篠崎の車に乗り込んだ夏希は、朝見た時とは別人のような派手な化粧を施していた。
ガチャガチャと音が鳴る荷物が2つと、着替えとオムツが入っていると思われる柔らかい袋が2つがアウディのトランクに収められ、車は郊外にある温泉宿にある観光ホテルに向けて出発した。
夏希が言う通り泣き叫ばれるのを覚悟していたが、当の葵は車が動き出すとすぐに寝てしまい、車内は不思議な緊張感に包まれた。
「新谷さん……でしたっけ?」
夏希が助手席に座る新谷に話しかける。
「あ、はい。そうです」
「おいくつですか?」
言いながらニコリとも笑わない。
「もうすぐ26です」
言うと夏希は目を丸くした。
「年上?見えない…!」
由樹は全く同じ感想を夏希に抱きながら苦笑いをした。
「独身ですか?」
ずかずかと聞いてくる。
「ええ、まあ」
言いながら視線を前方に戻すが、
「彼女は?」
質問が追いかけてくる。
「いません」
「どうして?」
「……ええと。なんででしょうね……?」
由樹が返答に困っていると、夏希はため息をつきながらコートの裾を直して足を組んだ。
「ハウスメーカーってそんなに忙しいんですか?篠崎さんも独身だし」
話題は篠崎に移る。
「こんないい男、女が放っておくなんて変だと思いません?」
由樹に言ってるようで、視線は篠崎の後頭部を睨むように見ている。
「はは」
篠崎は前方を見ながら目の脇辺りをポリポリと掻いた。
「子供嫌いとか?」
「いえ、好きですよ」
篠崎が軽く鼻で笑いながら答える。
「女嫌いとか」
「はは、まさか」
言ってから篠崎の視線がこちらに流れる。
「この間、結婚したいって言ってましたもんね」
夏希がフウと息をつきながらシートに身体を沈める。
由樹は篠崎から目をそらし、視線を前方に戻した。
今更そんなことで凹んだりはしない。
自分だって、お客様に同じ質問をされたら、きっと同じように答えている。
しかし。
しかし、今、篠崎の顔を、
見ることはできない。
ホテルに着きチェックインを済ませ部屋に荷物を置くと、由樹と篠崎は小さく頷き合った。
「それでは、復旧のめどが立ったらご連絡申し上げますので」
「わかりました」
夏希は何やら落ち着かない様子で、ホテルの部屋を見回した。
「何か困ったことがあればいつでも連絡くださいね」
篠崎が言うと、夏希は頷いた。
「あいあーい」
葵が手を振る。
篠崎と新谷は並んで葵に手を振り、部屋を後にした。
二人を乗せたアウディが走り出す。
温泉街の起伏の激しい道を進みながら篠崎は頭を掻いた。
「やっぱり冬用にもう1台買うかな。RV車」
「あ、いいですね!」
無理に明るく出した声に、篠崎がこちらをちらりと見た。
「実は俺もそろそろ台替えしようかと思っていて。今度一緒に車屋さんに行きましょうよ!」
「そうだな」
篠崎は前方に視線を戻しながら言った。
「……仲良くお揃いにするか」
篠崎がふざけて言ってくる。
「俺は良いですけど、金子と細越はドン引きすると思います」
冗談に乗っかる。
2人は笑い合った。
アウディには乗り慣れているはずなのに、夏希と葵がいなくなっただけで、車内は急に色が黒っぽく変わったような気がした。
男の声しかしない。
男の息遣いしかしない。
男の匂いしかしない。
男の。
男の。
男の。
――――。
『結婚したい』
篠崎はどんなシーンで、離婚したばかりの夏希にこの話をしたのだろうか。
言われた夏希は、
篠崎のことを『女が放っておくはずのないいい男』だと形容する夏希は、
それを聞いてどう思ったのだろうか。
『独身』である篠崎を。
『結婚したい』篠崎を。
『子供が好き』な篠崎を。
――ダメだ。
由樹は絶望のため息をつきながら窓の外を見た。
この不安と悩みは、とどまることを知らない。
そしてこれはきっと篠崎が年を取ろうが、たとえ渡辺を超す巨漢になろうが、変わらない。
いつ心変わりしてもおかしくない。
男と付きあっていくことに違和感を感じて女に戻る。
それは男が付き合っている彼女からスライドして、他の女性を好きになるような平行移動ではない。
180度向きをぐるりと返る、回転移動だ。
本来の正常な向きに戻った男は、きっと2度とこちらを振り返らない。
篠崎を女性にとられたら、
もう二度と戻ってこない。
『そうなったら100パー負けるから、男は』
牧村の言葉が蘇る。
『だって女を愛し、結婚して家庭を持つ方が、ノンケの男にとってはバリバリのイージーモードでしょ』
――分かってる。分かってるよ、そんなの。
『家族も友人も犠牲にして一人の男を愛し抜くなんざ、ハードモード通り過ぎてムリゲーだから』
――そうだよ。
でも、俺たちにはわかってくれる友人がいる。理解してくれる職場もある。
何も犠牲にしなくても、俺は、篠崎さんを幸せにできるんだ…!
『それはお前だけだろ』
――え?
由樹は驚いて運転席を見た。
『俺はストレートなんだよ。お前と同類にすんな』
運転しているはずなのに、篠崎はこちらをまっすぐに見つめながら続ける。
『お前と出会ってなかったら、そこら辺の綺麗な姉ちゃんと結婚して、今頃よちよち歩きのガキと一緒に雪だるまでも作ってたんだよ』
いつの間にか篠崎の膝には葵が座って笑っている。
『それともお前、ホッとしてんのか?』
―――え?
『俺に親がいないから、とやかく言われなくて済んでよかったって』
―――違います!
必死で否定しようとするのだが、声が出ない。
『お前、最悪だな』
―――違う!
『お客様の幸せ作りは出来て、俺の幸せは奪っていくのかよ』
―――違う!こんなことを、篠崎さんが言うわけがない!
『だから―――だよ…』
―――え?
篠崎はこちらを睨み落とした。
『だからお前は、家も売れねぇんだよ!』
「新谷、おい。起きろ」
篠崎の声で由樹は目を開けた。
「着いたぞ」
目の前にはセゾンエスペース八尾首展示場が聳え立っていた。
篠崎が目を擦っている。
「あ、俺、いつの間に寝ちゃって!すみません、運転させて……」
「いや、寝不足なのは俺の責任だからな…」
ふっと笑った笑顔が心なしかまた赤い。
「篠崎さん、また熱が上がってきたんじゃ……」
「ああ。多分な……」
言いながら、シートに頭を埋めている。
「帰った方が……」
「そうだな。そうさせてもらう。ナベには伝えておいてくれ」
言いながら首を回している。
由樹は慌ててシートベルトを外して鞄を手にした。
「篠崎さん。もし万一鈴原さんから連絡がきて、何か必要なら俺が届けますから電話してくださいね!」
言うと、篠崎はこちらを振り返って微笑んだ。
「……心配しなくても逢引なんてしねぇよ」
「そんなつもりじゃ……」
「はいはい。じゃあな」
言いながら本当に具合の悪そうな篠崎はハンドルに凭れるように手を上げると、アウディをバックさせて、展示場の駐車場から出て行った。
「大丈夫かな……」
走り去るアウディまでよろけているように見えて、由樹はため息をついた。
「俺も定時で仕事を終わらせて、早く帰ろう」
思いながら踵を返すと、管理棟の喫煙スペースから細い煙が上がっていた。
ベンチで足を開きながら座っている牧村が空に向かって煙を吐き出している。
「…………」
そう言えば、篠崎は昨日帰ってきてから1本も煙草を吸っていない。
やはり体調が悪いからだろうか。
一緒に住み始めてから、いや時庭時代から、篠崎が体調を崩しているのなんて見たことがない。
大事に至らなければいいが。
「セゾンくーん!」
煙草の煙を見ながら突っ立っていた由樹に気づいた牧村が呼ぶ。
「お疲れ様です」
駆け寄ると、牧村は煙草を持っている逆の手をひらひらと振ってみせた。
「この間はどうも」
「こちらこそ、ごちそうさまでした!」
お開きの直前、牧村が3人分の飲み代を全て払っていたのだった。
「いや、いいよ。いつ入れられたかわかんなかったんだけど、紫雨さんに半分以上ポケットに突っ込まれてたし」
ヘラヘラ笑っている。
「ねえねえ。込み入った話なんだけどさ。紫雨さんの彼氏ってノンケ?」
突然の込み入った話題に由樹は思わず、彼の隣に座った。
「……そうですよ。どうしてですか?」
「んー。偉そうなこと言う割になんかゲイ慣れしてなかったみたいだから」
首を傾げる。
(なんだ?ゲイ慣れって…)
「あ、そう言う点では」
背もたれに自然に腕を回される。
「君も当然、慣れてないよね」
顔が寄せられる。
「…………」
「————」
2人で見つめ合う。
「……君さ」
「はい?」
「今や俺がゲイだって知ってるわけじゃん?」
「はい」
「怖くないの?」
「………」
由樹はフッと笑った。
「怖くないですよ?」
「なんで」
牧村の手が由樹の小さな顎を掴む。
「油断してると、痛い目見るかもよ?」
それを聞いても由樹はヘラヘラと笑っている。
「大丈夫ですよ牧村さんは。俺に興味ないでしょ?」
「…………」
「俺の襲われキャリアを嘗めないでくださいよ?危険な男は匂いでわかります」
言いながら自分の鼻をツンツンとつついて見せる。
「……はっ」
牧村は笑いながら由樹の顎から手を離すと、煙草を灰皿に押し付けた。
「そこ自慢する所じゃないから」
言いながらその手が由樹の頭を撫でる。
「本当ですよ。紫雨さんに出会ったときなんてヤバい匂いをプンプンさせてましたから!」
「じゃあさ、篠崎さんは?」
「え?」
「篠崎さんはノンケだけど、危険な香りはしたわけ?」
牧村が覗き込んでくる。
「……………」
どうだっただろう。
篠崎自身がうんちゃらという前に、由樹がまず先に彼に好意を持ったのだ。
勝手にドキドキし、勝手にときめき、勝手にドギマギしていたのだ。
篠崎自身がどう感じていたのかは―――。今となっては良くわからない。
「……そんなに考え込むなよ」
牧村は笑いながら立ち上がった。
「でもお前、ひとつだけ勘違いしてるよ」
歩き出す牧村に慌ててついていく。
「勘違い、ですか?」
「そ」
「何が、ですか?」
「それはさ」
牧村が振り返る。
「俺が、お前に興味ないってとこ」
由樹はその切れ長の目を見つめた。
「興味あるよちゃんと。何かお前、他人の気がしないんだよな」
「…………」
由樹は目を細めて微笑んだ。
「俺もです。牧村さんは、昔からの知り合いのような、自分の分身のような、不思議な感覚です」
「…………」
言うと牧村の目が縦に大きく見開いた。
「……あ。まずい!今日早く帰らなきゃいけないんだった!すみません、牧村さん!」
由樹は踵を返した。
「今度また飲みに行きましょうね!」
「ああ!絶対な!」
牧村は走り去っていく由樹の後ろ姿を見つめた。
「……本当だよ、新谷」
すでに小さくなった由樹の後ろ姿に向かって呟く。
「……お前が可愛くて仕方ない。だから、ほっとけないんだ」
由樹が展示場に到着し、事務所のドアを開いてその中に吸い込まれていく。
「お前のことは――――」
牧村はしまったドアに貼ってある【SEZON ESPACE】のタイル表札を睨んだ。
「……俺が救い出してやる!」
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