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甘い匂いが鼻をくすぐって、私はゆっくり目を開けた。
最初に見えたのは、茶色くて丸い壁。 よく見ると、うっすらチョコチップまでついている。
「……クッキー? なんでクッキーの壁?」
寝ぼけているのかと思ったけど、触ってみると壁は信じられないくらい硬い。
サクッとしそうなのに、ぜんぜん割れない。
私はしばらくその場に座り込み、頭を整理した。最後に覚えているのは、いつもと変わらない帰り道。
なのに今は、巨大なクッキーの牢屋の中。どうかしてる。
すると突然、耳の奥でふわっと声がした。
──のあちゃん、聞こえる?
「えっ?」
あたりを見回したけれど、誰もいない。
だけど確かに、誰かが私に話しかけた。
「誰? どこ?」
──急がないと、溶けちゃうよ。
「溶けるって、何が?」
答えはなかった。でも胸が妙にざわざわして、私は立ち上がった。
クッキーの壁をもう一度押してみる。硬いけれど、少し力を込めるとピシッと音がした。
「……ひび、入った?」
思い切って肩から体当たりした。
ガシャン! と音が鳴って、壁が割れて外の光が差し込んできた。
「いけた……!」
割れた壁をくぐり抜けると、目の前にはふわふわの綿あめが一面に広がっていた。
よく見ると、そこは綿あめの“沼”だった。白やピンクの甘そうな綿あめがゆっくり渦を巻き、近づくほど甘い匂いで頭がぼんやりする。
「これ……落ちたら絶対やばいよね……」
私は足をすくませた。
するとまた声がした。
──右はやめたほうがいいよ。そっちは沈む。
「右が……沈む? じゃあ左?」
──うん、左。
私は声に導かれるように左を向いた。すると、細くて頼りないビスケットの橋が見えた。
乗った瞬間に折れそうで、正直怖い。
「ほんとに渡って大丈夫なんだよね……?」
──大丈夫。のあちゃんなら。
“なら”って何。
文句を言いたかったけれど、ここで立ち止まっても仕方ない。私は息を吸い込み、ビスケットの橋に足を乗せた。
サク……ミシ……。
「折れないで……折れないで……!」
橋は何度もひび割れそうになったけど、私はなんとか渡りきった。
向こう側には、黒々としたチョコレートの森が広がっていた。
「森っていうか……これ、森の形をしてるチョコの塊じゃん」
木の幹は茶色で艶があって、触ると体温で溶けそうだ。枝からはとろりとチョコが垂れていて、地面には甘い泥のように広がっている。
──こっちへ。
また声がして、私は言われるまま森の中へ足を踏み入れた。
ときどき頭上からチョコが落ちてくるので、避けながら進む。
「ねえ、声の人。どこにいるの?」
──すぐそばだよ。でも、まだ見せられない。
「意味わかんない……」
不安が胸の奥で大きくなる。それでも、声に逆らう気にはなれなかった。
甘い匂いはだんだん強くなり、息を吸うたび頭がぼーっとする。
「これ……長くいたら危ない気がする……」
──出口は、すぐそば。
「またそれ……どこが“すぐそば”なの!?」
声を上げた瞬間、頭上からキラッと光るものが落ちてきた。
手に取ると、それは薄くて透明なシートみたいなもの。チョコや砂糖じゃなくて、冷たいガラスみたいな感触。
──それを破って。
「破るって……ここで?」
──そこが、本当の境界。
私は半信半疑だったけれど、力いっぱいシートを引き裂いた。
すると、まぶしい光が爆発するように広がった。
「うわっ……!」
思わず目を閉じた私の体が、光に吸い寄せられるように浮き上がる。
──よくがんばったね、のあちゃん。
その声を最後に、私は甘い世界から一気に引き戻された。
次に目を開けたとき、そこは見知らぬ部屋だった。
お菓子の匂いは一切しない。
けれど胸の奥には、あの声だけがはっきり残っていた。
──また会うよ。
「……誰なの? 本当に」
私は答えのない部屋の中で、ひとりつぶやいた。