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【肆と診療所】
五ノ巻〚求婚〛
*
伊崎は千六良(ちひろ)を見つめた。
「……この櫛はどういう意味だ」
千六良は伊崎に笑いかけた。
「意味を聞くってことは、わかってるんだろう」
「……本気か」
「本気さ。……それより、私は、遊女の病を治すことを四天王に依頼したい」
「依頼って……。それなら診療所まで来てくれ。というか、若様の初仕事なのにいいのかよ」
「いい。私は人のものを奪ってもいい気はしない。それに」
その後の言葉が続かない。
少しして、うつむきながら小さな声で聞こえた。
「それに、私は、こうやって家の駒として使われるのが、嫌なんだ」
伊崎は草をむしる手を止めて、千六良をまっすぐ見つめた。
伊崎の眼の前には、薬箱が置かれた。
「だから、これは返す」
(馬鹿な奴)
伊崎はそっと目を逸して、薬草摘みを再開した。
「返されるのはありがたい」
「その代わり、遊郭へ行くんだよ」
「だからそれは診療所へ行って依頼してきてくれ」
「君たちを指名したら、本当にそうなるか」
「半分の確率でそうなる」
「……まぁいい」
千六良は笑顔で伊崎に告げた。
「その櫛、大切にするんだよ」
伊崎は頷きもしない。
「ねえ君、名はなんなんだ」
伊崎は振り返りもせずに答える。
「弥生伊崎」
「珍しい名だね」
「お前こそ、男で“ちひろ”なんぞ聞いたことがないぞ」
「俺はね、千と六と良でちひろって読むんだ。次期当主候補は全員、主になったときの代を名前に入れるんだ」
「ということは、次で16代目か」
千という字は、昔はよく使われていた。
大正時代に一番多かった女児の名は千代などで、千という字は多くの人に使われたのだ。
江戸時代も、竹千代などの名前に入っている。
つまり、千はお飾り。六と良が本命の漢字で、良は「はじめ」とも読める。
つまり、六とはじめ。
六十一というわけだ。
「あれ、察しがいいね。みんなは1601とか言うんだけど」
「1601代って……どんだけ大御所なんだよ」
千六良はけらけら笑った。
その様子を見て、伊崎は首をかしげる。
(なんか、誰かに似てるような……?)
しかしその“誰か”とやらは頭に出てこない。
(まあいっか)
「伊崎さん、私、診療所へ行くよ」
「あ、ちょっと待て」
歩き出そうとする千六良をくいっと引っ張って止める。
「私、あと八日は戻らない。どうせ来るなら戻ってから来い」
「任務中か?」
「そうだ」
「わかった。じゃあ、十日後、診療所へ行く」
「ああ」
手を話すと、千六良は振り向きもせずに歩き出した。
手に持った薬草と、傍らに置いてある薬箱を見比べて、伊崎はため息をついた。
「面倒だなぁ」
*
伊崎が江戸城へ帰ったころには、大分穏やかになっていた。
唯と管太郎が応接間にて茶を飲んでいると、伊崎が帰ってきた。
「あれ、薬箱持ってる」
唯は薬箱を指さした。
管太郎は苦笑い。
「わざわざ取り返しに行ったの?それも、一箱」
中を見ると、薬草が綺麗に並べられている。
まめな葉色が管理する箱なだけある。
「偶然犯人と出会した。けど、一人だったし、一箱しか返してもらえなかった」
伊崎は畳に腰を下ろした。
侍女からそっと出される茶。
唯は自分の湯呑みの茶を啜った。
「なんで返してくれたんだろうね」
「なんでなの、伊崎?」
二人の眼差しに圧され、伊崎はため息をついた。
「面倒な話なんだが、家の主の命で、その家の若が遊郭の流行り病を治すために薬箱を盗んだらしい。だけど、遊郭の病を治すのは家のためで、そんなふうに家のためにするのが嫌だから、私達四天王に遊郭を任せるらしい」
管太郎は眉を寄せた。
「難しい話だね」
「そりゃそうだよ。伊崎の持ってくる話なんだもん」
ほざく唯の頭を拳骨で殴り、伊崎は続ける。
「でもやっぱり、『家のために働きたくない』ってだけで、遊郭の病は治したいんだよな、あいつ」
「優しい人なんだね」
「でも、優しいだけじゃ生きていけねぇんだよなぁ」
伊崎は畳に寝転んだ。
初仕事を放ったらかしにした若はその後、どうなるのだろう。
お家に反対したとして刑を食らう?
それとも、若だから見逃される?
(どっちにしても、彼はどうせ何とも思わんのだろうなぁ。主になりたいわけでもなさそうだったし)
二択の結果は、現当主の性格次第だろう。
「伊崎、何それ」
不意に、唯の言葉が響いた。
伊崎の懐から出る、赤い櫛。
「ああそういえば、忘れてた」
起き上がってそれを手に取り、まじまじと眺める。
「え、どうしたのそれ」
管太郎は嫌そうにそれを見た。
唯が伊崎を見つめると、伊崎は平坦に答える。
「その盗人にもらった。まぁ、私は全然興味ないんだけど、返すのもなんか可哀想かと思って……って、嘘だろっ?!」
伊崎は声を荒げた。
赤黒い色の櫛に、金色の模様。
その模様の原点には、金色の家紋が入っている。
その家紋は、千六良の刀の鞘に類似……というか、全く同じである。
ちなみに、つげの櫛を異性に渡すことは、求婚の意味がある。
簪なんかもその中の一つだが、江戸時代の日本では、つげの櫛が主流だ。
そんな求婚の意味のある櫛を、伊崎は千六良からもらった。それも、家紋入りを。
つまり、この櫛は、弓削家へ嫁入りしてほしい、という意味が込められているのだ。
嫁入り道具にもよく使われる、家紋の入った道具。
伊崎は自分の持っているものが気持ち悪く思えて、手を離そうとする。
と、唯がひょいっとそれを摘んだ。
「ほへー。いい木でできてるね。売れば相当な高値がつくよ。どうせ伊崎はその人のところに嫁入りなんてしないわけだし、売ろうか、これ」
「構わんが、相手のことを思うと気の毒でならないな」
「まぁそーだね。告白した上、告白道具ならぬ嫁入り道具を売り飛ばされてフラレるなんてね。さすがに取っておいてあげたら?」
唯はまた伊崎の手に戻した。
心底嫌そうな顔だ。
隣で管太郎は眉をひそめて櫛を睨んでいる。
「それ、どうするの」
「どうしよっかなあ。あ、管太郎いる?」
「いらないよっ!」
ぷいっと伊崎から目を逸らし、少し機嫌の悪そうな管太郎。
唯はくすくす笑っている。
「何に怒ってんだよ」
伊崎は頬杖をついて管太郎を見つめた。
(任務中に逢瀬っぽいしたことが気に入らねぇのかな)
唯は見兼ねたように立ち上がった。
「私、葉色のとこと行ってくるねー」
「今?」
「ここで?」
気不味い雰囲気の管太郎と伊崎は、唯に縋る。
「だって葉色一人ぼっちじゃーん」
「じゃあ俺と伊崎も行く。ね?」
「まぁ、行く」
「来なくていーよ。葉色、『うつしたくないからあんまり来ないで』って言ってたから」
「いや、だったら唯もここいようよ」
「あ、まさか。仕事サボれるから行こうとしてんのかよ」
「サボるも何も、今休憩だし」
管太郎と伊崎は折れた。
るんるんで葉色のもとに向かった唯だったが、二人は場が凍りつくような雰囲気にいた。
重い沈黙を破ったのは、伊崎だった。
「葉色と唯って、なんか仲良いよな」
管太郎は目を合わせずに答える。
「た、確かにね。なんか二人で隠してたりして、なんちゃって」
はははぁ……、と抜けた笑いを浮かべるが、伊崎は話題に興味がないように目を逸した。
右手は、机の下で櫛を握っている。
(この任務が終われば、遊郭へ行ってやろうか)
それを考えていることが管太郎に伝わったのか、管太郎はゆっくりと柔らかな口調で話した。
「みんなで、行く?そこ」
“遊郭”というと、嫌な意味に聞こえるため、わざと“そこ”と言った管太郎だが、彼自身はどう思っているのだろう。
ちらりと管太郎を見ると、彼も伊崎を見ていた。
「ん?俺はいいよ。まぁ、躊躇する気持ちはそりゃあるけど……。病が流行っているんなら、それは治さないとね。それに、遊郭は心の病も流行りやすいんだ」
「……正直、私は行きたくない。遊郭は夜伽の会場だ。病なんぞ流行るに決まっている。それをいちいち気にしていたらきりがない」
「でも、依頼されたら行くでしょ?」
「それは行くが。自ら進んで行きたくないな」
「それはみんなそうだよ。まぁ、今は今のことをとりあえず考えないとね。あと八日も残ってるよ」
「そうだな。……葉色のことも、ちょっとな」
「ちょっと、なに?」
管太郎はニコニコ聞いてくる。
そのニコニコに気圧され、伊崎は目を逸らす。
「ちょっと面倒くさい」
「嘘ついちゃって〜。『ちょっと心配』でしょ?」
管太郎はくすくす笑った。
伊崎はしかめっ面で管太郎を睨む。
「勝手な妄想」
「正直な感想の間違いだよ」
二人で和気あいあいとしている姿。
その様子を、部屋の外で襖越しに聞いていた女がいた。
琴葉だ。
彼女はふっ、と静かに微笑み、その場を去った。
「まだいいわ」
そのとき、そんな言葉をこぼしたが、その意味は誰にも分からなかった。
*
「本当に、申し訳ありません」
葉色が畳に頭を当てる。
発熱は引き、元気に復活した葉色。
しかし、寝込んだ期間は約五日。
その間、唯、管太郎、伊崎の三人が仕事に取り組んだ。
取ってきた薬草と返してもらった薬箱の薬を使い、薬の処方。
一日三食の献立の改善。
吐瀉物処理とその正しい仕方の伝授。
城内の消毒。
することは山程あった。
しかし、誰も葉色を責めたりせず、むしろ体の心配をしていた。
「あ、頭あげなよ。俺たち、別に苦労してないよ」
「そうだよ葉色!色々大変ではあったけど、葉色のせいではないし」
「まぁ、早く治って早く復帰してほしかったが」
「とか言っちゃって〜。私、伊崎が心配してたの知ってるんだからねぇ〜」
その言葉に、ハッと伊崎は唯を睨む。
「そうそう。伊崎、葉色がなかなか治らないから、薬の調合とか変えてみて、夜中なんてつきっきりで……」
「何の話だ!そんなの知らん!!」
管太郎の言葉を強引に遮り、葉色を見つめた。
「知らんからな、知らんからな?!」
葉色はニコッと笑って頬を染めた。
「うん、そうだね。残った三日も、四人で頑張ろうね」
その一言に、三人は口を緩ます。
「そうだね、頑張ろう!」
「うん、俺も頑張るよ」
「体調崩さねぇ程度に頑張れよ」
四人でそんな話をしていると、襖の外から声が聞こえた。
「琴葉でございます。入ってもよろしいでしょうか」
「あっ、どうぞ」
唯が襖を開けると、すぐさま伊崎はてっかを被った。
(またやってる)
何なのか、とは考えないが、そろそろアホらしくすら思えてくる。
「皆様、七日間、ありがとうございました。この先三日のことについてお話しようと思います」
深々と頭を下げる琴葉に、慌てて四人も頭を下げる。
「何か、あったのですか?」
管太郎が問うと、琴葉は首を横に振った。
「皆様のお陰で、江戸城には健康が戻りました。そのため、ほとんど患者もおらず、“何もない”ため、四天王様には、江戸の町で気分転換をしていただきたいと思いまして、ここへ来ました」
「気分転換?」
「はい」
琴葉は四つの封筒を差し出した。
「金貨と銀貨はここに。これで、四人で遊んできてくださいませ」
四人は同時に顔を見出せた。
手を挙げたのは葉色だ。
「……お気持ちは嬉しいのですが、流石にそれは受け取れません。それに、私はただ寝ていただけで、何もしていませんし……」
彼女も彼女で、色々と思い悩んでいた。
寝ている間に色々と事が進み、まさかの伊崎が求婚された。そしてその相手に依頼をされる。そしてそしてその任務先が遊郭と。
頭が追いつかないスピードで時が進み、肩身が狭いのだ。
「いいえ。葉色様は、他のお三方のやる気を出してくださりました。それがなければ、今頃江戸城は病の海になっていたことでしょう」
眉を下げる葉色。
琴葉は四人に目を配らせた。
「貴方様方の貢献は、大層なものでございます。将軍様は貴方様方に救われました。どうか、三日間は楽しんでくださいまし」
くすりと四人は笑った。
自分たちが、そんなにすごいことをしたのだと、実感したからだ。
管太郎は笑みを浮かべて言った。
「わかりました。とても嬉しいです。三日間、江戸を歩いて参ります。ですが、これは受け取れません。依頼とは別なのでしょう?」
「はい。これは、お給金ではありません。どうしても、とおっしゃるので」
「おっしゃる?」
「はい。伝え忘れましたが、この封筒は、将軍様からのものでございます」
四人は驚いた顔をした。
が、伊崎はすぐに怪訝な顔に変わる。
(それを聞いては、受け取らないことはできまい)
将軍からの贈り物を断ったとなると、反幕のようになってしまうやもしれない。
それで処刑されることはそうないだろうが、聞かない話ではない。
渋々四人は封筒を受け取った。
「ありがとうございます」
*
歌舞伎。
相撲。
天ぷらうどん。
浮世絵屋。
こんなに銀を支払うのに、まだ手元にはたくさん余っている。
「江戸幕府のお金の力、恐るべしだね」
唯は笑った。
先程からこの人はずっと笑っている。
歌舞伎は「はじめてみた」と満面の笑みで(途中から飽きたようで寝ていた)、相撲は「私あの力士好き」だとか言って夢中になって見て、天ぷらうどんは「江戸城のご飯より美味しいかも」なんてほざきながら食い、偶然見つけた露店の浮世絵屋では、「版画をやってみたい」なんて言いながら三枚ほど絵を買っていた。
「楽しそうで何よりだよ」
管太郎は磯辺餅を食んで言った。
「お前が磯辺選ぶとは思わなかった」
「伊崎こそ、いつも磯辺なのに、今日御手洗なんだね」
「気分」
「じゃ俺も気分」
二人で話していると、唯と葉色がちょいちょいと管太郎の袖を掴んだ。
振り返ると、唯が小声で管太郎に耳打ちした。
「私達は二人で見て回るから、管太郎は伊崎といちゃいちゃしてきな!今管太郎危機なんだから!」
それを聞いた途端、顔が真っ赤になる管太郎。
「じゃあまたね〜」と遠ざかっていく二人を呆然と見つめていると、伊崎が心配そうに顔を覗き込んだ。
「何、そんなに御手洗食いたかったの?」
最後残った団子一つを、串ごと管太郎に咥えさせる。
伊崎はくかあと欠伸をひとつ。
それから前に立ち、店を指さした。
「次、呉服屋でも見に行くか」
*
三日はあっという間だった。
買い物も捗り、唯なんかは着物を二枚ほど買っている。
一方ほか三人は案外買い物が少なく、伊崎なんかは書店で巻物を一巻買っただけだ。
(余ったのはどうするんだろう)
管太郎は診療所へ帰る荷造りをしながら考えた。
伊崎はとっくに荷造りが終わったようで、巻物を読んでいる。
唯と葉色は二人でどこかへ行ってしまったし、今管太郎は決意した。
(今言おう)
管太郎は正座で伊崎に向かうと、彼女は無言で巻物を巻き、こちらを向いた。
「何だ」
「言いたいことがあるんだ」
「何だってば」
「……伊崎、嫁入りの話、受けないで」
伊崎は目を丸くした。
端から受けるつもりはないのだが、こう真正面から言われると、なんだかむざむざする。
伊崎は俯く。
「え、まさか、受けるつもり……なのっ?」
「んなわけない!」
伊崎は思わず管太郎の手を握った。
ハッとしたら、管太郎も驚いていた。
正座に直り、ほっと平常心を取り戻す。
「受けるわけ、ないだろう」
「本当?」
「なんで嘘つかなきゃならないんだ」
「……良かったぁ」
管太郎はゆるりと胸を撫で下ろした。
が、我に返ってぴしりと正座をする。
「なんで『良かった』なんだよ」
「え、いや、その、うん」
「はあ?」
伊崎は顔をしかめてまたうつむいた。
(安心しなよ管太郎、私、結婚なんてできないから)
*
城を出たのは、日が傾き始めた頃だった。
葉色は元々三つ持っていた薬箱が二つに減り、軽いから楽だが嬉しくない、と笑っていた。
「お世話になりました」
琴葉が頭を下げると、四人も頭を下げる。
「いえいえ!貴重な体験、ありがとうございました」
琴葉は最後まで頭を下げていた。
その意味については誰も何も考えなかったが、伊崎はてっかの下でずっと汗をかいていた。
(まさか、ね)
その思考をかき消すように頭を振り、赤空を見上げた。
空は、怖いほどに赤く、美しかった。
*五ノ巻〚求婚〛完
(漢字表記)
櫛(くし)
駒(こま)
逢瀬(おうせ)
躊躇(ちゅうちょ)
夜伽(よとぎ)
磯辺(いそべ)
御手洗(みたらし)