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人も疎らになった遅い時間、リオンはジャケットを引っかけた肩を落としながら署内の階段を一段ずつ下りていた。
恋人に誕生日プレゼントとして貰った時計を見ればパーティが始まる時刻どころか、下手をすれば終わっていてもおかしくない時間を指し示していた。
溜息を零しスーツのポケットから携帯を取りだしたリオンは、着信とメールが届いているアイコンに気付き、階段を下る足を止めて壁に背中を預け、気怠げに留守番電話の再生とメールの確認をするが、どちらもウーヴェからのものだと気付くともう一度溜息を吐いて壁から背中を剥がす。
仕事にかまけて愛して止まない恋人からの連絡に気付かなかったのだが、それは今まで何度も経験していることで、その経験の結果から大抵の場合は相手に一方的に詰られるか無視をされてしまい、その挙げ句に別れの道を選択してきたのだ。
さすがにウーヴェとはそうはならないという確固たる思いは胸に溢れていたが、以前にも連絡の一つぐらいしてくれと言われていた事を思い出し、暗澹たる思いを胸に溢れさせながら階段を下り始める。
署の正面玄関を出てとぼとぼと駅の方面へと向かうリオンだったが、このままパーティ会場になっているホテルに顔を出した方が良いのか、それともウーヴェの自宅に向かった方が良いのかを思案しはじめ、結果足を止めて立ち尽くしてしまう。
せっかくのパーティへのお誘いと、その時に同級生に自分を紹介するつもりだとひと月近く前に照れながらも教えてくれたウーヴェの顔が脳裏を掠め、お互いが楽しみにしていたそれに出る事も出来ずに天を仰いで嘆息すると、頬に冷たい滴がぽつりぽつりと落ちてくる。
「げっ!」
まるで自業自得だと天が嘲笑ったような雨にリオンが短く舌打ちをし、くそったれと文字通り天に向けて唾を吐き出したその時、短くクラクションが鳴らされてのろのろと顔を振り向ける。
「家に帰るのならば乗っていけ、リオン」
「・・・親父・・・さ、ん?」
立ち尽くして文句を吐き捨てるリオンに合図を送ってきたのは、数時間前に簡単な聴取を終えて忙しいと慌てる秘書を尻目に悠然とポケットに手を突っ込んだ横柄にも感じる態度で警察署を出て行ったレオポルドだった。
「早く乗れ」
苛立ちを隠さない声にリオンがどうして今このタイミングでここにいるんだと問いかけるべきかどうかを思案しつつ左右を見回すが、そんなリオンに業を煮やしたらしいレオポルドがドアを勢いよく開け放ち、さっさと乗らなければ車内が濡れると告げる。
「ありがとうございます」
「おぅ、気にするな」
今日はお前に助けられたと鷹揚に頷き、国産の高級車の代名詞とも言える車の後部シートに乗り込んだリオンは、ルームミラー越しに助手席の秘書から睨まれてしまい、ただ無言で肩を竦める。
「今日はご苦労だったな」
「あー、本当ですねー」
まさか本当に狙撃されるとは思わなかったと苦笑し、本当に今日は散々な日だったと呟けば、会長に対してそのぞんざいな物言いは何だと再度ミラーの中から睨まれてしまい、さすがに二度も三度も睨まれれば不愉快になってしまう為、蒼い瞳に力を込めてミラーの中で睨み返せば、まさか反撃が来るとは思っていなかった秘書が視線だけではなく顔ごと逸らせてしまう。
「これから家に帰るのなら送っていくぞ」
「・・・その前にちょっと失礼します」
一言断りを入れたリオンが行ったのは、見なくても覚えている番号への電話だった。
コールが何度か数えたが愛しい恋人の声は聞こえて来ず、再度肩を落としながらメールを入れてみるが、信号待ちをしていた車が走り出しても返事は来なかった。
パーティはもうとっくに終わっている頃だろうが、自宅に戻ってシャワーでも浴びているのかと思案するが、こんなにも遅い時間にシャワーを浴びる事など考えられないと気付き、それならば何の連絡もしなかった自分に対して立腹したまま寝てしまったのかと考えるが、考えれば考えるほど思考回路は最悪の方へと突き進んでしまう。
「・・・最悪だ」
「どうした?」
レオポルドがゆったりとシートをリクライニングさせるだけではなく、フットレストも伸ばした状態で寛ぎながらリオンを見上げれば、ちらりと青い眼がレオポルドを見た後、深く深く溜息を零す。
大好きなウーヴェと初めて出席するはずだったパーティ。なのにそのパーティの数時間前に入っていた仕事のパーティで事件が起きてしまい、その事件の後始末だの何だので時間を取られた結果今帰宅する事になったのだが、息子とのデートをドタキャンさせた父を思わず睨み付けてしまうが、いきなり睨まれても理由が分からんと腕を組んで嘯かれ、親父のせいだと瞼を平らにした時、レオポルドが身体を起こし、二人の間にある肘置きに頬杖を着いてリオンを睨み返す。
「何だ、ウーヴェと待ち合わせでもしていたのか」
「!!」
「今日は・・・おお、そう言えばウーヴェの大学の恩師の就任祝いか何かがあったな」
そうだったなと、助手席の秘書に確認するように問えば、同じホテルの違うフロアで夜に行われたはずだと返され、唇に太い笑みを浮かべる。
「そのパーティに出席するつもりだったのか?」
「そうですよ」
「そうか・・・おい、行き先を変更する。ホテルに向かえ」
「は!?」
レオポルドの言葉に助手席と隣から素っ頓狂な声が同時に上がり、奥様がお待ちですがと恐る恐る秘書が訪ねるが、息子に会いに行くのにリッドが怒るはずがないと断言し、何でも良いから早くホテルに向かえと、癇癪玉と呼ぶには巨大すぎるものを爆発させかねない気配を滲ませれば、秘書が真っ青な顔色で運転手に行き先を伝えてシートの中で身体を小さくしてしまう。
「ちょ、ホテルに行ってもオーヴェがいるかどうかは・・・」
「あいつは楽しみにしていた約束をすっぽかされたと知れば、その場に居座って怒り狂っているような子供で、家族の皆が手を焼くほど頑固でもあったな」
「・・・・・・っ」
ウーヴェの成長を見守ってきたであろう家族のその言葉にはやはり重みがあり、怒り狂ったウーヴェの姿を想像したリオンは、それだけで自分が氷河期にタイムスリップしたような錯覚に囚われてしまう。
「じゃあ・・・」
「ああ。お前と待ち合わせているのがホテルなら、ホテルのロビーか何処かでお前が来るのを待っているはずだ」
あいつの性格からすればお前が帰ってくるのを家で待つなど出来ないだろうし、かといって仕事で忙しいと思っているお前に自ら連絡をしてくるとは思えないと断言され、確かにこちらが仕事かどうかを常に慮ってくれている事を思い出したリオンは、往生際が悪いと思いつつももう一度携帯を取りだしてリダイヤルをする。
その頃には車はすっかりと交通量の少なくなった道を走り抜け、ホテルまであと少しという区画にまで来ていた。
『・・・こんな時間に電話をしてくるなど、常識というものがないのか?』
やっと繋がった電話にいつもの声を掛けようとしたリオンだが、先を制するように冷たい声が流れ出し、思わず携帯を耳から離して顔を青くしてしまう。
「オーヴェぇ・・・っ」
『なんだ?手が冷たいから切るぞ』
「わー!!待った待った!!」
窓からホテルが見えた為に止めてくれと叫んでドアを開け放ち、まだ動いている車から転がるように飛び出すと、ホテルの入口傍の壁に背中を預けて携帯を耳に宛がって立っている細身のシルエット目掛けて駆け寄り、携帯をスラックスのポケットに突っ込んで膝に手をついて溜息を一つ。
「オーヴェ、ごめん」
「・・・いつか誰かが言っていたな」
そのごめんは何に対する謝罪だ、言ってみろ、今すぐ言ってみろと真冬の夜を連想させる声に迫られ、いくつかあると言えば鼻先で冷たく笑われてしまう。
「いくつもあるのか?」
「ああ。ある。────真っ先に謝らないといけないのは、約束を破ったことだ」
「約束?」
リオンの真摯な声にウーヴェの冷たい声が重なり、何か約束をしていただろうかと眼鏡のフレームを撫でるのを認めたリオンは、もしも仕事などでドタキャンするのならば連絡をすると言っていたのに今日は何の連絡もしなかったと素直に謝罪をし、次はこんな時間までここで待たせたことだと謝ると、ウーヴェの口から咄嗟には意味の理解出来ない溜息がこぼれ落ちる。
「パーティに一緒に出られなかったこと、お前が今日の為に買ってくれたスーツを着られなかったこと」
謝る事は沢山あるが、一つだけ言い訳をさせてくれと声に真摯さを滲ませれば、ウーヴェがもう一度溜息を零した後、白い髪を掻き上げて視線で先を促す。
「パーティで護衛をする仕事は覚えてるよな?」
「ああ」
「その時に事件が起きたけど、けが人もなく犯人を逮捕出来た」
「・・・来る事も連絡を入れることも出来なかったが、仕事だから許せと言いたいのか?」
許して欲しいがまずはちゃんと俺に向き直ってくれと肩を竦めたリオンは、己の前でウーヴェのターコイズがみるみる内に見開かれていく事に気付き、どうしたと首を傾げるが、背後から伝わる気配に顔を振り向けて苦笑する。
「・・・父・・・さ、ん・・・?」
「久しぶりだな、ウーヴェ」
何年ぶりに直接顔を合わせただろうと目を細めたレオポルドは、ウーヴェの顔が強張っている事をしっかりと見抜き、良く似た碧の瞳に複雑な色を浮かべたかと思うと、スーツの胸ポケットから煙草を取り出して火をつける。
「こいつが今言ったことは全て本当だ」
「・・・まさ、か・・・」
「ああ。リオンが護衛をしていたのは俺だ」
ウーヴェが呆然とレオポルドを見上げて呟くとリオンが言わなくても良いと言いたげに顔を顰めてしまうが、口に出しては何も言うことは無かった。
「許す許さないはお前次第だ。ただ、一方的に怒るのではなく、こいつの言い分もしっかりと聞いてやれ」
「そ、んな・・・事・・・っ!」
「そうだったな。もうお前はこんな事をわざわざ言わなくても分かる大人になっているな。許せ」
ついいつまでもお前を小さな子供だと思ってしまうと、この時リオンが初めて見るようなレオポルドの顔に目を瞠るが、父と息子はそれどころではないのか、ウーヴェが震えながら頭を振り、全身の力を振り絞るような声でそんな事を言うなと告げてリオンを見つめる。
その様からレオポルドが深く溜息を零すと、リオンに向き直って煙草の煙を雨が降る上空に吹き付ける。
「警部には話を付けておく。リオン、明日の朝家に来い。バーンズ、タクシーを呼べ」
レオポルドの背後で静かに佇んでいる秘書が不意に名を呼ばれて目を瞠るが、命じられた事には忠実に従う事を示すように携帯を取りだしてタクシーを手配すると、5分程お待ち下さいと目礼する。
「分かった」
秘書の言葉に鷹揚に頷き、一体どうするつもりだと目を瞠る息子とその恋人に片目を閉じたレオポルドは、車内で待機している運転手に何事かを囁く為にウィンドウをノックし、顔を見せた運転手に一言二言告げると、リオンに車に乗れと顎で合図を送り、驚愕に目を瞠るウーヴェの前に再度立つ。
「今日は飲んでいるのだろう、ウーヴェ」
「・・・・・・関係、ない」
「おぉ、そうだ。確かにお前が酒を飲もうと関係のない事だ。だがこのまま濡れて帰るのは感心しない」
本格的に雨が降り出してきた今、それだけの荷物を持って電車で帰るのもタクシーで帰るのも認められないなと腕を組んだ父は、車に乗り込もうとするリオンを視線だけで振り返り、あいつの今日の働きを考えれば濡れて帰らせる事など出来ないと声を潜めると、ウーヴェの顔から一瞬にして色がなくなってしまう。
「ブルーノには言ってある。お前の家でもあいつの家でも構わないから送って貰え」
「そ・・・んな・・・」
「許せ、ウーヴェ」
お前はまだ俺の顔を見ることも、また俺がすることも許せないのだろうが、つい過保護になってしまう事を許せと囁かれるだけではなく、大きな手で白い髪を労るように撫でられてしまい、ウーヴェの身体に電流が走ったような震えが伝わっていく。
「リッドが随分とリオンを気に入ったようだ。お前さえ良ければリオンを連れてリッドと一緒に食事にでも行ってこい」
この間訪れたアリーセもそうだが、不思議なことにリオンと一度しか会わなくてもまた会いたくなると苦笑し、遠くからやってきたヘッドライトがホテルの壁を照らし出した事に気付き、呆然と立ち尽くすウーヴェの腕を掴んで強引に引くと、抵抗もお構いなしにリオンが乗り込んだドアとは別のドアを開けて息子の身体を無理矢理車内に押し込む。
「!!」
「ブルーノ、ウーヴェの家に送り届けてやってくれ」
「かしこまりました」
長年レオポルドの運転手を務めているブルーノが実直そうな声で頷き、ドアロックをすると静かに高級車を走らせ始める。
ウーヴェが乗った車が走り去るのを見届けたレオポルドは、秘書のバーンズに労いの声を掛けて明日の予定を手短に確認すると、自らドアを開けて後部シートに乗り込み、ここから小一時間程離れた小さな街の外れにある屋敷に向かってくれと運転手に告げるのだった。
ブルーノが車をウーヴェのアパートの玄関先に横付けた時、いつもならば一つ目のドアと二つ目のドアの間で常駐している警備員が慌てて飛び出してくる。
車を見て客の身分を判断するだけの教育は受けているのか、直立不動の姿勢を取った警備員だが、降りてきたのがいつも自転車でやってきては愛想良く手を挙げて笑顔で言葉を交わすリオンだった為に間の抜けた顔でまじまじと見つめてしまい、反対側のドアから憔悴したような顔でウーヴェが降り立った為、顔を引き締めてお帰りなさいと笑みを浮かべる。
ウーヴェがドアを開けてくれたブルーノが運転席に戻ろうとする直前に呼び止め、何やら一言二言会話を交わすと、ブルーノの目が夜目にもはっきりと潤んだようになり、ウーヴェが苦笑を浮かべてありがとうと礼を告げて待っているリオンの傍に向かう。
「お休みなさいませ、ウーヴェ様」
「ああ────気をつけて帰ってくれ、ブルーノ」
二人でブルーノが運転する高級車を見送り、事情を知りたいが職業柄それをしてはいけないと必死に抑え込む気配の警備員に頷いた後、ウーヴェが手にした荷物をリオンが手に取るが、ウーヴェは口を開くことなくドアを潜ってホテルのロビーのようなフロアを横切ってエレベーターホールに向かうと、リオンが乗り込むのを待って押さえていたドアから手を離す。
「オーヴェ」
「・・・すまない、リオン」
「うん?」
エレベーターが上がる音に負けそうな小さな声が謝罪をし、どうしたと先を促すように顔を覗き込んだリオンの耳に、家に入るまで待ってくれと流れ込んできた為、構わないと頷いて荷物を持ち直す。
この荷物はリオンがウーヴェに告げてパーティ会場であるホテルに持って行って貰っていたものだが、結局袖を通すことも出来ずに持ち帰らざるを得なくなったのだ。
この荷物をクロークに預けてパーティに出席していたウーヴェの気持ちを思えば仕事にかまけて連絡を怠った己を蹴り飛ばしたくなるが、残念ながら過去に戻ることなど出来ないのだ。
ならばこの先同じ事を繰り返さないようにする為に今ここで真正面から向き合ってウーヴェに許して貰うしかないと腹を括り、到着したフロアに降りたってドアを開けてくれるのを待つ。
二人沈黙を保ったまま廊下を進んでベッドルームに入ると、ウーヴェが荷物をソファに置けと告げてクローゼットのドアを開けると、リオン目掛けてハンガーを放り投げる。
「スーツを吊しておけよ」
「あ、うん・・・あ」
「どうした?」
リオンの声にウーヴェがクローゼットのドアから顔を出すが、眉尻が垂れた情けない顔でリオンがスーツに開いた穴に小指の先を突っ込んでいた。
「穴開いてた・・・!」
「え?」
せっかく誂えたばかりのスーツに穴が開いたと、この世の終わりのような顔で告げたリオンは、本当に今日は最悪だったと舌打ちをし、ウーヴェがいなければありとあらゆる罵詈雑言を並べ立てて運命を司る神とやらを罵倒し倒すのにと拳を握って力説してしまう。
そんな恋人の様子を呆気に取られたように見つめていたウーヴェだったが、その力の入れようがおかしくて、つい小さく吹き出してしまって拳を口元に宛がう。
「オーヴェ?」
「・・・・・・ほどほどにしておかないと、運命の女神に嫌われるんじゃないのか?」
「良いよ、別に」
顔も見たことのない運命の女神に嫌われたとしても痛くも痒くもないが、お前を悲しませたままというのは許せないと呟き、穴が開いてしまったスーツをハンガーに吊すと、瞬時に表情を切り替えたウーヴェの頬に掌を宛がいごめんと目を伏せる。
「さっきも言ったな?いくつ謝る事があるんだ?」
「うん。さっきも言ったけど、俺が謝りたいと思ったのは約束を破ったこと。認めて欲しいのは・・・仕事で精一杯やってきた事」
親父が事情を話してしまったが、とにかく仕事で本当に頑張ったからそれだけは認めて欲しいとひっそりと懇願すれば、ウーヴェの表情が波が引くように消えていったかと思うと、氷点下を思わせる声が流れ出す。
「どうして・・・言わなかった?」
「親父の護衛をする事をか?」
「ああ・・・・・・どうして言わなかった?」
例えお前の仕事に守秘義務があったとしても何故一言教えてくれなかったと、どんな理由からか全く予想も付かない冷えた声に問われ、教えようと思ったが何故か言い出せなかったと眉を寄せた瞬間、ウーヴェの口から常軌を逸したような笑い声が流れ出す。
「オーヴェ・・・?」
けたたましい嗤い声を上げるこの顔が過去の夢に魘されたり不仲である兄からの電話を受けた直後に見せるようになったものだと気付いて腿の横で拳を握ったリオンは、喉元を押さえながら笑い続けるウーヴェをただ見つめ続け、どんな類であっても良いから言葉で思いを伝えてくれと強く願う。
「・・・結局・・・あの人達は・・・自分の都合を優先する・・・っ・・・!」
仕事とは言え何故お前があの人の護衛をし、プライベートの時間を潰させるようなことをするんだと一際高く笑ったかと思うと、眼鏡を床に投げ捨ててシャツの胸元を握りしめる。
「護衛など・・・する必要はなかった・・・!」
身体の奥底から振り絞ったような声にリオンが青い眼を限界まで見開いたかと思うと、ウーヴェの名を低い声で呼んで視線をぶつけさせる。
「今何て言った?なあ、もう一度言ってみろよ、オーヴェ」
聞きようによっては睦言を囁きかける優しさにも感じるのに、堪えきれない激情を孕んだ声がもう一度言えとウーヴェに迫り、未だかつて一度たりとも聞いた事のないそれにウーヴェが己の失態に気付くが、それについて何かを口にするよりも早くに強い力で頭を固定するように挟み込まれて痛みに顔を顰めてしまう。
「お前がそれを言う?医者であるお前が・・・命の重みを誰よりも知っているはずのお前がそれを言うのか?」
決して逃れることの出来ない強い光を湛えた双眸に見据えられ、膝が崩れ落ちそうになるのを何とか堪えたウーヴェだったが、口を開いても言葉は流れ出さず、息苦しさを訴えるように口を開閉させる。
「俺の仕事は何だ?」
「刑・・・事・・・、だ」
「刑事も医者も、人を守る為に存在する事は知ってるよな?────なのに、お前がそれを言うのか?」
頭を左右から強い力で挟まれる苦痛よりも胸の奥で芽生えた痛みが強くて唇を噛み締めたウーヴェの目を覗き込んだリオンが、一瞬だけ悲しげな色を浮かべると同時に腹の底からの声を張り上げる。
「八つ当たりをするなと前に言っただろ!?腹が立つなら俺に直接文句を言え!親父の・・・親父が怪我をしても構わないなどと言うな!!」
悲哀すら混ざった声で叫んだリオンの脳裏に浮かんでいたのは、このひと月足らずの間に数回しか顔を合わせていないのに、何故か心の中で大きな居場所を占めるほどになったレオポルドの存在だった。
時間にすれば僅かひと月、顔を合わせた回数で言えば片手にも満たない男の顔が己の中で信じられない程の重さで存在している理由をリオンはうまく言葉に出来なかったが、子供のようなと称される自分と似ているようで決定的に違う、少年の心をいつまでも忘れていないような笑顔を持つ彼にどうしてここまで肩入れするのかも分からなかった。
だが、分からないなりにもその男の息子であるウーヴェにだけはそんな言葉を言わせてはいけないとの強い思いからもう一度そんな事を言うなと怒鳴るが、一転して今度は気弱な声で懇願する。
「いつものお前なら絶対にそんな事は言わないだろ?なのにどうして親父を守らなくても良いなんて言うんだよ・・・?」
今まで悩み苦しんできたからこそ医者になり、自分と似た境遇の人がいれば手助けしたいとの思いでやってきている筈なのに、何故命を軽んじるような事を言うんだとガラス玉の様な瞳を覗き込めば、不安に顔を歪める己の顔が映り込んでいて、ウーヴェの頭から手を離して痩躯を抱きしめる。
「それだけの事を・・・したから・・・っ」
「親父が死んでも仕方がない事をしたのか?」
リオンの腕の中で響く嘲笑に眉根を寄せるが、それは一体何だと問えばぴたりと嘲笑が止んだかと思うと、程なくしてやけに冷静な声が自らの父を弾劾する声を挙げる。
「金にものを言わせて産まれたばかりの子供を母親から奪い取った。誉められる事じゃないだろう?」
底冷えがする冷たさなどではなく、絶対零度としか言いようのないその空気にリオンが身体を震わせるが、深呼吸を繰り返して腹を括り、ウーヴェの顔を覗き込む為に身を離すと、ターコイズには怒りや憎しみの中に隠しきれない哀しさが混ざっている事に気付き、軽く拳を握って腕を組む。
「誉められた事じゃねぇけど、それぐらいで死ななきゃならないのか?」
ウーヴェの瞳の奥に潜む本心を引きずり出したくて嘲笑した時、碧の瞳が強い光に煌めき、こんな時に不謹慎かも知れないが貴石のような光に僅かに息を飲む。
「その結果何人が死んだ!?何の罪もない人間が何人死んだんだ!」
どうしてハシムがあんなにも無残な最期を迎えなければならなかったと叫び、奥歯を噛み締める音を響かせた直後、呼気の固まりを吐き出すようにシャツの胸元を再度握りしめ、どうして自分だけが生きていると聞いているリオンの胸が痛むような声を振り絞る。
「何故俺だけが・・・っ、今こうして・・・生きてる・・・っ!」
あの時ハシムと一緒に死んでいれば、それよりもいっその事生まれてこなければこんなにも苦しみながら生き続けなくても良かったのにと、今まで誰にも言わずに堪えていたであろう思いが溢れ出したようで、咄嗟にリオンが腕を振り解いて白い髪を胸に抱え込み、丸められた背中を片腕で抱きしめる。
「そんなさぁ・・・」
腕の中で震えるウーヴェを思えば辛くて悲しくて仕方がなかったが、自分までその思いに引きずられない踏みとどまる強さをくれと、誰にともなく願いながら天井を見上げて寂しそうな声で囁く。
「そんな悲しいこと言うなよ、オーヴェ」
どうして生きているとか何故生まれたとか、己の力だけではどうすることも出来ないのだからと呟き、生まれてきてしまったんだから仕方がないと自嘲に顔を歪める。
立場や環境は全く違っていても自分たちは何故生まれてきたのかという己の根源を成す疑問を常に心の何処かで抱え、その答えを見つける為に生きているようなものだと笑うが、ウーヴェの気配が少しだけ変化したのを見逃さずに腕に力を込めて白い髪に頬を押し当てる。
「どうしてって言われても・・・俺たちは生きてるんだ、オーヴェ。そうだろう?」
何故生まれてきたのか、どうして生きているのか、そんなのは知った事ではない。あの時マザー・カタリーナらが見つけてくれた為に生きていて、今ここにいるんだと揺るがない強さで断言し、ウーヴェの顔を覗き込んでターコイズと視線がぶつかった瞬間、破顔一笑する。
「生きてるんだ、ウーヴェ」
一人だけ生き残った理由もその贖罪も関係ない。どうしようもない苦しみや悩みを抱えながらも、今、生きているのだ。
「リ・・・ッ、オ・・・!」
「うん。俺はお前ほど頭が良くないから分からねぇけど、それで良いじゃねぇか」
哲学など小難しい事は分からないが、生きているからこそ今こうしてお前を抱くことが出来るんだと白い髪に口を寄せて囁けば、リオンの腕の中でウーヴェの膝が崩れ落ちてしまう。
慌ててウーヴェを支え、ベッドよりも近くにあるソファに引きずっていったリオンは、二人で縺れるようにソファに倒れ込み、乗り上げてくるウーヴェの背中を宥めるように何度も撫でるが、程なくしてその手の動きに合わせたように呼吸が繰り返される。
「もう良いだろ、オーヴェ。もう自分をさ・・・」
こうして日々を過ごし生きていく自分を許してやれと込み上げそうになる思いを堪え天井を見上げながら背中をぽんと叩き、出来るのならば一緒に生きていこうと笑いかけると、腕の中で白い髪が微かに上下する。
「なあ、オーヴェ」
「・・・何だ」
「今回の護衛の件、黙っていたのは確かに悪かったと思ってる」
いつでも言い出せる機会はあったのにそれをしなかったのは全面的に自分が悪いと反省の意を示すリオンだが、これだけは認めてくれと耳に口を寄せて目を閉じる。
「お前が親父を嫌っているのは分かる・・・でも、俺は仕事であの人を護衛したんだ」
仕事に相手への好悪の感情を混ぜるわけにはいかないと断言し、いつも冷静で聡明なお前ならば分かってくれるだろうとも囁けば暫くの間沈黙が流れるが、ぽつりと小さな声が分かったと呟いて胸の上に転がり落ちる。
「ダン、オーヴェ」
お前ならば話せば分かってくれると思っていたと己の恋人を信じて疑わない声でリオンが感謝の気持ちを伝えれば、ようやくウーヴェが顔を上げた為、二人の視線がリオンの胸の上で交差する。
「・・・興奮して・・・悪かった」
「良いよ、あれぐらい」
それにお前の感情表現にも慣れたから平気だと肩を竦め、額に張り付く白い髪を掻き上げてやったリオンは、頭は痛くないかとお決まりのことを問いかけて大丈夫だと返される。
「今日は本当にごめん」
「もう良い」
姿を見せた額に口を寄せたリオンは、ウーヴェの気分がひとまずは落ち着いたことに安堵し、自分が嫌っている父の護衛が仕事だと理解してくれた事にも胸を撫で下ろし、掛け声を掛けて起き上がることを伝えるとウーヴェもそれに倣って身を起こす。
「・・・オーヴェのタキシード姿、見たかったなぁ」
今夜のパーティに出席できなかった為、初めて見るお前のフォーマル姿を見たかったと、ウーヴェの肩に額を載せつつ嘆きの声を挙げれば、家に帰ってくるまで見ただろうと呆れた様な声が流れ込むが、そっと後頭部に宛がわれた手が優しく宥めるように髪を撫でてくれた為、自然とリオンの顔に笑みが浮かび上がる。
「それを言うのなら・・・」
俺もお前のタキシード姿を楽しみにしていたんだと、ひっそりと夜の色香を滲ませたような声に囁かれて素直にごめんと謝ってみるが、何なら今から着てみようかと笑えば調子に乗るなと髪を引っ張られてしまう。
「いて・・・!ぃてて!オーヴェ、痛いっ!」
「うるさい」
いつもの悲鳴にいつもの煩いの声が重なり、戻ってきた日常感にどちらからともなく溜息を零すと額と額を触れあわせ、リオンの腿にウーヴェが手をつくとそれにリオンの手が重ねられる。
「オーヴェ」
「・・・・・・うん」
短く名を呼んで同じく短く返した後は言葉は必要ではなくて、リオンがそっと唇を重ねるとウーヴェもそれを受け入れるように目を閉じる。
ウーヴェとのキスを交わしつつもリオンの脳裏にレオポルドの顔が浮かびそうになるが、どうしてこんなにも彼の事が気になるのか、また自分が何故親父と呼んだのかを追求する気持ちになれるはずもなく、さすがに今夜はもう忘れたいと胸の奥で自嘲し、リオンの気配が変化したことを敏感に察したらしいウーヴェに謝罪する意味も込めて鼻先にキスをすると、かなり遅くなって下の階の人に迷惑かも知れないが、さっとシャワーを浴びようと告げてウーヴェの手を取りながらソファから立ち上がるのだった。
ブラインドが下ろされている掃き出し窓の向こう、テラスにおいたテーブルと椅子を降り続く雨が優しく濡らしていくのだった。