんも、佐々木と一緒に出掛けたよ」
「え、そうなの!?」
菜月は、多摩さんにこの会話を聞かれるのではないかと辺りを見回したが、確かにその気配は無かった。
カコーン
今夜この屋敷には菜月と湊しかいない。湊は立ち上がると飛び石を軽やかに跳ねて表玄関の門に鍵を掛けた。
「菜月、僕たち二人きりだよ」
振り向いた湊の面差しは落ち着いていた。砂利の音が近付き、鹿おどしが庭に響いた。
「菜月」
「な、なに」
「お風呂沸いてるから」
「…!」
夕暮れの空には金星が瞬いていた。
「菜月、おいで」
「うん」
湊の手に引かれ、菜月はハンギングチェアから立ち上がった。
カコーン
菜月は、檜の香りの湯気が立ち昇る湯船で、濡れた髪をくるくると指先に巻きながら物思いに耽った。
(とうとうこの日が)
これから自分は湊とひとつになる。
「冷たっ!」
風呂の天井から垂れ落ちる雫が肩に冷たく我に帰った。
(まさかこんな日が!)
頭の中をこれまでの出来事が往来した。
湊は成人の日を迎えた。県外の大学を選んだ湊は家を出た。どんどん遠くなる後ろ姿。
(湊はいつか誰かと結婚する)
「菜月、もう湊、湊という歳でもないだろう」
「うん」
「なら、いい縁談があるんだ。受けてみないか?」
「お断り出来ないの?」
「会社の取引先の息子さんなんだ」
菜月は郷士に勧められるまま、見合いの席に着いた。もう2度と、湊と触れ合う事はないと思っていた。
(それが、こんな日が来るなんて、びっくり)
脱衣所から湊が声を掛けて来た。
「菜月、もう1時間も入ってるよ!のぼせちゃうよ?」
「あ、はい!」
思わず声が裏返ってしまった。
「なに、菜月緊張してるの?」
「当たり前じゃない!」
「ふーん」
「もう、もうお風呂から上がるから!あっち行ってて!」
湊は笑いながら脱衣所の扉を閉めた。菜月の心臓は高鳴った。
カコーン
湊は、檜の香りの湯気に包まれながら、湯船の湯をすくい上げ、顔を洗った。
(とうとうこの日が!)
これから自分は恋焦がれた菜月の肢体を抱き締める。
「あっ、冷たっ!」
風呂の天井から垂れ落ちる雫が肩に当たり我に帰った。
(まさかこんな日が来るなんて嘘みたいだ)
頭の中をこれまでの出来事が往来した。
「え!?菜月の見合いが決まったの!?」
「うん」
「どうして!今まで嫌だって言ってたじゃない!」
「お父さんの会社の取引先の息子さんなの」
「そんなの政略結婚じゃないか!」
これまで、何度も流れていた菜月の縁談話がまとまった。菜月が見ず知らずの男と結婚する。ガラガラと、何もかもが音を立てて崩れた。ところがその1年後、菜月の夫の不倫行為が発覚した。
「私、初めては湊が良かった!」
菜月は、悲痛な声で湊の名前を呼んだ。
(こんな日が来るなんてびっくりだ、信じられないよ)
湊は躊躇いや戸惑いを洗い落とすように、念入りに身体の隅々まで泡立てた。
風呂場から檜の洗い桶の音が響いてくる。いつもこんなに明瞭に聞こえて来ただろうか。湊は意外と長風呂で菜月は暇を持て余した。
(こんな時はどうするんだっけ)
賢治はいつも無言でベッドに潜り込み、菜月の感情などお構いなしに、機械的に事を済ませると、さっさと身体を離した。手渡されるティッシュの乾いた音が、静かな部屋に冷たく響く。菜月は痛みと嫌悪感に耐えながら、黙って衣類を身に着けた。あの頃の孤独と傷は、菜月の心に深い影を落としたが、今、湊との絆がその過去を静かに癒している。
(あれは、あのセックスは、なんの参考にもならないわ)
菜月は立ち上がるとパジャマの前ボタンを一個、二個と外して上着を脱ぎ、潔くズボンも脱ぐと枕元に畳んで置いた。
「湊、遅い」
暇を持て余した菜月はもう一度パジャマを広げて丁寧に畳み直した。
(うーん、初心者、湊は初心者)
賢治との初夜、菜月は、衣類を全て脱いでベッドに横になれと言われた。
(多分、脱げば良いのね)
腕を組んで首を傾げひとしきり悩んだ挙句、菜月はパンティを脱いで畳みパジャマの下へと捩じ込んだ。
(でも、全部脱ぐのは恥ずかしいし)
今、菜月が身に着けている物は白いキャミソール一枚だった。
ギシ、ギシ、ギシ、
湊が歩いて来る気配がする。心臓が高鳴る。襖がそろそろと開き菜月は瞼をぎゅっと閉じた。
「え、ちょっと、菜月!」
片目を開けるとパジャマ姿の湊が立ちすくみ目を見開いていた。
(え、何か間違っちゃった!?)
菜月は、胸元が大きく開いたキャミソール1枚を身に着け、アヒルのように脚を曲げ、布団の上に座っていた。
「ちょ、菜月!なな、なにしてるの!?」
胸の谷間、柔らかな突起、キャミソールの裾から覗く白い太ももは湊にすればかなり刺激的な姿で思わず足が竦んだ。湊は掛け布団を持つと菜月の胸元に押し付けて布団に膝をついた。取り敢えず目の前の刺激的な肢体を隠す事には成功した。
「湊は初めてだからパジャマを脱がせるのも大変かと思って」
「そうかも知れないけれど、だからって!」
湊は残念に思った。脱がせる楽しみや緊張感を味わいたかった。菜月が男性心理を理解していない事はよーく分かった。
「だ、駄目だった?」
「駄目というか、駄目ではないけれど」
「もう一度、パジャマ着た方が良い?」
そう言って菜月は、湊を凝視した。
「着なくて良いよ」
「そう?」
「菜月、僕のパジャマを脱がせて」
「…え」
菜月は驚いた顔で一瞬言葉を失った。
湊は菜月にパジャマを脱がせて欲しいと、熱を帯びた声で呟いた。
「じゃ、いきます」
「はい、お願いします」
菜月は俯き加減で正座をした湊のパジャマの襟元のボタンに白い指先を伸ばした。一個、二個、そしてするりとパジャマの上半身を脱がせると湊の胸板が顕になった。
「あれ、湊、痩せたんじゃない?」
「そうかな」
「うん、なんだか華奢な感じがする」
菜月はその指先で湊の頬を撫で、首筋に這わせると脇腹を伝い乳首に触れた。そのジワジワとした感触に湊は顔を顰めた。
(な、なんだか慣れて、慣れてるよね、これ)
菜月の指先は湊の唇を愛おしそうに撫でた。
「な、菜月。5回しかした事ないって本当なの」
「うん。数えたら4回だった」
「嘘だ」
「嘘じゃないよ」
菜月の吐息が湊の鼻先に触れ唇が重なり合った。
「あ、菜月!」
湊は衝動を抑えきれず菜月に覆い被さり敷布団へと倒れ込んだ。
「い!」
ゴンと鈍い音がして菜月が後ろ頭を押さえた。
「ご、ごめん」
「い、痛い」
「ごめん!痛かったよね、よ、余裕がなくて」
菜月が上目遣いで熱っぽい唇で囁いた。
「時間はいっぱいあるから」
「菜月、菜月!」
湊は無我夢中で菜月の首筋に顔を埋めた。
カコーン
朝日が座敷に柔らかく差し込み、静かな部屋に温かな光が広がる。湊は名残惜しそうに手を伸ばし、菜月の細い手首をそっと握った。二人の影が畳に重なり、穏やかな空気が流れる。菜月は微笑みを浮かべつつ、湊の手を軽く振り払い、ようやく布団から這い出ることに成功した。
「もう駄目!お父さんたちが帰って来るでしょ!」
「ちぇ」
「ちぇ、じゃないの!」
腹の虫が鳴った2人はダイニングテーブルに座ってトーストを頬張った。
「菜月、バターとジャムどっちがいい?」
「…バターとジャム」
湊は鼻歌を歌っていたが、菜月は無言だった。
「菜月、気持ちの良い朝だね!」
「そうね」
「どうしたの」
「…疲れた」
菜月は、疲労困憊で目の下にクマが出来ている。半分寝惚けながら食パンを頬張った菜月は、力無く椅子から立ち上がった。
「ごめん、私、ちょっと寝るね」
「うん」
「あ、お皿」
「僕が洗っておくよ♪」
菜月はヘナヘナと崩れるように、汗ばんだシーツに横になった。
キィ バタン バタン バタン
「おーい、帰ったぞ!」
「菜月さん、湊、お留守番ありがとうー、いないのー?」
郷士や ゆき が温泉饅頭の箱を手にして帰宅した。
「あら、菜月さん、具合悪いの?」
ゆき が客間を覗くと、菜月は薄暗い部屋の布団で横になっていた。
「どうしたの、大丈夫?」
「ちょっとバッティングセンターで頑張っちゃって」
「あら、遊びに行ったの」
「…うん」
「珍しいわね」
「湊が張り切っちゃって」
「後でお饅頭お食べなさい、疲労回復には糖分よ」
「さぁ、さぁ、お昼ご飯にしましょうか」
多摩が割烹着に袖を通し大根をサクサクと切り始めた。
「ふぅー」
その隣で湊が腰を叩きながら冷蔵庫の扉を開け、ミネラルウオーターをコップに注いで煽るように飲み干した。
「あら、あら、あら、筋肉痛ですか」
「菜月とバッティングセンターに行って来たんだ」
「声も、なんだか枯れてますよ」
「ちょっと頑張りすぎたかな」
茶の間の郷士は無言で新聞を広げ、 ゆき はサンルームで黙々と洗濯物を干し始めた。微妙な空気感が漂う。
「……」
佐々木は車から旅行鞄を下ろし、玄関先に運び込みながら薄っすらと思った。
(湊さん、おめでとうございます)
多摩は赤飯でも炊こうかと、小豆を取り出しボウルに水を張った。