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◻︎密会


さっきまで断ろうと思っていたのに、“わかった”と桃子に返信した。それは、他の男達が欲しがる女が僕を選んだという優越感に浸りたかったからだ。何もしなければ浮気や不倫にはならない、もっといえば、誰にも見つからなければそれでいいと思った。


定時になり、いつも通り会社を後にする。誰にも会わないように駅とは反対方向へ歩き、タクシーを拾って目的地へと向かった。


大通りから一本入った裏路地に、桃子が予約したというそのお店はあった。どうやって見つけたのか、そこは隠れ家のようなレストランで、会社の人間はきっと来ないだろうと思えて安心する。


ドアを入って店員さんに、予約をしてあると告げたら、“お連れの方がお待ちです”と個室に通された。



「こんばんは」


「あ、和樹さん、お待ちしてました。どうぞこちらへ」


いつもは課長としか呼ばれないので、名前を呼ばれてもピンと来なかった。桃子に促され、対面に腰を下ろす。


「よかった、来てもらえないかとドキドキしてました。あの……何か?」


なんだかいつもと違う桃子に、落ち着かない僕の様子が不思議だったのだろう。


「名前で呼ばれることに慣れてないから、ちょっとね」


「名前ですか。こんなところでは役職より名前で呼ぶ方が無難かな?と思ったので。イヤですか?」


「そんなことはないけど……」


「なら、いいじゃないですか。私のことも桃子と呼んでください、その方がプライベートっぽくてうれしいので」


「それは……」


さすがに面と向かって桃子とは呼べないと言おうとしたら、“失礼します”と店員がやってきてメニューの説明とお酒のオーダーを取って行った。慣れた様子の桃子に、訊きたかったことを質問する。


「斉藤さんは、ここ、よく来るの?」


モテる女の子は、たくさんの男とこんな所に来るんだろうと予想した。


「いえ、初めてなんです。ネットで調べてよさそうだなと思ったので。ぜひ好きな男性と来たいと思ってました」


ぶふっ!と飲みかけの水を吹いた。


「和樹さんたら、もうっ」


おしぼりを広げて拭いてくれる。


「い、いや、その、今日呼ばれたのは、何か僕に相談事でもあるんじゃないかと。そうでなきゃキミみたいな女の子がわざわざ僕みたいな既婚者をね、こんなお店に呼び出すとは思えなくて」


テーブルを拭いていた桃子の動きが止まった。


「斉藤さん?」


「……わかってます。結婚してることも知ってるし、愛妻家だということも聞いてます。でも……」


続きを聞いてはいけない、そんな気がしたけれど。


薄暗い照明が、桃子の頬を伝う光るものを浮かび上がらせた。ぽろぽろと両方の瞳から、涙が溢れていた。


「ちょっ…斉藤さん、どうしたの?」


桃子が言いたいことはわかっていたが、常套句を吐いてしまう。


「……和樹さんのことを好きになってしまったんです。どうしても、この気持ちを抑えることができなくて、せめて、私の気持ちを伝えておきたかったんです…ごめんなさい、迷惑でしたよね」


「……」


「いいんです、今日だけで。一度だけでいいから私に付き合ってください。あとは忘れる……忘れるように努力するか……ら」


ぎゅうっと、心臓を鷲掴みにされたようだった。


___この感覚はなんだ?


もうずっと昔に置いてきたような、甘くて切ない……いやもっと、苦しい、本能に訴えてくるような、ずっと忘れていたものが体の奥から沸々と湧き上がってきた。その感覚に、なんというか男としての自信のようなものを取り戻した気がする。



「……わかった」


そう答えてしまった。今日だけなら、一度だけならこんな気持ちに浸ってもいいじゃないか?そんな誘惑に負けてしまった。目の前に自分のことを好きになってしまってどうにもできずに泣いている、とびきりの女がいるのだ。突っぱねられる男がいたら、それはよほどの聖人君子だろう。


「え……和樹さん…?」


「もういいから。今日だけ、斉藤さんと付き合うよ。ゆっくり過ごそう」


「いいんですか?ホントに?」


さっきまでの涙が嘘のように、ぱあっとほころぶ桃子の顔が、可愛くて仕方ない。


「あぁ、だからもう泣かないで。せっかくの時間を楽しもう」


「はい、わぁ、うれしい」


涙を拭きながら、にこにこと笑っている。桃子ならば、今日のことを会社で匂わせたりはしないだろう。これまでも一切、そんな素振りは見せてなかったから。


「じゃあ、まずは乾杯しようか?」


「はい、あの、それで私のこと、今日だけでいいから桃子と呼んでください」


「わかった。乾杯しよう、桃子」


「乾杯!和樹さん」



創作料理が順番に運ばれてきて、おしゃべりをしながら堪能した。ドキドキとワクワクがないまぜになって、いつもより早く酔いがまわった。そのうち、桃子は隣に座ってボディタッチをしてきた。


___まぁ、いいか。ここは誰にも見られない


酔った勢いで、抱き寄せてキスをしていた。



もしかしたら店員が入ってくるかもしれない、そんな緊張感としなだれかかる桃子の誘惑に、むくむくとソコが立ち上がってくるのがわかる。


「…あん、こんなところで……」


重ねた唇からは、桃子の艶めかしい呟きが漏れ、背筋がざわざわと波だってくる。拒否しているようなセリフとは裏腹に、桃子はその綺麗にネイルされた指先で、僕のソコをふわりと撫で上げる。


___ダメだ、これ以上は……


わずかに残った理性が、そっと桃子を離した。


「……ふぅ…」


思わずため息が漏れる。


コンコンとノックの音がして、ドアの外から店員の声がした。


「そろそろデザートをお持ちしてもよろしいでしょうか?」


「うん、頼むよ」


平然を装って答える。


運ばれてきたのは、コクのあるバニラアイスクリームだった。ウェハースにすくって、お互いに食べさせる。ぬるりと光る桃子の唇からのぞく小さな舌が、バニラアイスクリームを舐めとるのを見ていたら、たまらなくなってきて、もう一度キスをした。今度は深く長くお互いを確かめるようなキスだ。


「和樹…さん?」


「ん?」


「あと少しの時間、私にください」


桃子が言おうとしていることはわかった。頭の中に妻の愛美や娘たちの顔が一瞬よぎった。それでも。


___どうせ早く帰ってもな……


それに、いつも家族のためにがんばっているんだから、一度くらいご褒美があってもいいよな、なんて自分に言い訳をした。


「今夜だけ、だよ」


「わかってます」


そのままその裏にあるホテルへと向かった。これからやってしまう浮気に、これまでに感じたことがない緊張と、思わぬ期待に足下がふわふわしているようだ。それを隠すように、できるだけさりげなく歩いているつもりだったけど。


「危ないですよ、和樹さん」


ぎゅっと腕を掴まれて、ハッとした。


「酔ったのかな?」


「大丈夫ですよ」


桃子が言った“何が大丈夫なのか”、それはベッドに入ってからわかった。



お酒のせいか緊張感からか、うまく出来なかった僕をありとあらゆるテクニックで、100%満足がいくように仕立ててくれた。


「私、幸せ、です」


下になった桃子が小さく呟いた。その瞳がまた濡れていて、たまらなくなって抱きしめた。


「和樹……さん?」


「桃子…」


湧き上がる衝動を抑えられなくて、もう一度、桃子に覆い被さる。そういえば最後に愛美としたのはいつだっけ?と記憶を辿ったが、思い出せない。それにしても、僕にもまだこんな精力があったんだと気づいた。腕の中で悶える桃子を見ていると、男としての本来の自分を取り戻せたようで、その悦びを思い切り放出させた。











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