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資料室での一件から数時間がたった今、みなみと山中は築山の店にいた。二人掛けのソファに横並びに座っている。
仕事のためにやはり遅れてやって来た山中は、店に入ってすぐにみなみに気がついた。真っすぐにみなみの元へと向かい、当たり前のようにその隣に腰を下ろす。
「待たせてごめん」
普段の彼なら、隣に座っていいかなどとその可否を訊ねたことだろう。いつも通りではいられないほど余裕がないのかと、みなみは彼の表情をうかがった。
みなみの様子に戸惑いを見て取って、山中ははっとした顔をする。
「ごめん。隣は近すぎるよね。この方が話しやすいかと思って、つい。今移動するから」
「いえ、嫌ではないです」
みなみは首を横に振って、立ち上がりかけた山中を引き留めた。メニューをテーブルの上に置いて訊ねる。
「飲み物はどうされますか?」
「いや、後で、って言ってきた。ここに来たら、すぐに話をしたいと思っていたから。……早速聞いてもらっていいかな」
みなみは静かに頷いた。
山中の瞳が不安そうに揺れる。
「彼女とは同じ大学のゼミで知り合った。そこから付き合い出して、大学を卒業してすぐに籍を入れたんだ」
膝の上で組んだ両手に目を落としながら、彼はぽつぽつと話を続ける。
中には初めて聞いた内容もあった。しかしその大部分はすでに聞いていたことだったため、みなみを大きく動揺させることはなかった。
話している最中、彼が当時の感情を明確な言葉にすることはなかった。
しかし口調や間合い、表情などから、その時の気持ちがなんとなく読み取れて、その度にみなみの胸は痛んだ。
ようやく話し終えた山中の表情は、どこかすっきりとして見えた。
彼は深々とため息をつき、ぽつりともらす。
「やっと、話せた……」
「はい」
みなみはただ短く相槌を打った。感想や余計な言葉はいらないと思う。
山中は恐る恐る顔を上げた。みなみを見る表情は固い。
「岡野さんの気持ちは、今も変わらないだろうか」
「はい、変わりません」
山中は気持ちを整えるかのようにひと呼吸分ほどの間を空けてから、真剣な目をみなみに向ける。
「改めて言わせてほしい。俺は岡野さんが好きです。だから、君の傍にいてもいいですか」
「っ……」
ずっと待っていた言葉だった。気持ちが溢れて嗚咽が洩れそうになる。それを堪えるために、みなみは唇を引き結んだ。
山中はみなみの手を両手でそっと包み込む。
「イエスなら頷いてほしい」
みなみは彼の瞳を見つめ返し、やっとの思いで首を縦に振った。
山中は安堵の表情を浮かべ、みなみの手をきゅっと握る。
「ありきたりな言い方になってしまうけど。岡野さん、俺と付き合ってください」
「はい……」
みなみは声を絞り出して答えた。その途端、涙が目からこぼれ落ち、頬を伝う。
山中の指先がその雫を払い、みなみの顎を軽く持ち上げた。
キスされるのだろうかと、みなみはどきどきしながら身構えた。
しかし彼は、ほんの少し意地悪な目をしてみなみに訊ねる。
「宍戸からは何回キスされたの?」
「えっ、あ、あの……」
予想していなかった質問にみなみは口ごもり、瞬きを繰り返す。
「宍戸の話から考えると、あの資料室での他に一回。つまり少なくとも二回。いや、もしかしてそれ以上?」
みなみの頭の中に、いつぞやの日曜日の記憶が甦る。それを入れたら恐らくもっとだが、正直に答えるわけにはいかない。
目を逸らし黙り込んだみなみの耳元に、山中は唇を寄せた。
「ひとまず消毒する」
囁いてすぐに彼はきっかり二回、みなみの唇についばむようなキスを落とす。
咄嗟のことにみなみの目は開かれたままだった。山中の肩越しに築山の姿が見えて慌てた。
「こういう場所で、こういうことをするのはだめです……」
「ごめんごめん。嫉妬が先に立ってしまって」
山中は照れ笑いを浮かべ、それから表情を改める。
「あの時宍戸は言ってたね。もしも今後俺が、岡野さんを泣かせるようなことがあったら邪魔をするって。だけど俺は君を泣かせるつもりも、宍戸に邪魔させるつもりも毛頭ない。そして万が一にも、君の目が他の誰かに向くことがないように、大事にするよ」
山中はみなみの唇を指先で撫でながら、甘く囁く。
みなみは頬をつねってみたくなった。ひと晩寝たら実はすべてが夢だった、なんてことになったりはしないだろうかと、ふと不安になってしまったのだ。しかし目の前にある山中の眼差しと、唇に触れている彼の指先の熱が、これは現実なのだとみなみに教えてくれていた。
突然咳払いが聞こえ、声が続く。
「ええっと、失礼いたします」
築山がトレイを手に立っていた。
みなみは慌てて山中から離れた。今の場面を見られたかしらと、ときめきとは別の種類の鼓動が鳴り出した。
山中は不機嫌そうな顔を築山に向ける。
「なんだよ」
「なんだよって、邪魔者扱いかよ」
「用があったら呼ぶって言ってあっただろ」
築山は山中には苦笑を、みなみには笑顔を向ける。
「そう聞いてはいたけどさ。さすがにおなかが減った頃じゃないかなぁ、と思ってね」
築山の言葉にみなみは急に空腹を感じた。ここに来てからはまだ何も口にしていない。そして残業してきた山中も、お腹が空いているのはみなみと同じはずだ。
築山は二人の前に、料理が乗った皿、取り皿やスプーン、フォークを並べた。
「温かいうちにどうぞ召し上がれ」
「ありがとな」
礼を言う山中の影から顔を出し、みなみもまた築山に頭を下げる。
「ありがとうございます」
築山はにっこりと笑う。
「どういたしまして。そうだ。後でデザート出してあげるね。お祝いに」
「お、お祝い……?」
「そ。うまくいったお祝い」
赤面するみなみを見て、築山はくすりと笑う。それから今度は山中に目を向けて、しみじみと言う。
「匠、良かったな」
「色々心配かけたな。ありがとう」
山中は照れた顔で親友を見上げた。
「さて、邪魔者はもう消えるよ。気のすむまで二人でごゆっくり」
築山はカウンターの方へ足を向けたが、急に立ち止まった。
「この前みなみちゃんに言い忘れてたことがあったんだ」
「なんでしょう?」
「匠はね、一見ドライに見えるんだけど、実はなかなか熱いんだよ」
「はぁ……?」
「だから気をつけてね」
「何にですか?」
「どろどろに溶かされないように」
「えっ?」
どういう意味かと困惑し、みなみは瞬きを繰り返した。
「慎也、もうあっちに行けよ」
山中は苛立った顔で築山を追い払おうとする。
「はいはい、お邪魔しました。用があったら呼んでね」
陽気に言って背中を向けた親友を見送り、山中ははあっと深いため息をついた。
「あの、今、築山さんが言ったことって……?」
「慎也の戯れ言だよ。気にしないで。ほんとにあいつは賑やかなやつで……」
「築山さんは、補佐のことが本当に大好きなんですね」
「その言い方はちょっと語弊があるかな」
山中は苦笑を浮かべる。それからみなみの頬に手を伸ばし、優しい手つきで触れた。
「岡野さん、これからよろしくね」
「私こそ、よろしくお願いします」
みなみは恐る恐る彼の手に自分の手を重ねる。切なく感じるほどの喜びを胸に、彼の手をきゅっと握った。
「それじゃあ、恋人として初めてのデートはどこに行こうか」
山中の言葉にみなみの顔にはみるみるうちに満面の笑みが広がった。
『恋人として』
甘いその言葉をかみしめながら、みなみは答える。
「補佐と一緒ならどこでも構いません」
なぜなら。好きな人と一緒に過ごせるのならば、どんな場所へ出かけたとしても、特別なものになるに決まっているのだから。
(了)