テラーノベル
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長野の夏は、東京よりもずっと空が近くて、青い。
そう思っていたのに、その日の午後は、まるで世界中から色彩が奪われてしまったかのような、重たい鉛色の雲が空を覆い尽くしていた。じっとりとした生温かい風が、高原のひまわり畑を大きく揺らしている。
「もときくん、はやくはやく!雨が来ちゃうよ!」
前を走るりょうちゃんが、麦わら帽子を押さえながら振り返った。白いTシャツの背中が、小さな肩甲骨の形に合わせてひらひらと揺れている。
「待ってよ、りょうちゃん!」
僕は胸にしっかりと、ビニール袋に包んだ絵日記を抱えたまま、その後を追った。
僕たちはこの数週間、毎日一緒にいた。川で泳いで、スイカの種を飛ばし合って、カブトムシを探した。りょうちゃんは次の日の朝になると、僕の顔を見ても「だれ?」と小首をかしげる。そのたびに僕の胸はきゅっと痛んだけど、僕が絵日記を開いて「昨日はね」と話し始めると、りょうちゃんはすぐに「わあ、楽しそう!」と満面の笑みを浮かべてくれた。
それに、最近は覚えていてくれることが増えた。何をしてたかまでは覚えてないけど、僕を見て、もときくん、と呼んでくれるほどに。
毎日が初対面で、毎日が特別な一日。そんな、ちょっぴり奇妙で、けれど愛おしい日々も、もうすぐ終わろうとしていた。僕が東京へ帰る日が、すぐそこまで迫っていたからだ。
ポツ、と鼻の頭に冷たいものが当たった。それを合図にしたかのように、バラバラバラと激しい音が空から降ってきた。バケツをひっくり返したような夕立だった。
「わ、わ、こっちこっち!」
りょうちゃんが僕の手を引いて、ひまわり畑の片隅にある木造の古い東屋へと飛び込んだ。間一髪で屋根の下に滑り込んだものの、二人とも髪から足元まで、すっかりずぶ濡れになっていた。
「つめた!あはは、すごい雨」
りょうちゃんは濡れた前髪をかき上げながら、ケラケラと楽しそうに笑った。その無邪気な笑顔を見るだけで、胸の奥に、いつも小さな灯がともるようだった。
けれど、雨は激しさを増すばかりで、周囲のひまわりたちは、大粒の雨に打たれて、まるで頭を垂れて泣いているように見える。
遠くの山々も雨のカーテンの向こうに霞んで、僕たちだけの小さな世界が、この東屋に取り残されたみたいだった。
しばらく雨を眺めていたけれど、気づけばりょうちゃんの鼻歌が止まっていた。山から吹き下ろす風は冷たく、濡れた体に容赦なく吹き付ける。りょうちゃんの小さな体が、小刻みに震えているのが分かった。
「りょうちゃん、寒い?」
僕が顔を覗き込むと、りょうちゃんはうつむいたまま、何も言わずに首を振った。
いつもなら、お腹すいただとか、手が冷たいとか、すぐに甘えてくるはずなのに、今のりょうちゃんは何だか様子がおかしかった。ぎゅっと唇を噛み締めて、遠くの方をを見つめている。
「りょうちゃん…?」
心配になって、僕は抱えていた絵日記をベンチに置き、りょうちゃんの隣に腰掛けた。
その瞬間、りょうちゃんの目から、ぽろりと大きな涙がこぼれ落ちた。雨の雫ではない。熱くて、切ない、涙だった。
「どうしたの?どこか痛い?」
慌てる僕の言葉に、りょうちゃんは小さく頭を横に振った。そして、消え入りそうな声で、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
「あのさ…僕、こういう日は、なんかわかんないけどすごく怖くなる。」
りょうちゃんの声は、激しい雨の音にかき消されそうだった。僕は耳を澄ませて、りょうちゃんの言葉をこぼさないように聞いていた。
「朝、目が覚めると、頭の中が真っ白なんだ。昨日、誰と何をして遊んだのか、お母さんが教えてくれても全然分からなくて…。みんなが僕の知っている名前を呼ぶのに、僕だけ、みんなのことが分からなくて…。」
りょうちゃんの小さな肩が、大きく揺れた。引き結んだ口が震えている。
「みんなの顔を見てるとね、悲しそうな顔をするんだ。僕が忘れちゃったから。それが、すごくごめんなさいって思う。…僕、きっと壊れちゃったんだ。明日になったら、お父さんやお母さんのことも、もときくんのことも忘れちゃうのかな。」
胸がドキリとして痛かった。だってずっと一緒にいたけれど、こんなりょうちゃんは初めて見たから。
何にも気にしていないように見えていた。でも、毎日記憶がリセットされる恐怖と、周囲を傷つけてしまう申し訳なさに、りょうちゃんはずっと立ち塞がれてたんだ。ずっと気づけなかった自分が悔しかった。
「そんなことないよ!」
気づけば、りょうちゃんの細い両肩を掴んでいた。雨に濡れた服がじっとりとへばりつく。
「りょうちゃんは壊れてなんかいない!忘れたっていいんだよ。僕が、僕が毎日、全部覚えておくから。りょうちゃんが忘れたことは、僕がこの日記に全部書いて、何度でも教えるから!」
必死だった。僕の拙い言葉が、少しでもりょうちゃんの恐怖を和らげてくれればいいと、祈るような気持ちで叫んでいた。
けれど、脳裏に意地悪な現実がよぎる。
でも、僕はもうすぐ、東京に帰らなきゃいけない。
秋が来れば、冬が来れば、僕はここにいられない。毎日日記を見せてあげることもできなくなる。りょうちゃんが一人になってしまう。その別れの辛さが、鋭い痛みとなって僕の胸を刺した。
僕もまた、寂しくて、悔しくて、涙が溢れて止まらなくなった。二人で雨の音に包まれながら、ボロボロと涙を流していた、その時だった。
りょうちゃんの手が、躊躇うようにゆっくりと動く。そして、僕の雨で濡れたTシャツの裾を、人差し指と親指の二本だけで、きゅっと小さくつまんだ。本当に、小さな、ささやかな力だった。強く引っ張るわけでもなく、ただそこに触れて、離れたくないと主張するような仕草。
りょうちゃん自身は、それがどんな意味を持つのか分かっていないのかもしれない。ただ、泣いている僕を引き止めたいという、本能的な無意識の行動だった。
けれど、その指から、りょうちゃんの体温と、言葉にならない「忘れたくない」という切実な思いが、肌へと直接伝わってくるようだった。言葉でどれだけ「忘れてしまう」と言っていても、りょうちゃんの心は、この時間を必死で繋ぎ止めようとしてくれている。
「もとき、くん…」
りょうちゃんが、涙で濡れた瞳で僕を見上げた。
「僕、忘れたくない。もときくんのこと、ずっと、覚えていたい…」
その言葉を聞いた瞬間、ただ、この手を絶対に離したくないと、僕のすべてを賭けてでも、この男の子を守りたいと、心から、思った。
「うん。忘れないよ。絶対に、僕が、忘れないから。」
僕は自分の手を重ねて、りょうちゃんの指の上から、その小さな手をそっと包み込んだ。りょうちゃんの指は少しだけ震えていたけれど、僕が握り返すと、安心したようにほんの少しだけ力が強くなった。
しばらくして、嘘のように雨が上がった。雲の切れ間から、夕方の眩しい太陽の光が差し込んでくる。雨粒をまとったひまわり畑が、まるで無数の宝石を散りばめたようにキラキラと輝き始めた。
東屋を出る時、りょうちゃんはもう僕の裾から手を離していた。濡れた服を乾かすように吹き抜ける心地よい風の中で、りょうちゃんはいつものように、にっとと笑った。
「あ、雨あがったね!元貴くん、かけっこしよ!」
「ふふ、うん!あのでっかいひまわりのとこまでね!」
走り出したりょうちゃんは、もうさっきの涙も、僕の裾を掴んだことも、すっかり忘れてしまったかのような足取りだった。けれど、僕のTシャツの裾には、確かにりょうちゃんの指が残した、小さな皺が刻まれていた。
この皴もすぐに消える。明日になれば、りょうちゃんは僕を忘れる。
数日後には、僕はりょうちゃんの隣にいない。
だけど、僕たちの間には、目に見えない、けれど絶対に消えない足跡が刻まれ始めている。
ベンチから拾い上げた絵日記を、ぎゅっと強く抱きしめ直して、光るひまわりの中を駆け抜けるりょうちゃんの後を追った。
かめちょん
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かめちょん
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かめちょん
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コメント
3件
ああ、もう…胸がぎゅっとなりました。りょうちゃんが初めて「怖い」と本音を漏らす場面、ずっと笑顔の裏で必死に戦ってたんだなって思うと涙が止まらなかったです。そして、もときくんの「僕が覚えておく」という言葉の切なさよ…。最後の裾を掴む仕草、あの小さな表現がもう本当に刺さりました。かめちょんさんの優しい筆致に、夏の終わりの匂いと切なさが詰まっていて、読後もずっと余韻が残っています。素敵な物語をありがとうございます🌻