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「ソフィア……もう無理だ。おかしくなる……っ」
つい先ほどまで、私を性悪女扱いしていたはずの皇太子。今の彼は、蕩けきった瞳で私を見上げ、縋るように腰へ腕を回してくる。
「あら。世継ぎを作るための、ただの『義務』なのでしょう?」
「それは……っ」
「でしたら最後まで、きちんと務めを果たしてくださいませ。殿下♡」
耳まで真っ赤にした彼が、悔しそうに唇を噛む。――一体なぜ、こんなことになったのか?
***
享年二十九歳。死因、交通事故。
夫とは、もう二年近くレス状態だった。それでも子どもが欲しくて、薬の副作用による吐き気も、毎月期待しては落胆する苦しさも、すべて飲み込んで不妊治療へ通い続けていた。
そんな中、夫の地元への転勤が決まり、仕事を辞めてついていくことを選んだ。けれど、慣れない土地での孤独と、終わりの見えない治療は、少しずつ私の心をすり減らしていった。
近くに暮らす義母は、頻繁に家へ押しかけてきては家事へダメ出しをし、わざとらしくため息をつく。
「また駄目だったの?息子に申し訳ないと思わないわけ?」
夫は私を庇うどころか、スマホから目も上げなかった。
「奥様には、明確な原因が見つかりません。次は、ご主人にも検査を受けていただきたいのですが……」
医師からそう勧められても、夫は一度も病院へ来なかった。
「俺に原因があるわけないだろ! できないのは、お前に問題があるからだ!」
ある夜、勇気を振り絞って訴えた。
「治療がつらいの。少しだけ休んで、また外で働きたい。私、このままだと、どうにかなりそうで――」
「はあ? 何様のつもり?」
夫は鼻で笑った。
「お前は俺に寄生してるんだから、黙って家事と子作りだけしてりゃいいんだよ」
言い返せば、十倍の罵詈雑言が返ってくる。泣けば面倒くさがられ、怒ればヒステリーだと笑われる。
だから私は、何も感じないふりを覚えた。感情を殺し、ただ頷いていれば、その場だけはやり過ごせたから。
そんな地獄のような日々の終わりは、あまりにも唐突だった。病院からの帰り道、見てしまったのだ。見覚えのある背中が、若い女性とホテルへ入っていくのを。
(私ばっかり……バカみたい)
信号が青へ変わり、一歩、横断歩道へ踏み出した。
その直後――。けたたましいクラクションが鳴り響いた。真横から、信号を無視した車が突っ込んでくる。身体へ巨大な衝撃が走る。
地面へ投げ出され、全身が焼けるように痛んだ。苦しい。息ができない。それなのに、不思議と恐怖はなかった。
心の底から湧き上がってきたのは、鉛のように重い徒労感だけだった。
(もう、疲れた……)
治療に耐え、夫と義母の顔色を窺い、最後には裏切られた。愛されることもなく、女としての自信をすり減らして死ぬだけの、惨めな人生。
(神様。もし生まれ変われるなら、次はもっと情熱的に愛されたい。私だけを見てくれる人と――)
そう願って、目を閉じた。
***
「……お嬢様!」
遠くから、誰かの声が聞こえる。
「ソフィアお嬢様ったら! もうお時間ですよ。シャキッと起きてください!」
「ん……?」
身体を揺すられ、重たいまぶたを開いた。そこは病院のベッドでも、事故現場でもなかった。天蓋付きのベッドに、ふかふかの高級羽毛布団。
見知らぬメイド服の少女が、顔を近づけて覗き込んでいる。茶色の髪に、健康的に日焼けした小麦色の肌。鼻の周りにはそばかすが散っていて、大きな黒い瞳をパチパチさせる様子は、小リスのような愛らしさだ。
「やっとお目覚めですね!」
私が起きたと見るや否や、彼女は太陽のような笑顔を弾けさせた。
そのままキビキビとした動作で窓辺へ駆け寄り、分厚いカーテンを勢いよく開け放つ。
「いつもなら昼寝なんてなさらないのに、珍しいこともあるものですね。お疲れなのは分かりますけど、のんびりしていられませんよ?」
「……何の話?」
「もう! まだ寝ぼけてるんですか?」
少女は腰へ手を当てた。
「明日の式のための最終確認が山積みなんですから!」
「……式?」
「皇太子殿下との結婚式ですよ。結・婚・式!」
専属侍女らしい少女――アンナは、やれやれとため息をついた。けれどその手は休むことなく、手際よくお茶の準備を進めている。
皇太子。ソフィア。頭の中へ雷が落ちたような衝撃が走った。ベッドから跳ね起き、ドレッサーの前に立つ。鏡の中にいたのは、前世の地味な自分とは似ても似つかない女性だった。
月明かりを糸にしたような、プラチナブロンドの髪。陶器のように白く滑らかな肌。豊かな胸元を強調する深紅のドレス。何より目を引くのは、吸い込まれそうなエメラルドグリーンの瞳。
黙っていても、私が世界の中心よと言わんばかりの、攻撃的なまでの美貌だった。
(嘘でしょ……?)
(これって、『ラディアント・ローズ』のヴァンクロフト公爵令嬢、ソフィアじゃない!?)
間違いない。生前、心の隙間を埋めるようにやり込んでいた、あの成人向け乙女ゲームの世界だ。
(……待って。明日が結婚式ってことは、もうバッドエンド確定ルートに入ってるってこと?!)
そう、思い出した。ゲームの中でソフィアは、ヒロインである聖女・シェリーを虐げた悪女として断罪され、最後には夫となった皇太子の命令で火あぶりにされる。
つまり私は――。死亡フラグ満載の悪役令嬢に、転生してしまったのだ。
コメント
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うわあ、もう冒頭から心臓掴まれました……! 前世の地獄みたいな日々の描写が生々しくて、読んでるこっちまで息が苦しくなりました。それなのに「もう疲れた」の後に転生して、悪役令嬢ソフィアの美貌と「明日、結婚式」の絶望感。この落差がたまらないです。皇太子との関係もこれからどう転ぶのか、続きが気になって仕方ないです! ひよりさんの筆致、すごく好きです。