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◻︎言い訳
コトが済んで、シャワーを浴びていた時、鏡越しに桃子が声をかけてきた。
「ボディソープとか、匂いのつくものは使わない方がいいよ、和樹さん」
「あ、あぁ、そうだね」
こんな時にも、桃子という女のことを“たくさんの男がいる女”ではないかと疑ってしまう。いろんなことに慣れているからだ。だとしても、既婚者の僕が何かを言う資格はないのだけど。
「じゃあ…」
桃子が先にホテルを出た。僕は少し遅れてホテルを後にし、タクシーを拾った。この時間ならギリギリ終電に間に合ったと言える。タクシードライバーに行き先を告げ、カバンからスマホを出した。桃子から何かのコメントがあるかと思ったのに、着信と受信があったのは全て家族からだった。
___なんで?!
思わず、浮気がバレたのかと身が縮まる思いがしたが、とりあえず内容を確認する。
《パパ、今日は帰りが遅いの?》
《何時になる?》
《莉子も絵麻ももう待てないから、先にパーティー始めちゃうよ》
それから3件の留守番電話。
「あっ!!」
大事なことを思い出し、声を上げてしまった。
「どうかされましたか?」
タクシードライバーが、ルームミラー越しに訊いてきた。
「あー、思い出したことがあったから。騒いですまない」
今日は、僕の誕生日だった。もっとも、もう日付が変わっているけど。
___しまった
と思ったけど。考えようによっては、忘れていたのがまだ自分の誕生日でよかった。これが結婚記念日や娘達の誕生日だったとしたら、もっと責められただろう。
___僕個人としては、とてもいい誕生日だったし……
さっきまでの桃子との絡みを反芻して、心地よい気だるさを確かめる。あんな感覚は妻の愛美では味わえないだろう。
遅くなった理由なんてなんとでもなる、仕事でトラブって駆け回っていたとでも言えばいい。普段なら、早く帰ってもこの前みたいに
邪魔にされるだけだろうから。
タクシーを降り、そっと鍵を開けて家に入る。
「ただいま」
もうみんな寝てしまっているようで、ホッとする。テーブルには、僕宛てにプレゼントが置いてあった。愛美からはネクタイピン、莉子と絵麻からは、僕のイニシャルのKがワンポイントに刺繍された、紺色のビジネス用の靴下だった。
背広を脱ぎ、シャワーを浴びる。桃子の痕跡が残っていないか、背広のニオイも確かめた。
___大丈夫だ
その日はそのまま、深い眠りについた。いい誕生日だったと秘かに思い返しながら。
◇◇◇◇◇
「おはよう、パパも起きて!ほら」
パタパタと駆け回るスリッパの音で目が覚めた。娘たちはそれぞれもう、朝ごはんを食べているところだった。
「おはよう、ちょっと寝過ごしたな」
新聞を広げながら、食卓に着く。
「昨日も遅かったの?もう待てなくて寝ちゃったけど」
「そうだよ、パパにプレゼントを用意してたのに。残しておいたケーキは、私の今日のおやつにするからね」
絵麻が、ちょっとご機嫌斜めのようだ。僕は、このために用意しておいた言い訳を説明する。
「いや、実はさ、職場の部下の柳ってやつがちょっとトラブっちゃってね。問題は割と早く解決したんだけど、ひどく落ち込んでしまって、慰めてたんだよ。ちょっとお酒でもってことで……それで気づいたら終電だった」
目の前にベーコンエッグとトーストとサラダ、コーヒーが並べてある。
「へぇ!」
フォークを出してくれた愛美が、意外だという顔をした。
「ん?なんだ?」
「なんていうか……そんなにスラスラと職場の話をされると、なんかね…」
「どうして?」
「パパは昔から、職場の話は家ではほとんどしないから。よほどその部下を可愛がっているのね」
___しまった!
言い訳の中身ばかりを気にしていたから、普段と少し違う雰囲気になってしまった。内心慌てたけれど、何も浮気がバレたわけじゃないと自分に言い聞かせて、平静を装い話をそらす。
「絵麻も莉子もありがとう。プレゼントはちゃんともらったからね。今度大事な仕事の時に履かせてもらうよ」
「じゃあ、私からのプレゼントも、大事な仕事の時に使ってね!お守りみたいな感じで」
「あぁ、そうする」
それ以上、その話題には触れたくなかった。とにかく仕事で遅くなったんだと、それだけが伝わればいい。愛美は特に疑ってもいないようだ。その後はいつも通りだった。
洗面所で身支度をする時、昨夜の桃子のことを思い浮かべていた。色白のもっちりした肌は、全身で触れていたいほど心地よかった。せっかく僕のことを好きになってくれたのだからと、髭や鼻毛の処理まで丁寧にやってしまう。もちろん歯磨きだって、いつもの3倍は時間をかけた。
「パパ、そろそろ出ないと遅刻しちゃうわよ。今日は妙に念入りに身支度するのね」
洗面所の鏡越しに、愛美が言う。また、しまった、と思った。
「今日は大切な取引先との会議があるからな」
こんな言い訳でいいだろう。
「あら、そうなの?じゃあ、今日じゃないの?プレゼントを身につけて行く日は」
「あ、そうか!」
大事な仕事の時に使うと言ったことを、うっかり忘れていた。
「おはようございます、課長!本日予定してある打ち合わせの資料です」
職場に着くと、野崎百合がプリントを持ってやってきた。
「ありがとう」
「…で、どうでしたか?昨夜は」
思いがけない百合の質問に、手にしていたプリントを落としてしまった。
「ちょっと、課長、ちゃんと持ってくださいよ、もう」
落としたプリントを拾ってまた僕に手渡してくれた百合。
___どういうことだ?何故、昨夜のことを知ってる?
もしかして桃子がしゃべったのか?と少し離れた席の桃子を見たが、別の社員と話していて特別変わった様子もない。
「昨夜って?」
わずかに震える声をごまかすように、咳払いと共に訊き返す。
「昨日は課長のお誕生日だったんですよね?愛美先輩が、課長の好きなものを作ってお祝いするって言ってたから……」
「あっ、あー、そのことか」
「そのことかって、他にも何か?」
「いやいや、こっちのこと。うん、昨日は家族で僕の誕生日を祝ってくれたよ。ほら、これが妻からのプレゼントで、こっちが娘たちからの」
そう言って、ネクタイピンと靴下を見せた。
「やっぱりなぁ。課長は家族に愛されてますね、羨ましいっ」
「まぁね」
百合と愛美は仲がいいんだということを、失念していた。こんなことではどこでバレてしまうかも、わからない。
昨夜、桃子を抱いてしまったことをわずかに後悔した。それは、あの甘美な時間を思い出すとどうでもよくなってしまうほどの後悔だったけれど。
昼休み。
休憩室でコーヒーを飲んでいた時、近くにいた柳と丸山の話が聞こえてきた。桃子のことを諦めて、酒を飲んできますと言ってた二人から、“斉藤さん”というワードと“終わった”というワードが耳についた。
気になったので、さりげなく近づいてみることにした。
「よっ!昨日は深酒しなかったか?」
昨夜、ホテルで僕と桃子があんなことをしてる時間に、この二人は失恋飲み会をやってたんだと想像したら、ものすごく優位に立てた気分になった。
「課長、昨日はそんなに飲んでませんよ。それに今日になって耳寄りな情報が!」
「耳寄りな?」
「はい、実はですね……」
内緒ですよと小声で話してくれた内容は、こうだった。