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「ちょっと、颯人、聞いてるの?」
 その日の夜、颯人は高級レストランで食事をしていた。向かいには不満そうに自分を見ている冴子がいる。
 「親父がディナーミーティングだって言うから来たけど、誰もいないじゃないか。何で俺たちはこんなところで飯食ってるんだ?今度からミーティングがキャンセルになったらもっと早めに教えてくれないか。そしたらわざわざこんな所に来る必要もない」
 颯人は食事半ばでフォークとナイフをテーブルに置いた。
 「仕事じゃないなら俺もう帰るから」
 溜息をつき席を立とうとすると、冴子が慌てて止めた。
 「ちょっと待ってよ。確かにミーティングはキャンセルになったかもしれないけど、仕事の話は色々とあるでしょう?」
 「仕事の話だったらメールか何かで十分だろ。前から思ってたけど、わざわざこうして会って話す必要あるか?メールでレポートでも何でも送ってくれたら家で確認するから。とにかく今度からそうしてくれ。それと親父に週末は接待を入れるなと伝えてくれ。前にも言ったんだけど、どうやら伝わっていないみたいだから」
 颯人はそう言うと席を立った。
 「ちょっと待ってよ。私はここからどうやって帰ればいいのよ」
 「タクシーで帰ればいいだろ。どうせ請求は会社に行くんだから」
 颯人はそう言い残すと、呆気に取られている冴子を残しレストランを後にした。
 颯人は帰りの車の中で冴子の事を考えた。
 以前颯人が冴子とまだ付き合っていた頃、このアメリカ行きの話が一度あった。当時彼女は颯人の秘書として働いていて、この話にかなり乗り気だった。
 しかし颯人は父親や古株の重役となかなか意見が合わず、自分の思う様に動けない事から、このアメリカ行きを放棄した。そしてもっと自由に自分のやりたい方法で仕事がしたくなり、篤希と一緒に会社を立ち上げた。
 その時、冴子は成功するかも分からない事業を颯人が起業する事に猛反対した。そしてそれがきっかけで二人は別れた。
 しかし今またこの話が再び出てきて、父親に颯人の秘書を命じられると、彼女は以前にも増してこの仕事にやる気を出している。
 今の父親の態度から見ても、仕事の出来る冴子を颯人のサポート役としてアメリカへ連れて行けと言われるのは避けられないだろう。
 篤希は蒼と話し合うべきだと言うが一体どうやって話せば良いのだろうか……?父親の跡を継いで事業を助ける為にアメリカに行く事は既に決まっている。しかも冴子を一緒に連れていかなければならない。
 この事実を話すと、蒼が自分の元を去ってしまうのではないかと怖くて言えない。やはりアメリカでの仕事は断るべきなのだろうか……。しかし父親が二度も断る事を許してくれるとは思えない。
 颯人は重い足取りでマンションの部屋に着くと、玄関のドアを開けた。そこは真っ暗で空気も冷たくしんと静まりかえっている。
 以前一人暮らしをしていた時は当たり前の光景が、今はとても寂しく感じられる。蒼との生活を知った今、もう二度と昔の一人暮らしには戻れないだろう。
 颯人は着替えを済ますと、キッチンに行って冷蔵庫を開けた。そして蒼が作り置きしているご飯を電子レンジで温めると、ダイニングテーブルで一人夕食を食べ始めた。
 蒼の作る食事は高級レストランなんかより数倍美味い。食べていると、彼女が颯人の為に一生懸命作っている姿が思い浮かぶ。ただ今夜は、いつも向かいで笑顔でその日の出来事や雑談をして、彼を和ませてくれる蒼がいない。
 最近颯人はよく考える。自分の人生の目的とは一体何だろうかと。今までは人生の目的とは仕事で成功する事だと思っていた。実際今でも彼にとってそれは重要な事だ。しかし今はそれだけではないと言うことがよくわかる。なぜなら自分の人生に蒼がいなければ全く意味がないからだ。
 颯人はちらりと時計を見た。今日は飲みに行くと聞いているが、そろそろ日付が変わる頃なのに蒼がなかなか帰ってこない。
 あの朝比奈という男は、この近辺というより日本から排除してある。
 蒼がストーカーされていると知った翌日、すぐにあの男の事を調べてみると、何と運のいい事に彼は蒼が高嶺コーポレーションを辞めた後、桐生グループの子会社に転職していた。颯人は早速子会社に連絡を取って、昇進という名でその子会社の工場がある中国に送ってもらうよう知り合いに頼み込んだ。
 一ヶ月前もまだあの男が中国にいる事は確認しているが、もしかして休暇か何かで日本に帰っていて、再び蒼に接触しようとしているかもしれない。そう考えただけで居ても立っても居られなくなる。
 日付が変わっても帰って来ない蒼に痺れを切らし電話しようとした時、突然玄関の方で鍵を開ける音が聞こえ蒼が帰ってきた。
 「こんなに遅く帰ってきたら危ないだろ。俺がどれだけ心配したと思ってるんだ。飲みに行くなとは言わないがもう少し早く帰ってくるべきだろ」
 颯人はホッとしながらも思わず強い口調で蒼に言った。
 「えっ……桐生さん、もう帰ってたんですか?」
 蒼は一瞬驚いた様に颯人を見た後、ふいっと彼から目を逸らし俯いて靴を脱いだ。
 「帰る途中で立花さんが飲み過ぎで具合が悪くなってしまって……。それで酔いが冷めるまで姫野さんと一緒に待っていたんです」
 蒼はそう言うと玄関に立ちはだかる颯人を睨んだ。
 「どうしていつも私が責められるんですか?桐生さんだって毎晩遅く帰ってくるじゃないですか!」
 「それは仕事だから……」
 そう言いかけて蒼が悲しそうな顔をしているのに気付き、思わず口を閉じた。
 「いつも仕事仕事って……。桐生さんが忙しいのはわかってるんです……。仕事だから……仕方ない事だってちゃんとわかっています。でも今日は早く帰ってくるかなと、毎晩待ち続ける私の気持ちわかりますか?」
 そう言うと蒼は颯人から目を背け、バスルームに逃げ込み鍵をかけた。
 蒼はいつも颯人を締め出して自分の殻に閉じこもってしまう。本当は彼女に触れたいのに……抱きしめたいのにそれさえも拒絶されている様で辛い。
 颯人の脳裏に突然両親の事が思い浮かんだ。
 父親は仕事ばかりで家にも寄り付かず、母親はそんな父が嫌になり家を出た。もしかして蒼と自分も同じような運命を辿るのではないかと思うと、心が張り裂けそうになる。
 二人で一緒に生きていくという事はどういう事なのだろうか。
 明らかに自分の両親はその点において失敗している。これからの長い人生、自分の両親の様な運命を辿らず蒼と一緒に生きていく為には一体どうすれば良いのだろうか?
 蒼を失わないためにも、アメリカでの仕事は諦めるべきなのか……。そもそもこんな自分は蒼を幸せにできるのか……。颯人は答えが見つからないまま鍵のかかったバスルームのドアをいつまでも見つめた。