テラーノベル
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朝から、シェアハウスの空気が重かった。
原因は、誰かが大声を出したわけでも、機材を壊したわけでもない。
防音室の使用予定が、完全に崩れていたからだ。
マサカゲが作った予定表では、午前八時から十時までが全員での演奏練習になっている。十時から正午まではカキのギター録音。午後はミステーの作曲作業。夕方からはメバルのボーカル録音。
しかし、午前八時になっても、防音室には誰も入らなかった。
メバルはリビングのソファに座ったまま、マグカップを両手で包んでいる。
カキはギターを抱えたまま、床を見ていた。
マサカゲは予定表を何度も確認している。
ミステーは窓の外を眺め、K-Tは壁際に立っていた。
アオノは防音室の機材を確認していた。
「防音扉、正常。マイク、正常。キーボード、正常。録音システム、正常です」
誰も返事をしなかった。
アオノは画面を確認した。
「演奏を開始できます」
マサカゲが顔を上げた。
「今日は中止にする」
「理由は?」
「全員の状態がよくない」
「体調不良ですか」
「そういう意味ではない」
アオノはマサカゲを見た。
「体温、心拍、血圧を確認すれば、状態を数値化できます」
「そういう問題じゃない」
「では、何の問題ですか」
マサカゲは答えなかった。
メバルがマグカップの中身を見つめている。カキはギターを抱えたまま、いつものように弾こうともしない。ミステーは窓の外に視線を固定し、K-Tは何も言わずに立っている。
アオノは、全員の顔を順に見た。
「音楽制作に必要な条件が不足しています」
「条件?」
「集中力、発声状態、筋肉の緊張、室温、湿度、騒音。いずれかに問題があります」
「だから、今日は休む」
マサカゲが繰り返した。
「休む必要があるほどの異常値は検出されていません」
「アオノ」
メバルが静かに言った。
「人は、数値に出ないことでも疲れるんだよ」
アオノは黙った。
彼女は、数値を疑わなかった。
体温が正常なら、熱はない。
機材の電源が入るなら、故障していない。
データが保存されているなら、失われていない。
問題は、原因を探し、対処すれば解決できる。
それがアオノの考え方だった。
だが、目の前の六人の沈黙には、測定できる原因がなかった。
「昨日の録音データに問題がありましたか」
アオノが尋ねた。
カキが顔を上げた。
「違う」
「防音室の音響に問題が?」
「違うって」
「生活支援システムの件を引きずっていますか」
「それも違う」
カキは短く答え、また視線を落とした。
アオノは少し考えた。
「では、原因を説明してください」
「説明できないから、こうなってるんだろ」
カキの声に、わずかな苛立ちが混じった。
アオノは黙った。
カキが苛立つ理由も、マサカゲが中止を決めた理由も、メバルが黙っている理由も分からない。
状況は目の前にある。
しかし、原因へつながる情報がない。
アオノは、手元の端末を見た。
「質問を変えます。現在、何をすればいいですか」
メバルが困ったように笑った。
「アオノちゃんは、いつもそうだね」
「何がですか」
「何をすればいいか分からないと、すぐに聞くところ」
「必要な指示を確認しています」
「今日は、誰も指示できないよ」
その言葉は、アオノにとって予想外だった。
機械には説明書がある。
故障にはエラーコードがある。
システムには管理者がいる。
だが、人間の不調には、明確な表示がない。
アオノは防音室を出た。
リビングに戻ると、昨日の録音データを確認した。
波形に異常はない。
音量も、各パートのバランスも問題ない。
K-Tのドラムは一定で、マサカゲのベースは安定している。カキのギターには少し乱れがあるが、演奏上の個性として許容できる範囲だった。メバルの歌声も、ミステーのギターも、問題なく記録されている。
音は正しい。
しかし、音楽は成立していない。
アオノはそこに矛盾を感じた。
「演奏データに異常はありません」
彼女が言うと、マサカゲが苦笑した。
「それは分かってる」
「では、何が足りないのでしょう」
「俺にも分からない」
「分からないことが続いています」
「そうだな」
マサカゲは椅子に座り、手帳を閉じた。
「たぶん、俺たちは少し疲れている」
「睡眠時間を確認します」
「そういう意味じゃない」
「睡眠不足ではない?」
「そうじゃない」
マサカゲはしばらく黙ってから、言葉を選ぶように話した。
「最近、予定を詰めすぎていた。防音室の使用時間、曲の完成日、機材の整備、生活当番。全部決めておけば、うまくいくと思っていた」
彼は手帳を見た。
「でも、予定通りに動くことだけが、うまくいくことじゃないらしい」
アオノはその言葉を端末に入力しようとした。
しかし、入力する内容が決まらなかった。
予定を詰めすぎた。
疲れている。
うまくいっていない。
どれも、具体的な数値にならない。
「私は、対処できません」
アオノは言った。
マサカゲが顔を上げる。
「機材なら、故障箇所を探せます。配線なら、電圧を確認できます。記録なら、欠落の有無を調べられます」
アオノの声は平坦だった。
「ですが、今の問題には測定項目がありません」
「それでいい」
「よくありません」
「アオノ」
「原因がないのに、問題だけが存在しています」
言葉が少しずつ速くなる。
「それは、私には処理できません」
リビングが静かになった。
メバルが立ち上がった。
「アオノちゃん」
「私は、何を修正すればいいのですか」
「修正しなくていいよ」
「修正しなければ、状態は変わりません」
「変わらなくてもいいときがあるの」
「それでは解決になりません」
「解決しなくていいときもあるよ」
メバルの声は優しかった。
それが、アオノにはかえって難しかった。
機械を修理するとき、優しさは必要ない。
必要なのは、正しい部品と正しい手順だ。
しかし、メバルは部品でも手順でもない。
彼女はアオノの隣に座った。
「最近、アオノちゃんも寝てないでしょ」
「睡眠時間は確保しています」
「何時間?」
「四時間二十六分」
「それは足りないよ」
「活動に支障はありません」
「支障が出てから休むんじゃ遅いよ」
アオノは答えなかった。
彼女は午前二時まで監視システムの調整をしていた。午前四時には防音室へ行き、K-Tとの演奏に参加した。その後、生活支援システムの修正と、昨日の低周波音の分析を続けていた。
眠気はあった。
だが、それを問題として扱っていなかった。
「休息は必要です」
アオノが言う。
「そうだね」
「しかし、休む理由が不足しています」
「疲れたからで十分だよ」
「疲労値を測定できません」
「測らなくても分かるよ」
メバルがアオノの顔を見た。
「アオノちゃん、今、ずっと同じところを見てる」
アオノは画面を見下ろした。
録音データの波形。
確かに、数分前から同じ部分を表示していた。
「処理が停止していました」
「それが疲れてるってことかもしれないね」
アオノは、画面を閉じた。
すると、急に周囲の音が大きくなった。
冷蔵庫の駆動音。
時計の秒針。
庭の風。
廊下を歩くK-Tの足音。
普段なら気にも留めない音が、ひとつずつ耳に入ってくる。
アオノは、リビングの中央に立ったまま動かなかった。
「音が多い」
「いつもと同じだよ」
「いいえ。いつもより多い」
「たぶん、今まで聞いていなかっただけだと思う」
ミステーが窓際から言った。
アオノはミステーを見る。
「聞いていなかった?」
「聞こえていても、聞く必要がないと判断していた音です」
「それは合理的です」
「合理的な耳は、たまに聞き逃します」
ミステーはそう言って、窓を少し開けた。
外から、風に揺れる木の葉の音が入ってくる。
規則的ではない。
強くなったり、弱くなったりする。
何かの意味を持っているわけでもない。
アオノは、音を分析しようとした。
風速。
葉の揺れ。
周波数。
しかし、途中でやめた。
意味がなくても、音はそこにあった。
午後になっても、防音室は使われなかった。
代わりに、六人はリビングに集まっていた。
マサカゲは予定表を一度白紙に戻し、カキはギターをケースにしまった。ミステーは窓を開けたままにし、メバルは全員分の飲み物を用意していた。
K-Tはソファに座っている。
彼は何も言わなかったが、帰ろうとも、練習を始めようともしなかった。
アオノはリビングの壁際に座り、キーボードを膝の上に置いた。
演奏するつもりはなかった。
ただ、鍵盤に触れていたかった。
アオノは一音だけ鳴らした。
小さな音だった。
メバルが振り返る。
「弾くの?」
「確認です」
「何を?」
「音が、ここにあることを」
アオノはもう一度、同じ鍵盤を押した。
同じ高さの音。
同じ音量。
同じ長さ。
だが、一回目と二回目は、同じには聞こえなかった。
一回目は部屋の中へ落ちた。
二回目は、誰かの沈黙のそばに置かれた。
アオノはそれを説明できなかった。
説明できないまま、音を重ねる。
短い旋律になった。
完成した曲ではない。
目的もない。
それでも、誰も止めなかった。
カキが静かにギターを取り出し、アオノの音に一つだけコードを重ねる。
マサカゲがベースを加えた。
ミステーは、普段使わない不安定なコードを選んだ。
メバルは歌わず、ただ小さく口笛を吹いた。
K-Tは最後まで動かなかった。
しかし、アオノの旋律が途切れたとき、ドラムスティックでテーブルを二度叩いた。
トン、トン。
それだけだった。
アオノは、その音に合わせて鍵盤を押した。
音は広がらなかった。
大きくもならなかった。
ただ、六人の間に残った。
夕方。
マサカゲが新しい予定表を作った。
明日の午前中、防音室の使用予定は空欄になっている。
「空けておく」
マサカゲが言った。
「理由は?」
アオノが尋ねる。
「理由は書かない」
「空欄ですか」
「ああ」
「予定表として不完全です」
「不完全でも、今はそれでいい」
アオノは予定表を見た。
空白は、未入力のデータに見えた。
けれど、今日一日を過ごしたあとでは、それが欠落とは思えなかった。
空白は、何かを置くための場所でもある。
「分かりました」
アオノは頷いた。
夜。
アオノは一人で防音室に入った。
機材はすべて正常だった。
マイクも、アンプも、キーボードも、録音システムも問題ない。
アオノは照明を落とし、キーボードの前に座る。
何かを作ろうとはしなかった。
ただ、指を鍵盤の上に置いた。
音を出さない。
出さないまま、しばらく待つ。
防音室は静かだった。
完全な無音ではない。
空調のわずかな振動。
建物の奥を通る配管。
遠くで動く車の音。
誰かが廊下を歩く音。
そして、ドラムスティックが一度だけ何かに触れた音。
K-Tが近くにいるのだろう。
アオノは鍵盤を押した。
一音だけ。
その音を録音することはなかった。
波形を確認することもなかった。
音が正しいかどうかを判断しなかった。
ただ、音が消えるまで聞いていた。
数値にならないもの。
修正できないもの。
原因が分からないもの。
それでも、確かにそこにあるもの。
アオノはその存在を、初めて受け入れようとしていた。
コメント
1件
いやー、第4話、めっちゃ良かった…。アオノの「数値で測れないもの」に直面して戸惑う感じ、すごく伝わってきた。機械みたいに正確な彼女が、最後に「音が消えるまで聞いていた」っていうのが沁みるわ。メンバーが無理に演奏しないで、それぞれの沈黙を共有する空気感も好き。説明できないけど確かにあるもの、っていうテーマが刺さった。
#スクラッチャーズ
K-Takasaka
214
#異世界転生
#K-T