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食べどきだ。

私は机上に鎮座する大鍋をじっと見ていた。鍋の中には野菜とモツが大量に入っている。

そう、モツが。モツが入っている。

私はあの夢を思い返した。ブロンドの女が熊に惨殺される夢。それから臓物が飛び出していく夢。

なぜそんな夢を見たのか今でも分からない。私はスプラッター映画は趣味じゃないし、鬱屈した気持ちもここ最近特に感じていない。

夢に意味を求めるだけ無駄かもしれないが、あれだけ強烈な夢は初めて見たのだ。

そして更に分からないのは、私があの夢に影響を受けてモツ鍋を作ってしまったことだ。

こんなことを他人に話せば、きっと正気を疑われるだろう。しかし、私は至極真面目な気持ちだった。

分からないなりに考えてみて、いまの気持ちを無理にでも表すなら供養に近かった。あの女のために食べてやらねばダメなのだと思ったのだ。

私は頭を抱える。美味しいものでも食べて、あの夢を忘れるつもりが、より現実に侵食してきているのである。

やはり呪いの類だろうかと自嘲気味に笑ってから、 意識を目の前の鍋に戻す。

鍋は飽きもせずぐつぐつと喚き立て、食べ頃を急かすように教えてくる。

私は箸を持つ。

箸を、持つ。

そして、ゆっくりと箸を鍋に近づけながら、私は奇妙な緊張を覚えた。

呼吸が苦しくなり、手が震え始める。

どくどく血液を送り出す心臓の音が耳の間近に聞こえる。

視界がぼやける。鍋の輪郭が二重に映っている。 湯気が立ち上っているため余計にかすんで見える。



いまや霧の中を歩いている。前も見えないおぼろな意識の元で。

頭痛がする。

きりきりと臓腑が痛む。

全身が汗にまみれているから、ひんやりとした空気が刺すように襲いかかってくる。

一歩一歩、ただ前へ進んでいる。

一歩一歩、ただうつろへ進んでいる。

霧は深くなっている。やがて迎えるエピローグを阻むように。

しかし、私は歩みを止めなかった。なぜなら道がわからなくとも前へ進んでいるという確信はあるからだ。その瞬間。

前方、影が揺らいだ。

白いスニーカーに汚れが一点付くほど目立つものはない。それほどはっきりと正体の掴めないものを捉えた。

土を踏みしだき、地面を蹴り上げる。

走る。走る。走る。

走りながら気付いた。ここはどこかの山中だ。

逃げる影を追って、間近に迫る手。

私は「それ」をつかみ、やがて……。



キャベツだった。

私が口の中に放り込んでいたのはキャベツだったのだ。出汁が染みて美味かった。


「ファール」


テレビでは野球中継の実況を意味もなく流していた。静寂はかえって五月蝿うるさいのである。

私は溜息をついた。モツ鍋を食べようとしただけで頭の中が真っ白になっていたのだ。

無意識に正座までしていることに気づき、私は足を崩す。そして、立ち上がって冷蔵庫から缶ビールを取り出した。

色々と鍋の準備に手間取り、気付けば時間も遅くなってしまっていた。

翌日は休みだったが、何となくリズムを崩したくはなかったため控えようと思ったが、酒がなくてはやってられなかった。

プルタブを引っ張るとカシュッと小気味良い音が立った。缶を傾けて、コップの縁にゆっくりと注いで泡の配分に気を遣う。

冷たいビールを喉奥に流し込む。舌の上で炭酸が弾ける。


「ヒット」


見ると、打者が一生懸命に一塁へ走っていくところだった。

コップを机に叩きつけるように置く。

居酒屋で上司が同じようなことをしていたが、あの時は酷く不愉快だった。しかし、いまはとても気分が良い。

私は両手を後ろ手に付いて部屋を見回す。何の変哲もないいつもの小さな部屋だった。

雑然としたもので溢れかえり、衣類やゴミが山積みとなっている。しかし、このアパートにはお似合いだと思った。

築60年は超えている1DKのボロアパートの一室。壁は薄っぺらで生活音が丸聞こえになる。

隣の部屋には、たまに見かける綺麗な女学生が住んでいるはずだが死んだように音がしない。

風呂は狭くトイレは共同。家賃は都心に近いが相場より幾分と安い。

建物全体が見窄らしく汚らしい。生きているが死んでいるようなものだった。

私は一気に気が抜けて、再びモツ鍋に目を戻した。

先ほどの空想と緊張は何だったのだろう。妙にあの夢のように生々しかった。

私は箸を持つ。

箸を、持つ。

そしてモツに狙いを定め、腕を伸ばして掴もうとする。しかし、やはり緊張がやってきた。

同じようにあの霧が頭の中を白く染める。それが質量を持って頭をもたげてくる。

覆い被さる霧を払わんとばかりに勢い付いてモツをつかむ。

ハゲタカに捕えられた小動物が宙で弄ばれている。小動物は必死に暴れた。

違う。 頭を振る。

私の手が震えているのだ。また、おかしな反応が現れているだけだ。

腹は減っている。もうモツは食べどきなのだ。

これは女の人肉ではない。スーパーで買った豚の肉なのだ。よく加熱した豚の内蔵だ。

私は箸を口に近付ける。

肉の匂いが鼻腔を刺激する。

本能が早く食えとばかりに、だらだらと唾液が分泌される。

生唾を飲む。

そして、ついに思い切ってモツを口の中に放り込む。

瞬間。

私の意識はまた彼方へ飛んでいった。



私は「それ」を押し倒した。

逃げ惑う影は、輪郭が明瞭になり、何かの形を象り始めた。

ぐにゃぐにゃと歪み、スライムみたいにさまざまな形へ変形する。

それは、「それ」自体が変わっているわけでなく、私の認識する過程が辿った幻影であることを悟った。

認識が「それ」の正体を拒んでいる。霧が晴れることを恐れている。

私は夢を見ているのだ。そう思った。

また、ここはあの山中で、スーパーモデルの女は熊に殺される。

狂ったテープレコーダーが、同じ箇所を延々再生しているだけだ。

そう思った。

だが、霧が晴れていくと、ここはどうやら山中ではないことがわかった。

見知った部屋の作り。汚らしい壁のひび割れ。

見たことのない家具調度。

見たことのない家具調度?

ここは、私の部屋ではない。一体、誰の部屋なのだろう。

押さえつけていた「それ」が暴れる。

私は必死で押さえ込み、私と影がゆらゆらと交差した。

肉と肉がぶつかり合う感覚。絶頂の極み。

影は色濃く、未だ全貌がはっきりしない。だが、そこで一部が露わになった。

……腹だ。

綺麗な、腹だった。しなやかなウェーブががかっていて、淡白く輝いている。

服がめくれてのぞけているのが、淫靡いんびでセクシーだった。

血液が全身を猛烈な勢いで巡り、全身が震え、毛がぶわっと立ち上がる。

視線がその腹に釘付けになる。

そして。

私は唐突にこんな連想をした。

私は熊なのではなかった。私は狼で、影の「それ」は哀れな豚なのだと。

妖しく光る夜の庇護者に向けて、狼である私は遠吠えをする。

そうせずにはいられない。本能には、抗えない。

そうに違いない。

だから。

私は同時に、こんな短い詩を影の「それ」にプレゼントした。

お鍋は丸々と縁取られ

出汁が黄金色に輝きて

見れば真下のお月様

私の毛は逆立って

鋭い牙が波打って

哀れな子豚は

食べちゃおう



「ホームラン」


鍋の中は空っぽだった。





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