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Side深澤
海の底は、今日も静かに揺れていた。
光の届かぬ深海。だがこの場所は、俺にとっては“王宮”であり、帰るべき“家”だった。
末の弟ラウールがじゃれつくように尾びれを絡ませてくる。
「ねえ、ふっか兄さま。上の世界って本当にあるの?」
「あるさ。空が青くて、星がきらきらして、地面の上に“足”で立って歩くんだ」
そう教えてやると、弟たちはみな目を輝かせて声を上げる。
「ふっか兄さまって、何でも知ってる!」
「さっすが、海の王子!」
俺は笑って、彼らの頭をぽんぽんと撫でた。
──“しっかり者の兄”。
いつの間にか、そう呼ばれるようになった。
王の補佐を務め、弟たちの面倒を見て、歌声で宴を盛り上げる。
それが俺の日常だった。
けれど、誰にも言えない“想い”がある。
水面の、その、もっと上──
あの空の下に広がる、知らない世界。
「……どんな匂いがするんだろうな」
ふと、誰もいない時に漏らす独り言は、泡のように浮かんでは消えていった。
父上に聞いたことがある。
「地上を夢見るなど、愚か者のすることだ」と。
けれど、愚かだと分かっていても、夢を見ずにはいられない。
もしも──
もしも、ほんの一度だけでいいから、あの空の下に立つことができたなら。
そう願うことすら、俺には許されないのだろうか。
手のひらを上に向け、水面の方へと伸ばしてみる。
届きそうで届かない──
この世界と、あの世界のあいだに、見えない壁がある気がしていた。
でも、どうしようもなく惹かれてしまう。
理由なんてない。
ただ、心が、強く求めている。
「……いつか、行けたらいいな」
海の王子である前に、一匹の人魚として。
誰にも知られぬ願いを、今日もまた、胸の奥にそっと隠した。
――――――――――
その夜、海は驚くほど静かだった。
いつも騒がしいラウールと康二も、貝殻の寝床ですやすやと眠っている。
そっと尾びれを揺らして水を蹴る。
弟たちを起こさぬよう、誰にも見つからぬよう、俺はこっそりと海の底を離れた。
上へ──もっと、もっと、上へ。
心臓が速くなる。
理由もないのに、なぜか胸が高鳴っていた。
水面に指先が触れた。
それだけで、まるで違う世界に触れたような気がして、思わず息を呑む。
そしてゆっくりと──
俺は、顔を水面から出した。
一瞬、眩しさに目を細めた。
けれど、それが「空」だと気づいた瞬間、身体中に震えが走る。
青かった。
とにかく、果てしなく、澄みきった青だった。
「……これが、空……?」
俺の声が、小さく波間に溶けていく。
深海にはなかった風の匂い。
頬をなでるやわらかな風。
ひらひらと舞う白い鳥たち。
雲という名前のふわふわしたものたちが、空を漂っていた。
夢じゃなかった。
父が「愚か者の幻想」と言った空は──こんなにも、美しかった。
涙がにじみそうになる。
けれどそのかわりに、口からこぼれたのは、音だった。
旋律が、ひとつ、またひとつ。
気づけば俺は、歌っていた。
生まれてから一度も聞いたことのないメロディ。
でも、心の奥からあふれてくる旋律が、俺を突き動かしていた。
風に乗って、波に乗って、夜明け前の空へ響いていく。
この歌が、どこかに届けばいい。
まだ見ぬ誰かの胸に、届けばいい。
―――――どれくらい歌っていたのか、もうわからなかった。
ただ、心のままに、空へ、風へ、星々へと声を届けていた。
あまりにも気持ちが良くて、まるで自分が空に溶けていくような──そんな不思議な感覚に包まれていた。
でもふと、頬に当たる風が変わったことに気づいた。
さっきまで優しく撫でていた風が、冷たく、ざらついていた。
どこか遠くで雷のような低い音が響いた気がした。
「……?」
見上げた空には、いつの間にか灰色の雲が広がっていた。
水平線の向こうから、ぐんぐんと暗い影が押し寄せてきている。
「……嵐、か?」
潮の流れも、さっきより速い。
海面がざわざわと落ち着かず、空もざわつきはじめている。
夢のようだった時間が、現実に引き戻される。
このままここにいたら、危ない──そう分かっていながら、名残惜しくて目をそらせなかった。
「……やっぱ、綺麗だな」
雲に覆われても、空は空だった。
いつかもう一度、あの青さを見たい。
次はもっと、長く眺めていられたらいい。
そう思いながら、波間へゆっくりと身を沈める。
帰らなきゃ。
弟たちが目を覚ましたとき、俺がいなかったら心配するだろう。
──だけど、この空の色も、冷たい風の匂いも。
全部、俺の胸に刻みつけておこう。
そう決めて、俺は静かに深海へと戻っていこうとした。
――――――――――
Side照
海は、ざわついていた。
遠くで雲が渦を巻きはじめていたが、俺はあえて甲板に出ていた。
ここ数日、政務と礼儀作法に縛られた生活が続き、息が詰まりそうだったからだ。
夜の風は冷たいが、それでも自由を感じるには十分だった。
「……静かだな」
船の揺れに合わせて身体を任せながら、空を仰ぐ。
と、その時だった。
──歌が、聞こえた。
はじめは風の音かと思った。
でも違う。
それは、明らかに“声”だった。
美しかった。
悲しみにも似た、切ない音色。
まるで空そのものが泣いているような──そんな不思議な旋律だった。
「……誰だ?」
思わず声を出して周囲を見渡す。
けれど、船の上には俺ひとり。
従者も船員も、甲板には誰もいない。
「おい」
俺は扉を開け、控えていた従者に声をかける。
「今、歌が聞こえなかったか?」
「歌、でございますか?」
従者は不思議そうに首をかしげた。
「いや、私は何も……風の音くらいしか」
「……そうか」
聞こえたのは俺だけ?
そんな馬鹿な──と思いながらも、どこか納得している自分がいた。
あの声は、風の流れと共に現れて、そして消えた。
この世界のものじゃない、そんな気がした。
不意に、胸がざわめいた。
理由もなく、何かが始まる気がした。
「……奇妙だな」
そう呟いた時には、すでに海は波を荒立てはじめていた。
嵐の前兆。
けれど、それすらも──まるで誰かの感情に呼応しているかのようだった。
―――――空が鳴った。
低く、重く、怒号のような音が腹の底に響いた。
「全員、持ち場につけ! 帆をたため!」
甲板に出ていた俺の声が、風にかき消されそうになる。
従者たちが慌てて飛び出してきて、命令通りに動き始めた。
風が唸り声をあげ、帆を引き裂くように揺らす。
空からは、ついに冷たい雨が叩きつけてきた。
「マストをおさえろ! 舵を保て! 無理に進むな、風下に回せ!」
ひとつひとつ声を張り上げる。
普段は命令を出す立場ではない。
けれど、こういうときこそ、誰かが動かねばならなかった。
ふと、あの歌が脳裏によぎる。
さっきまで耳にしていた、あの美しい声。
まるで、この嵐を予言していたかのような──
「……っ!」
船が大きく軋む音とともに、船体が急に傾いた。
「──!」
足を踏ん張ったはずが、甲板がまるで裏返ったかのような感覚に襲われる。
体が浮いた。
風が、雨が、耳を引き裂く。
叫び声すら、すべて海に吸い込まれた。
「──っ!!」
次の瞬間、冷たい水の中に叩きつけられる感覚。
視界が一気に塗りつぶされ、上も下も分からなくなる。
息が、できない。
音も、光も、遠くなっていく。
誰か──誰か、助け──
そこで意識が、ふっと遠のいた。
―――――――――――
冷たい。
身体を突き刺すような海水が、全身を飲み込んでいく。
上も下もわからない。
耳も目も、何もかもが遠ざかっていく。
手を伸ばしてみても、水はあまりに重たく、指の先さえ動いているかどうか分からなかった。
──死ぬ、のか?
それが不思議と怖くなかった。
ただ、悔しかった。
まだやるべきことがあった。
守るべきものがあった。
戻りたかった。あの船へ。
──あの空へ。
その時だった。
何かが、触れた気がした。
最初はただの潮の流れかと思った。
けれど、それは明らかに“何か”だった。
柔らかく、けれどしっかりとした力。
まるで誰かが、自分を抱きしめているような──そんな温もり。
(……人、か?)
けれど、こんな海の底に、人がいるはずがない。
それでも、確かに感じた。
苦しさが、ほんの少しだけ和らいだ気がした。
呼吸もできないはずなのに、不思議と穏やかな気持ちが胸を満たしていく。
視界の端に、何かが揺れていた。
……紫?
紫に光る髪。
水の中に溶けるように漂うその色が、まるで空の残像のように思えた。
目を凝らす暇もなく、意識はゆっくりと沈んでいく。
──温かいな。
そう思ったのが、最後だった。
俺はそのぬくもりに身を預けたまま、静かに闇の中へ落ちていった。
―――――――――――
Side深澤
嵐が、完全に海を飲み込んでいた。
先ほどの美しい空は嘘のように消え去り、荒れ狂う波と雷鳴が、俺の耳と身体を打ちつける。
──帰らなきゃ。
これ以上ここにいては、危険だ。
弟たちの寝顔を思い浮かべながら、俺は尾びれを強く振った。
波に逆らい、深海へ戻ろうとしたそのとき──
「……っ」
視界の端に、黒く巨大な影が現れた。
大きな、鋼のような塊──船だった。
俺が初めて見る“人間の乗り物”。
そして、その船から──何かが落ちた。
いや、誰かが、だ。
一瞬だった。
けれど、俺の目は確かに捉えていた。
黒髪の人間が、甲板から身を投げ出されるように海へ落ちていった。
激しい雨に、風に、波に呑まれて。
考えるより早く、身体が動いていた。
「……っ!」
俺は尾びれで水をかき、真っすぐその人間へと泳いだ。
見失わないよう、波の合間にその姿を追いかける。
──まだ間に合う。
間に合ってくれ。
お願いだから──
ついに、彼の身体にたどり着いた。
目は閉じられ、動かない。
けれどその顔は、海のどんな宝石よりも整っていて、不思議と惹かれるものがあった。
「……っ、息……してない……?」
俺は躊躇なく、腕をまわして彼の身体を抱きかかえた。
その体温はほとんど感じなかったけれど、どこか“壊れそうなほど繊細”だった。
──お願い、死なないで。
まだ名前も知らないあなたを、どうしてか、失いたくない。
海の底に引きずられそうになる身体を引き上げながら、俺は必死で泳いだ。
この命を、どうか──
救わせてほしい。
―――――――ようやく、岸が見えた。
激しい波に背を押されながら、俺は彼を腕に抱いたまま、砂浜へとたどり着いた。
波が引き、身体が砂に沈み込む。
肌に触れる空気がひどく冷たく感じるのは、彼の体温がほとんど感じられなかったせいだろう。
「……起きて……お願い……!」
彼の頬に手を当てる。返事はない。
胸に手を置いた。微かな鼓動──それすら、わからない。
俺は震える指先で、彼の顎に手を添えた。
人間のやり方は、以前どこで聞いたことがある。
“息を吹き込む。水を吐かせる。命を繋ぐ唯一の方法だ”と。
ためらいはなかった。
俺はそっと顔を近づけ──彼の唇に、自分の息を重ねた。
一度。
また一度。
「……っ!」
次の瞬間、彼の身体がびくりと動いた。
「ゴホッ……! ゲホッ……!」
水を吐き出し、激しく咳き込む音が夜の浜辺に響いた。
肩が揺れ、苦しそうに息をする彼の胸が、確かに上下している。
──助かった。
胸の奥が熱くなる。
安堵と、震えるような幸福が、同時に込み上げてきた。
(……生きてる。よかった……)
彼の目がうっすらと開きかけた、その時だった。
「──殿下!? 殿下ぁ!!」
遠くから、複数の足音と叫び声が聞こえた。
船の者たちが、彼を捜しているのだろう。
俺は、はっと我に返った。
──ここにいちゃ、いけない。
人魚の存在は、人間にとって“禁忌”だ。
見つかれば、どんな罰が待つか分からない。
それに──俺はただ、助けたかっただけだ。
「……生きててくれて、ありがとう」
小さく呟き、指先だけで彼の頬に触れる。
そして、振り返ることなく海へ飛び込んだ。
尾びれが水を弾く音だけを残して──
俺の姿は、夜の海に溶けていった。
―――――――――
Side照
──あたたかい。
身体の芯まで凍りついていたはずなのに、何かが俺を包んでいた。
柔らかくて、あたたかくて、安心できる何か。
光が、まぶしい。
「……っ」
まぶたをゆっくりと持ち上げると、見慣れた天井が目に入った。
ここは……自分の部屋だ。
ゆっくりと身体を起こすと、すぐに扉の向こうから足音がして、従者が駆け寄ってきた。
「殿下! お気がつきになられましたか!」
「……ああ、俺は……」
喉が乾いていて、言葉がうまく出なかった。
従者が水差しを差し出し、それを少しだけ口に含む。
「陸の従者たちが、岸辺で倒れている殿下を発見し、介抱してくださったのです。運ばれてきたときは意識がなく……」
従者の言葉を、ぼんやりと聞きながら、俺は頭の奥でひとつの記憶を手繰っていた。
あの海の中。
何もかもが遠ざかっていく中で、確かに“誰か”がいた。
冷たい海水に沈んでいく俺を、誰かが抱きしめていた。
柔らかくて、強くて、何よりあたたかかった。
──助けてくれた。
でもそれは、人間ではなかった。
水の中で、まるで自分の一部のように溶け込んでいた“あの存在”。
あれは……
「……幻、なのか……?」
誰にも聞こえないよう、唇だけが動いた。
返事はない。
けれど、今も身体のどこかに、あのぬくもりが残っている気がした。
助けられた命。
見えなかった“何か”に触れた感覚。
忘れようとしても、決して消えてはくれなかった。
心の奥に、ぽつりと問いが灯る。
──あれは、誰だったんだろう。
―――――――――
Side深澤
海は、何事もなかったかのように静かだった。
あの日の嵐が嘘だったみたいに、水は透きとおり、光は穏やかに揺れている。
でも、俺の胸の中だけは、あの夜からずっとざわついたままだ。
(……あの人間、どうなったんだろう)
生きているだろうか。
ちゃんと、目を覚ましただろうか。
あの冷たい海の中、確かに彼は呼吸をしていなかった。
人工呼吸で水を吐き出し、ようやく動き始めたけど──
そのあと、声をかける間もなく、俺は逃げた。
見つかったらいけないと分かってた。
でも、名前も知らないその人を置いてきたことが、今も胸にひっかかっている。
(……せめて、無事だったって知りたい)
ぼんやりとそんなことを考えていたとき──
「ふっか兄さん、どうかしたの?」
後ろから、小さな声がした。
振り返ると、ラウールが尾びれを揺らしながらこちらを覗き込んでいた。
いつもより心なしか、不安げな表情だった。
「……ああ、ごめん。なんでもないよ」
俺は小さく笑って、ラウールの髪をくしゃっと撫でた。
「兄さん、今日は変な顔してたよ?」
「うーん、ちょっと考え事してただけ」
「また上の世界のこと?」
「……さあ、どうだろうね」
そう言ってはぐらかしながらも、心の中では決まっていた。
──もう一度、行こう。
あの空の下へ。
そして、あの人の無事を、確かめに。
今度は、逃げたりしない。
ラウールのあどけない笑顔を背に、俺はそっと目を閉じた。
空を想い、あのぬくもりを思い出す。
(……また会える気がする)
ただの願望かもしれない。
でも、なぜか、そんな気がしてならなかった。
地上の空気は、あの日と変わらず澄んでいた。
冷たい風が頬をかすめては通り過ぎ、遠くで鳥たちの声が聞こえる。
俺は岩陰に身を潜め、そっと海面から顔を出す。
人魚が人の前に姿を見せること──それは海の掟で最も重い禁忌とされている。
“見つかれば、ただでは済まない”
それがどんな罰なのか、本当のところは知らない。
でもそれは、知る必要もないほどに、絶対的なルールだった。
それでも、どうしても、もう一度だけ──あの人の姿を見たかった。
そして、目に入った。
海辺の小道を、ひとりの人間が歩いていた。
風に揺れる金髪。
整った横顔。
ふと空を仰ぎ、目を細めるその仕草。
──間違いない。
あの嵐の夜、俺が助けた人間だ。
(生きてたんだ……)
胸が強く波打った。
言葉にならない安堵が全身に染みわたっていく。
彼は無事だった。
ちゃんと歩いて、空を見上げている。
それだけで、ここに来た意味はあった。
けれど。
声をかけることは──できない。
たとえどんなに話しかけたくても。
「無事でよかった」と伝えたくても。
この姿のまま彼の前に出れば、すべてを壊してしまう。
(……遠くからでいい)
少しだけ、目を細める。
まるで風景の一部として、そっと彼を見守るように。
一歩も近づけない距離。
触れられない。
声も届かない。
それでも、胸の中で確かに感じる。
あの夜、自分がつないだ命が、こうしてここにある。
──それで、十分だ。
彼がふと、海のほうを振り返った。
気づかれたわけじゃない。
ただ、風が吹いたからかもしれないし、空の音に耳を傾けたのかもしれない。
でもその一瞬でさえ、心が騒いだ。
「……また、来るよ」
誰にも届かない声で、波にそっと言葉を託す。
そうして俺は、もう一度海へと沈んでいった。
誰にも見られることのない、影のようなまなざしを残して。
―――――あの日以来、俺は何度も地上へ足を運ぶようになった。
もちろん、誰にも見つからないように。
ただ、物陰から──そっと、静かに。
あの人は、海辺に来ることが多かった。
ひとりで佇んだり、空を見上げたり、たまに目を閉じて風に耳を傾けていた。
まるで、何かを探しているみたいだった。
……いや、誰かを──かもしれない。
「もしかして……あの夜のこと、少しだけ覚えてるのかな」
そんな淡い希望を胸に抱いて、今日もまた俺は、遠くから見ていた。
名前も知らない。
言葉も交わせない。
触れることも、できない。
それでも、見ているだけで心があたたかくなる。
それだけで十分──そう、思っていたはずだった。
けれど。
その日は、違った。
いつものように海辺の岩陰から視線を送ると──
彼の隣に、見知らぬ女性の姿があった。
肩を並べて、穏やかに話しながら笑っている。
ときおり、彼女が何かを言って、彼が微笑んで頷く。
その横顔は、あの日の嵐の夜にも見せなかった、どこか安心した表情だった。
(……そっか)
胸が、音を立てて沈んでいった。
苦しいほどに、静かに。
人の世界には、人の時間がある。
あの夜、彼を助けたのは、ただの偶然。
それだけのこと。
わかっていた。最初から。
見ているだけでいいと、思っていた。
でも──
それでも、こんなに痛いなんて。
「……なんで、だろ」
言葉は泡になって消えていく。
俺は、その場から逃げるように海へと身を沈めた。
光の届かない、冷たい深海へ。
心ごと、沈めるように。
何も考えたくなかった。
あの笑顔も、ぬくもりも、全部忘れてしまいたかった。
でも、どうしても忘れられなかった。
──あの日、自分にすがるようにして息を吹き返した彼の姿だけは。
深く、深く、潜っていくほどに、胸の奥が苦しくなっていく。
届かないとわかっているのに。
手を伸ばしたくなる、この想いを──どこに沈めればいいのだろうか。
――――――――――
Side照
「明日、隣国の王女殿下がいらっしゃる。──そろそろ“覚悟”を決めなさい」
父王の言葉は、いつも通り威厳に満ちていた。
語尾に優しさはなく、微笑みもなかった。
それが“命令”であることを、俺は息を吸うより早く悟った。
(……やっぱり、こうなるんだな)
胸の奥が、ずしりと重くなる。
玉座に座る父の隣で、何も言わずにうなずくしかなかった。
この話はずっと前からあった。
国と国を結びつける政略結婚。
争いを防ぎ、民を守るため──
よくある話。理解はしている。
けれど、それが“自分のこと”になると、こんなにも苦しいものなのか。
「父上……本当に、それが必要なのですか」
絞り出した声は、かすれていた。
だが父は、一瞥もせずに言った。
「お前が王になるのだ。好き嫌いで国は守れん」
正論だった。
反論の余地はなかった。
でも──
(本当にそうだろうか)
あの夜、冷たい海の中で確かに感じた“命の温もり”。
目を覚ました朝、胸に残っていたあたたかさと、やさしさと、そして……不思議なほどに消えない面影。
あの声。
あの夢のような記憶。
名も知らぬ、見えなかった“誰か”の存在が、今も俺の中で確かに生きている。
その人と、もう一度会える気がして、何度も海辺へ足を運んだ。
けれど、会えなかった。
ただ、風が吹いていた。
あのときと同じ、少しだけ塩っぽくて、あたたかい風が。
(……嫌だ)
心の中で、誰にも届かない声が響いた。
こんな形で、未来を決められるなんて。
こんな形で、大事な想いを飲み込まなくてはならないなんて。
でも──それを言葉にするには、まだ俺は、王になるには弱すぎた。
父のまなざしが突き刺さる。
そのまま、重苦しい空気をまとって玉座の間を後にした。
部屋に戻ったあと、ひとり窓辺に立ち、海を見下ろす。
遠く、きらめく水面。
そこに、答えなんてないのに。
――――――正午を少し過ぎた頃、王城の大広間に高らかに告げられた隣国の馬車の到着。
宮廷楽団が奏でる曲に迎えられて、豪奢な衣を纏った少女が静かに姿を現した。
──隣国の王女。
絵画の中から抜け出してきたような整った顔立ちと、どこか人を寄せつけない気高さ。
俺が名を聞いたのは何度目だったか。
けれど、実際に対面するのは、今日が初めてだった。
「初めまして、照殿下。こうしてお会いできる日を心待ちにしておりました」
礼儀正しく、けれど隙のない笑顔でそう言われ、俺もまた機械のように言葉を返す。
「こちらこそ。ようこそ、我が国へ」
国と国の看板を背負った者として、形ばかりの挨拶を交わす。
それだけで、喉が渇くほど息苦しく感じた。
会話が一段落したその時だった。
「……せっかくですから、殿下。海辺を散歩してみませんか?」
王女は、無垢な微笑みを浮かべたまま、さらりとそう言った。
俺の胸が小さくざわめいた。
“海辺”。
あの場所。
名も知らぬ、声も聞けなかった“誰か”を探して、幾度となく足を運んだあの浜辺。
けれど──
それを王女と共に歩くことになるなんて、まるで自分の記憶を塗りつぶされるようで。
「……わかりました」
ほんの一瞬、返事をためらった。
けれど、周囲の空気を読めば、断れるはずもない。
俺は表情を変えず、静かにうなずいた。
「では、準備が整い次第、案内させていただきます」
本当は、行きたくなかった。
心のどこかで、「あの場所は自分の中だけのものだ」と思っていた。
でも──そうも言っていられない。
“皇子”としての役割が、俺の足を動かした。
波の音が、足元にまとわりつくように静かに寄せては返していた。
隣を歩く王女は、終始穏やかな笑みを浮かべている。
作られたものではなく、柔らかく、穏やかな微笑み。
だがそれは、俺にとってどこか──“異質”だった。
誰とも会話せずに歩いていた時間が数分続いたころ、ふいに王女が口を開いた。
「皇子……お怪我の具合はいかがですか?」
「……怪我?」
「ええ。嵐の夜、船が難破したと聞きました。海に投げ出されて──命が危うかったと」
(……ああ)
あの日のこと。
水中で意識を失いかけ、確かに“誰か”に救われたあの夜。
「……身体は、もうなんともない。心配してくれてありがとう」
「よかった。……でも、ご無事だったのは、本当に奇跡ですね」
「……奇跡、か」
波の音に目を細めながら、俺は口を開いた。
「正直、今でも信じられないんだ。あの時……誰かに、助けられた気がしてる」
「誰か、ですか?」
「うん。顔も見えなかった。水の中だったから、言葉も交わせなかった。でも、確かに感じたんだ──誰かが俺を抱えて、海の上へ引き上げてくれた」
それは幻想かもしれない。
でも、嘘ではなかった。あのぬくもりだけは、今もこの胸に残っている。
すると──
「……実は」
王女が立ち止まった。
俺もつられて足を止める。
「その“誰か”──それ、私です」
「……え?」
「偶然、浜辺にいたんです。海で誰かが溺れているのを見て……必死で助けました」
淡く微笑むその横顔に、嘘をついているような気配はなかった。
「でも……人に言うと大ごとになってしまうから。黙っていました」
「……君が……助けた?」
まさか──
けれど、他に誰がいるというのだろう。
従者たちは「浜辺で倒れていた」と言っていた。
誰がそこへ運んだのか。説明はなかった。
(……そう、だったのか?)
俺は静かにうなずいた。
「……ありがとう。命を救ってくれて」
自分でも驚くほど、声が小さくなった。
信じるしかなかった。
そう言ってくれる彼女の笑顔が、何より自然だったから。
でも。
胸の奥で、何かが“違う”と、わずかにざわめいた。
それが何なのか──
今はまだ、言葉にならなかった。
意識の外。どこかで波が跳ねた気がした。
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