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ナギの母、佐伯里美が帰った後、海猫軒は再び静寂に包まれた。
アオイはカウンターの中で、
ナギのスケッチブックの跡が残る最後のページを思い浮かべていた。
「絵は人の心を救い、勇気を与えることができる」
ナギに送ったこの言葉は、今やアオイ自身の座右の銘となっていた。
東京での挫折は、アオイに「絵は役に立たない」という呪縛をかけた。
しかし、ナギの純粋な夢を守ることで、その呪縛は解かれたのだ。
アオイは、カウンターに置いたままだった自分のスケッチブックを開いた。
昨日描き始めた、海猫軒から見える穏やかな防波堤のデッサン。
一本の線、一つの影に集中する感覚は、何年ぶりだろうか。
昼食の片付けを終えたハルさんが、アオイの背後から声をかけた。
「アオイちゃん、随分集中しているね。久しぶりに筆を持ったんじゃないかい?」
「…はい。描くのは、本当に久しぶりです。」
「いいね。前に描いていた、都会的なデザイン画も良かったけど、この町の空気を吸って描いたアオイちゃんの絵は、何だか生命力があるねぇ。」
ハルさんは、アオイのデッサンを見て、穏やかに微笑んだ。
彼女は、アオイがこの数週間、
必死で誰かと文通していたことに薄々気づいていたようだが、
何も尋ねなかった。それが、アオイにとっては心地よかった。
「ハルさん、私…この町で、もう一度、絵を描きたいと思っています。」
「いいさ、描きなよ。ここは、いつだってアオイちゃんの居場所だよ。」
「ありがとうございます。」
その日、アオイはすぐに町へ出た。
目的地は、古い画材店だ。
東京で使っていた高級な筆や絵具は、
挫折と共に箱にしまい込んだまま、ここへは持ってきていなかった。
アオイが選んだのは、海と空の色を写し取ったような、鮮やかな青と、錆びた防波堤の赤茶色の絵具。
そして、真新しい一本の油絵の筆だった。
その筆を握ったとき、アオイは強い決意を新たにした。
(ナギ君がくれた勇気を、私はここで、自分の未来を創る力に変える。)
海猫軒に戻ったアオイは、店の裏の岩場、
かつてナギが密かに絵を描いていた場所へと向かった。
そこは、小さな波の音が絶えず聞こえる、静かで特別な場所だった。
アオイは岩に腰を下ろし、ナギの「灯台」のスケッチを眺めた。
「ナギ君、君の灯台は未来を照らした。今度は、私がこの海猫軒という止まり木を、もっと光る場所にしてみせるよ。」
アオイは、ナギが最後に描き残したかった「海猫軒」の絵を思い出した。
あの絵は、この店がナギにとって唯一の安息の地だったことの証明だ。
(そうだ。海猫軒を、アートでいっぱいの、みんなの灯台にしよう。)
アオイは、ハルさんの協力を得て、
海猫軒の店内に小さなアートスペースを設けることを決意した。
町の風景を描いた自分の絵を飾り、誰もが気軽に立ち寄れる、アートと交流の場にする。
それが、この町での新しい目標だ。
その夜、アオイはハルさんにその計画を熱く語った。ハルさんは目を細め、静かに頷いた。
「アオイちゃん、いい考えだね。この町の人たちも、ナギ君の絵を見て、みんな心が動かされたんだ。アオイちゃんの新しい絵は、きっとこの町を明るくするよ。」
ハルさんの言葉に、アオイは迷いを振り切った。
しかし、そのとき、ハルさんが少し真面目な顔になり、アオイに問いかけた。
「ところで、アオイちゃん。君がナギ君と文通していたあのポスト…実は、少し前から投函口が塞がっていたらしいんだよ。」 「え…?」
アオイは耳を疑った。
自分が必死に手紙を投函していたあのポストが、文通の最中に機能していなかったというのか?