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「おかゆ、あと、おじや、うどん、ミカンの缶詰、あとは、バニラアイス?プリン?あ、リンゴすったやつとかもいいよね、確か!」
由樹はスーパー駆け回ると、次々に籠に放り込んでいった。
それを袋に詰めると、そのままコンパクトカーに飛び乗り、マンションまで車を飛ばした。
エレベーターを待ちきれずに、階段で上る。
息せき切ってドアを開ける。
照明がついている。ストーブもつけっぱなしだ。
しかし―――。
「篠崎さんがいない…?」
由樹はきょろきょろとリビングを見回した。
いない。
台所。
いない。
寝室。
いない。
―――いない……!
まさか、あの客に呼び出されて―――。
「……篠崎さん!」
思わず叫んで家から飛び出そうとしたところで、ぐいと腕を掴まれた。
「どーした。慌てて」
部屋着を着た篠崎が、濡れた髪の毛を拭きながらバスルームから出てきたところだった。
「篠崎さん!熱があるのに、お風呂とか大丈夫なんですか?」
驚いて言うと、彼は笑いながら由樹を抱きしめた。
「日中、すげー厚着して寝たらメチャクチャ汗かいてよ。スッキリしたからシャワー浴びた」
その事実にホッとしてずるずるとそのまま座り込む。
「よかった――。俺、心配、して……」
そのまま壁に凭れかかる。
「よかった」
「…………」
篠崎は由樹の正面にしゃがみ込んだ。
「お前、俺がシャワー浴びてるの、石鹸の匂いで気づかなかったのか?」
「ええ、全く。………あれ?」
目の前にいる篠崎を見つめる。
シャンプーも、ボディーソープも、全ての匂いが、しない―――。
篠崎の大きな手が由樹の額に触れる。
「移ったな……」
言いながら篠崎がため息をつく。
由樹は熱で潤む目で篠崎を見つめた。
◇◇◇◇◇
結局、翌日の土曜日は出勤できなかった。
由樹が買ってきたおかゆも、ミカンの缶詰も、バニラアイスも、プリンも、結局熱を出した由樹の口と腹に入った。
「じゃあ俺、行くからな」
すっかり元気になった篠崎はネクタイを締めてこちらを振り返った。
「しっかり治せよ?気合いだ、気合!」
「お……押忍……」
由樹は潤む目で篠崎を見上げた。
「ほら、寝込んでる場合じゃないぞ」
100%自分にウイルスを移した篠崎は、笑いながらパンフレットを由樹に渡した。
「三ツ星レストラン……?」
由樹は目を見開いた。
「明日、誕生日だろ?」
そのまま目を篠崎にスライドさせる。
「去年は、紫雨騒動でそれどころじゃなかったからな。今年は2年分、盛大に祝ってやる」
「————」
由樹は目をぱちくりさせながら、恋人の顔を見つめた。
「ま、まさか、ホテルで、ディナー的な?」
篠崎が笑う。
「そのあと、スイートルームで宿泊的な、だよ」
ますます目を潤ませて、由樹は篠崎を見つめた。
「俺のこと、そんなお姫様扱いしていいんすか……」
篠崎は呆れて笑った。
「言っとくけど。半年前から予約してたんだからな。だから気合い入れて治したのに。お前がかかってどうする……」
由樹は頭から布団を被った。
「俺だって、気合で治します!」
「ああ。必達な」
篠崎が鞄を持つ気配がする。
「さっさと治して、明日はちゃんと出勤して、そのままホテル行くぞ!」
「はい!!」
由樹は布団の中から叫んだ。
「じゃあな。なんかあったら電話しろ」
篠崎は布団の上から由樹を抱きしめその頭にキスをすると、立ち上がってマンションの部屋から出て行った。
残された由樹は熱を逃がさないように丸まった。
(絶対、治してやる……)
硬く決心し目を瞑った。
◆◆◆◆◆
トクトクトク………。
水が口に流れ込んでくる。
酷く咽喉が乾いていた。
「んぐッ、んっ、んんっ…!」
勝手に咽頭が上下して、その水を喉の奥に吸い込んでいく。
もっと欲しくて、目の前のモノにしがみ付く。
「……ちょっと待てって」
聞き覚えのある低い声が聞こえる。
身体を抱きかかえられ、また唇が合わさる。
冷たい水が流れ込んできて、それを夢中で嚥下する。
「「………大丈夫か?」」
その声が二重に聞こえる。
「新谷。おい。起きられるか…?」
篠崎と、
もう一人は、
『……セゾン君?』
―――え?
由樹は目を開けた。
目の前には篠崎がスーツ姿のままこちらを見下ろしていた。
牧村の姿は、もちろん、無い。
「……すげえ汗だぞ、お前」
言うなり、篠崎は由樹の着ているパジャマのボタンを上から外していく。
「着替えろ。風邪が悪化するぞ」
煙草の匂いに交じって雪の匂いがする。
「外、降ってましたか?」
服を脱がされながら、薄目で篠崎を見上げる。
「ああ、ちょっとな」
「今年は……」
雪降るの、早いですね。
その言葉は実際ちゃんと口にできたかわからなかった。
ただなんで篠崎の声が、牧村と重なって聞こえたのかわからないまま、由樹は眠りに落ちていった。
「今年は……雪降るの、早いですね」
新谷が目を瞑りながら言った。
「そうだな。まだ11月なのに……」
篠崎がため息をつくと、新谷は寝息を立てながら篠崎に身体を凭れた。
慌てて適当に持ってきた新しいシャツとスウェットを新谷に着せる。
「なんで……?」
新谷の唇が動く。
「なんで……牧村さんが………?」
「……!?」
篠崎は自分の腕の中で眠る恋人を見下ろした。
(今、こいつ……)
篠崎の胸に暗い影が掛かる。
今すぐ恋人を叩き起こして、何の夢を見ていたのか、確認したい。
なぜあの男の名前が口から出たのか、問いただしたい。
でも―――。
握りしめて寝ていたのだろう。新谷の手から、湿気と力でグシャグシャに丸まったホテルのパンフレットがはらりと落ちる。
「…………」
篠崎はその体を優しくまたベッドの上に戻した。
汗をかき、水分を取り、その上着替えさせてもらって、多少はスッキリしたらしい新谷が、安らかな寝息を立て始める。
「新谷……」
篠崎は前髪をかき上げながら新谷の隣に座り直すと、その柔らかい髪を撫でた。
「……どこにも行くなよ?」
その寝顔に向かって囁きかける。
「あいつのところになんか行くな」
薄く開いた唇に、自分の唇をつけようと顔を寄せたが、もしここでキスをしてまたあらぬ名前を囁かれたら、きっともう冷静ではいられない。
篠崎はため息をつくと、手で瞼を覆い強く擦った。
『西高東低の気圧配置が続き、非常に強い寒気が南下して、北陸地方を中心に広い範囲で大雪となる見込みです。関東地方でも山間の地域は短時間に強い雪が降り、積雪1mを超える地域も見られるでしょう。続いて降水確率です』
由樹は瞼を開けた。
寝すぎたせいか頭がボーッとする。
淹れたコーヒーの香り、つけたままのニュース番組、回る洗濯機の音、片付いた部屋。
「篠崎、さん?」
部屋を見回しても篠崎の姿はない。
「…………」
少しふらつく足で歩き出す。
リビングのローテーブルの上に、携帯電話が置きっぱなしになっている。
振り返る。いつもはコートが掛かっている玄関わきのクロークに、彼のそれがない。
下駄箱に目を走らせる。
彼の長靴もない。
「……篠崎さん?!」
―――携帯電話を置いていくほど、焦ってどこかに?
(……まさか、鈴原夏希のところに……?)
由樹はコートも着ずに長靴を履いた。
ガチャッ。
「おい。どこに行く」
目の前には頭と肩に雪を積もらせた篠崎が立っていた。
ほっとしてその場に座り込む。
「どーした」
篠崎が呆れて笑いながらその前にしゃがむ。
厚い手袋が外され、彼の温かい手が由樹の額に触れる。
「熱は、下がったみてえだな」
「あ、はい。おかげさ――――うわっ」
応える間もなく抱えられると、由樹はそのままリビングまで運ばれた。
ソファに優しく下ろされる。
「お前の車、スタッドレスタイヤに交換してきてやった」
言いながら篠崎はコートを脱ぎ、ダイニングの椅子に掛けた。
「え、あ!ありがとうございます!」
言うとテーブルに置きっぱなしだったコーヒーを啜っている。
「あ、今、温かいの淹れなおします!」
「病み上がりは大人しく座ってろ」
篠崎は笑いながら言うと、立ち上がった由樹をまたソファに優しく座らせた。
「新谷」
「はい?」
「誕生日、おめでとう」
「あ……」
間抜けに開いた口に、篠崎の唇が合わさる。
「ん……」
その優しくて熱い唇に応える。
自然に顎が上がる。
背中が反る。
腰がくねり、足が開く。
こんなに全身でキスをしたいと思うのは―――。
(篠崎さんだけだ……!)
思わず、腕にしがみ付く。
「……こんなことすんの、俺だけにしとけよ」
離れた唇から、篠崎が低い声を出す。
(なんで心を読めるの、この人……っ!)
顔を真っ赤に染めた由樹を、微笑んで見下ろすと、篠崎は満足したように息をつき、
「身体冷えたから、シャワー浴びてくる。お前も温かくしとけよ」
と言い残しバスルームに入って行ってしまった。
まもなくシャワーの音が聞こえてくる。
由樹はポーッとソファでその音と、雪のニュースを見ながらため息をついた。
「俺、こんなに、幸せでいいのだろうか……」
ダイニングテーブルには、昨日布団のなかで必死に握りしめながら眠っていたパンフレットが、綺麗に伸ばしておいてある。
由樹はそれを見下ろし、微笑んだ。
アウディに遅れること数台、由樹の冬タイヤに履き替えたコンパクトカーも無事、八尾首展示場に到着した。
駐車場には融雪の熱線が入っているのだが、それでも降雪の勢いに追いつかなかったらしく、10cmほどの厚さで雪が積もっていた。
「新谷君!大丈夫?」
渡辺が雪かき用のスコップを持ちながら由樹に走り寄る。
積雪用の熱いゴム長靴がポフポフと音を立てる。
「大丈夫です!ご心配おかけしました!」
言いながら由樹はスコップを掴んだ。
「変わります!」
「いーよー!中の掃除やって?今、金子が一人で頑張ってるから」
「あ、はい。わかりました!」
由樹は鞄を持ち直すと、展示場に向けて走り出した。
「走んなくていいよー」
渡辺の声が追いかけてくる。
しかし体は絶好調だ。
今なら何でもできる気がする。
由樹はセゾンエスペースの展示場にますます勢いをつけて走った。
「元気だねー」
横から声が聞こえてきて振り返ると、全身黒づくめの男が立っていた。
「そんな走ってると転ぶよー。階段とか凍結してるから」
「……誰かと思いました。帽子とネックウォーマーつけてると、分からないですね」
笑いながら立ち止まる。
「雪国男の戦闘服ですよ」
牧村は言いながら自嘲気味に笑った。
「風邪はいいわけ?」
「え?どうしてそれを……」
「君んとこの新人に聞いた。細越だっけ」
彼も喫煙者だ。おそらく喫煙スペースででも話をしたのだろう。
納得して由樹は微笑んだ。
「大丈夫です。気合で治しました」
「気合で治るんだ、風邪って」
牧村は手袋を外し、鼻辺りをかきながら笑った。
「もしかして、今夜デートとか?」
「え。それは!誰から聞いたんですか?」
牧村が楽しそうに吹き出す。
「さすがに先輩のデート事情を教えてくれる後輩はいなかったけど、いかにもルンルンしてるから、そうなのかなって」
(この顔にすぐ出るの、どうにかしたい……)
由樹は赤面しながらため息をついた。
「いいじゃん。楽しんで来いよ」
牧村は帽子を外しながら由樹に近づいた。
「でも今日は日曜日だから!アプローチチャンスだろ!仕事もバシッとこなしてからな?」
「はいっ!」
ライバルメーカーとは思えない激励に、由樹は背筋を伸ばして大きく頷いた。
セゾンエスペースからは金子がかけてている掃除機の音が聞こえてきた。
「あ、手伝わなきゃ!じゃ!」
由樹は笑顔で手を上げた。
牧村も笑顔で頷いた。
―――――。
由樹はのちにこの朝を後悔することになる。
この時、この話を、この男にしなければ―――。
自分はずっと、篠崎さんと一緒にいられたかもしれないのに、と。