テラーノベル
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夏休みが、終わろうとしていた。
あんなに果てしなく続くと思われた長野の夏は、僕の指の間からこぼれ落ちる砂のように、あっという間に少なくなっていく。東京へ帰る前日、部屋の片隅には、すでに荷物が詰め込まれた大きなボストンバッグが静かに佇んでいた。それを見るだけで、胸の奥がジリジリと焦げるように痛む。
僕は机に向かい、この夏、毎日欠かさずに描いてきた絵日記を眺めていた。表紙は何度もめくったせいで少し端が丸まり、川遊びの水滴や、ひまわり畑の雨の跡が小さなシミになって残っている。
ページをめくれば、そこには拙いクレヨン画と一緒に、僕と涼架の過ごしたすべての「今日」が閉じ込められていた。
川遊び、日本一のスイカ、ミヤマクワガタ、神社の花火、そして雨のひまわり畑。
どれも、命と同じくらい大切な宝物。
毎日記憶が消えてしまうりょうちゃんのために、僕がここにいる証明として、そしてりょうちゃんが寂しくないように。僕がすべてを記憶する代わりに紡いできた、僕たちの絆そのものだった。
「これを、りょうちゃんに渡さなきゃ。」
そう、自分に言い聞かせるように呟いた。
元々は、そのために描き始めた日記だった。僕が東京に帰ってしまった後も、りょうちゃんがこれを見て、僕という友達がいたこと、一緒に楽しい夏を過ごしたこと、を思い出せるように。
忘れてしまっても、この日記を開けばいつでも僕たちの夏に会えるように。
ノートを握りしめて、夕暮れの町へと駆け出した。
そう思っていたはずなのに、日記を抱え込んで歩くりょうちゃんの家までの道すがら、僕の足取りは鉛のように重かった。
高原の風は、心なしか数日前よりも涼しく感じる。空は高く、どこか寂しげなイワシ雲が広がっていた。りょうちゃんの家の前に着くと、ちょうど庭の木陰で、一人でしゃがみ込んでアリの巣を眺めていた。麦わら帽子から、ふわふわとした髪がのぞいている。
「あ、もときくん!」
僕の足音に気づいたりょうちゃんが、パッと顔を輝かせて立ち上がった。 今日もやっぱり、頭の中からは昨日の僕たちの記憶は消えてしまっているのだろう。
それでも、僕の顔を見て嬉しそうに笑ってくれるその姿が、愛おしくて、同時にたまらなく切なかった。
「りょうちゃん、これ…」
僕は胸に抱えていた絵日記を、差し出そうとした。
「わあ、日記だ! 今日も見せてくれるの?」
無邪気に目を輝かせ、僕の手から日記を受け取ろうと手を伸ばす。
ーー違うよ、これ、りょうちゃんにあげようと思ってーー
その言葉が喉まで出かかった、その瞬間。
僕の脳裏に、黒くて冷たい、どろりとした感情が急に湧き上がってきた。
これをりょうちゃんに渡したら、どうなるんだろう。
僕は明日、東京に帰る。ここにはもういられない。秋が来て、冬が来て、僕のいない長い時間、りょうちゃんはこの長野の町で暮らしていく。
僕がいない間にも、りょうちゃんは他の誰かと出会うかもしれない。学校の友達や、近所の子供たちと、僕が知らない楽しいことをたくさん経験するかもしれない。
その時、りょうちゃんはその人たちとも、同じように毎日新しく出会って、仲良くなっていくのだろうか。
もし、僕が帰ったあとに、別の誰かがこの日記の続きを書き込んだら…?
想像しただけで、心臓がバクバクと激しく脈打ち始めた。
この日記は、僕とりょうちゃんだけのもの。僕が毎日、忘れられてしまう悲しさに耐えながら、それでもりょうちゃんと繋がりたくて必死に描き溜めてきた、僕たちの宝物。
それなのに、僕のいない間に、僕の知らない誰かがりょうちゃんの隣に座り、この日記の余白に、別の「今日」を書き込んでしまったら。りょうちゃんがその誰かのことを「特別な人」として、このノートに刻んでしまったら――。
「ぃやだ…」
小さな呟きが、僕の口から漏れた。
「え?なんか言った?」
りょうちゃんが不思議そうに、小首をかしげて顔を覗き込んでくる。その透き通った、何も知らない無垢な瞳が、今の僕の醜い心を見透かしてくるようで怖かった。
僕は弱虫で、寂しがり屋で、本当はちっとも強くない。「忘れてもいいよ」なんて言ったのは、僕が全部覚えていられるという、ただの格好つけだった。
僕は、りょうちゃんの中に僕だけの居場所が欲しい。他の誰にも、りょうちゃんの隣を譲りたくない。毎日リセットされるりょうちゃんの記憶の中で、僕だけが永遠の特別でありたかった。
この日記をここに置いていったら、僕とりょうちゃんの夏が、誰か別の人の思い出に塗りつぶされてしまうかもしれない。そんな焦燥感が、幼い僕の胸を容赦なく支配していった。
「やっぱり、だめ…!」
僕は叫ぶように言うと、りょうちゃんの手が届く直前で、絵日記を自分の胸へと強く引き戻した。
「もときくん…?」
驚いて目を見開くその顔を見ていられなくて、僕は日記を両手でギュッと抱きしめたまま、一歩、後ろへと後ずさりした。
「だめ、これは渡せない…!僕だけのものなの!」
僕だけの記憶、僕だけのりょうちゃん
子供らしい、あまりにも身勝手なわがまま。友情なんて綺麗な言葉では片付けられない、激しい感情。自分の中にこんな黒い塊があったなんて、信じらなかった。
りょうちゃんを傷つけたいわけじゃないのに、言葉が勝手に溢れてしまう。 りょうちゃんは悲しそうに眉を下げ、どうして僕が怒っているのか、泣きそうになっているのか分からずに立ち尽くしていた。
「ごめん、りょうちゃん、ごめん…!」
これ以上ここにいたら、もっと酷いことを言ってしまいそうだった。僕はくるりと背を向けると、りょうちゃんの家から逃げ出すように、全力で走り出した。
その瞬間だった。後ろで、衣類がわずかに擦れる音がした。りょうちゃんが、走り去ろうとする僕を引き止めようとして、無意識に手を伸ばしたのだ。
りょうちゃんの親指と人差し指の二本が、僕のシャツの袖口に一瞬だけ触れた。あの、雨のひまわり畑で、僕の服の裾をきゅっと掴んだ、あのりょうちゃんの癖。
けれど、僕の走る勢いが強すぎた。小さな指先は、僕の濡れた背中の汗をかすめただけで、きゅっと掴む前に、虚しく空を切って離れてしまった。
「あ……」
背後で、小さく息を呑む声が聞こえた気がした。りょうちゃん自身、なぜ自分が今、僕の袖を掴もうとしたのか分からなかったはずだ。記憶はないのに、身体が、魂が、僕を必死に引き止めようとしてくれた証拠だった。
その優しさに、僕を拒絶されたわけではないという事実に、余計に涙がこぼれてしまって仕方なかった。
「りょうちゃん、ごめんなさい…!」
振り返ることができなかった。振り返ったら、日記をその場に投げ出して、りょうちゃんにしがみついて泣いてしまいそうだったから。
ポロポロとこぼれ落ちる涙が、高原の乾いたアスファルトに黒いシミを作っていく。胸に抱えた日記が、僕の早鐘のような心臓の音をそのまま拾って、痛いくらいに震えていた。
ひたすら走り続け、自分の部屋へと飛び込んだ僕は、ベッドに倒れ込んで声を上げて泣いた。日記をベッドに投げ出し、自分の愚かさと、明日訪れる別れの恐怖に体を震わせていた。
りょうちゃんの指先が、僕の袖をかすめた感触だけが、いつまでも右の腕のあたりに熱く残り続けていた。
かめちょん
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かめちょん
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かめちょん
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コメント
6件
更新ありがとうございます✨ ❤️君の不安がとっても切なくて、 またまた泣きそうでした〜😭💛ちゃんのその時の感情は本物なのに、忘れてしまうのが2人にとって本当にもどかしいし切ない😭 1度目の夏は終わっちゃうんですね…🥺 その後の2人がどうなるのかも、ますます楽しみになりました✨
子供らしく、かつ❤️くんらしさが出せるように…この話は結構書くか悩みました… あと1話で二人の1度目の夏は終わってしまいます🌻二人の3度きりの夏とどうぞお付き合いください😌
うわ…第7話、すごく切なかったです😢 もときくんの「りょうちゃんだけの特別でいたい」っていう独占欲、忘れられる怖さが痛いほど伝わってきて、胸がぎゅっとなりました。日記を引き戻す場面、子供の純粋さゆえのエゴがリアルで…。 最後にりょうちゃんが無意識に袖を掴もうとしたところ、もう涙が止まらなかったです。記憶はなくても身体が覚えてる、って思うと切なすぎる…! かめちょんさんの描く感情の機微、本当に繊細で大好きです。続きが気になります…!