マチコは食事の済んだ皿をテーブルから拾い上げた。ツヨシは冷蔵庫からさきいかの袋を取り出して、早速空いた空間に広げている。健太は手を伸ばした。冷たかった。どうしていかを冷やすのかとツヨシに聞くと、それは単に置く場所の問題だと答えた。健太はビールをあおった。雑な苦さを水で薄めたような味がする。
リビングの端にある十四インチのテレビは、ブラウン管脇の化粧板が半分ほど欠けていて、中からスピーカーの黒いコーンが見える。
「いい映画あるぞ。見るか」とツヨシは言った。
健太はうなずかなかった。ツヨシはすでに、テレビの上に無造作に置かれた一本のビデオテープに手を伸ばしている。ツヨシの言うタイトルは彼には初めてだったが、マチコはエプロンで手を拭きながらキッチンテーブルに戻ってきた。
どうせ日本語吹き替えだろ、それじゃ英語の勉強にならなくないか。まあ、今はそんなことどうでもいいけど、と健太が言うと、ツヨシは自身ありげに微笑んだ。
「たしかに吹き替えだけど、画面の下に英語のキャプションが出るんだよ」そんなメカを、中古ショップで手に入れたのだという。さらに、耳から日本語を聞き、目で英文を読むことで得られる学習効果をとうとうと説明しだした。マチコは、話はいいからそろそろスイッチをつけようと言った。
灰色の画面上にピストルを持つ髭面の男が浮かび上がった。警官が入り乱れて走っている。打撃戦が始まった。明らかにストーリーの途中だ。筋はわからない。
だから最初から見ようとしても、ツヨシのビデオには巻き戻し機能がない。正確には、壊れていて巻き戻らない。
それでもツヨシがそれを苦にしている様子は感じられない。見終わったビデオはレンタル屋に返して、次の新しい物語を借りて来るのが週末の楽しみだという。
すぐにツヨシは映画など見向きもせず、口から泡を飛ばしながら俳優の話を始めた。ここでも健太に馴染みのない名前ばかりが列挙した。マチコとツヨシと話が盛り上がる横で、彼は一人黙って画面を見ていたが、弾丸シーンが延々と続くうちにあくびが出てきた。視線を髭面の俳優から外すと、テレビ横の丸い台の下に、ミンが残していった韓国製ソジュウが見えた。健太はソファに移動してボトルを手にし、そのまま瓶の口から飲み始めた。
こんな時間にどれだけ助けられていることだろう、と健太は思った。
ツヨシと出会ってなかったら。昼のマチコの質問だった。
健太はこの問の前半に、マチコとミンも加えてみた。
彼らと出会ってなかったら、一日中カフェテリアで時間をつぶしていただろう、たった一人で、いつ癒えるかわからない心と一緒に。学校はこのまま退学になっていっただろう。上司もろくに口をきかなくなり、同僚の視線も冷たくなったバイトは、いつ仕事が来なくなってもおかしくなかった。母国に帰ることになった可能性は非常に高い。
マチコはテーブルから立ち上がると、台所でスポンジに緑色の洗剤をのせている。ツヨシは一人でソジュウを飲む健太を認めると、隣にやってきた。そして、目だけマチコに向けながら健太の耳元でトーンを落とした。
「あのコがこの時間まで残ってるのって、初めてだな」
腕時計は知らぬ間に、夜十一時半を指している。
出会ったばかりの頃、マチコがここへやって来ることはなかった。ルームメイトが食事を用意しているからというのが断りの理由だった(そのルームメイトがミエだ)。それでもツヨシは誘い続けていたらしい。そんな話をミンから聞いたことがある。
健太は頬のこけたツヨシの顔を見ながら、最近感じていたことを口にした。
「もしかしてマッチャン、アンタのこと気になってるんじゃないのかな」
ツヨシはまんざらでもなさそうな小さな笑みを一瞬浮かべ、マチコに向かって口元に両手を縦に添えた。
「あとは俺達でやっとくから、そのへんにしときなよ」
マチコは泡立てたまな板に水をかけている。
「ミエには遅くなるって言ってあるし、明日は休みだから」
ツヨシは台所へ歩いていった。
「さあさ、あとは俺やるから。ほらケンタ、送ってやれ」
健太はああ、と言ったまま、抗し難い瞼の重みと戦いはじめていた。朦朧としていく意識の中、マチコとツヨシの声が錯乱してきた。
気がつくと、首が痛い。健太はうなだれた顔をゆっくり上げると、カーテンの向こうがぼんやり明らんでいた。頭が痛い。ソジュウがまだ残っているようだ。足元からツヨシのいびきが聴こえる。健太は目をこすりながら上体を起こすと、マチコがダイニングテーブルの上でうつぶせになっている姿が映った。彼はスーツケースの上にかかった革ジャンをマチコの小さな背中にかけ、急いで仕事着に着替え始めた。
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