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別々に資料室を出た私たちは、その数時間後、築山さんの店で二人掛けのソファに横並びに座っていた。
予告通り遅れてやってきた補佐は、何も言わず、まるで当たり前のように私の隣に腰を下ろした。
しかし私はその時、思わず体を引いてしまった。隣り合って座るのが嫌だったわけではなく、その距離感に対する心の準備がまだ整っておらず、動揺してしまったのだ。これ以上の距離はすでに経験済みだったけれど、そうすぐに慣れられるものでもない。
普段の彼ならひと言断ってから座ろうとするだろうと思った。彼も緊張しているのかもしれないと気を取り直し、どきどきしながら補佐の横顔をうかがい見た。
「ごめん。隣、嫌だった?この方が話しやすいかと思って……」
「嫌では、ないです……」
私は首を横に振った。
テーブルの上には、少しだけ中身が減ったグラスが一つ。
私はメニューに手を伸ばしながら、補佐に訊ねた。
「何か飲み物は?」
「後で、って慎也に言ってきた。ここに来たら、すぐに話をしたいと思っていたから。それで……」
補佐は言葉を切ると、私の方に体を向けた。
「聞いてくれる?」
メニューを戻して私は頷く。
補佐の瞳が不安そうに揺れた。
「元妻とは同じ大学のゼミで知り合って、そこから付き合い出した。そして、大学を卒業してすぐに籍を入れたんだ――」
補佐は顔をややうつむけながら、ぽつぽつと話し出した。
初めて聞いた内容もあった。けれどその大半はすでに聞いていたことだったから、私が大きく動揺することはなかった。
補佐は当時の感情を明確な言葉にはしなかったが、その口調や間合い、表情などからなんとなくだが読み取れて、私はその度に胸が痛んだ。
話し終えた補佐が、最後になって大きなため息と共にポツリともらした。
「やっと、話せた……」
「はい」
私はただ短く言った。感想だとか余計な言葉はいらない。たぶんそれだけでいいと思った。
補佐はゆっくり顔を上げると、固い表情で私を見た。
「今も、岡野さんの気持ちは変わらないだろうか」
私は彼を見つめた。
「変わりません」
補佐はそっと私の手を取ると、真剣な眼差しで言った。
「もう一度、改めて言わせてほしい。――君が好きです。これから先、俺の傍にいてくれますか」
それは待っていた言葉だった。けれど気持ちが溢れてうまく声が出せない。
答えを促すかのように、補佐は両手で私の手を包み込む。
「はい、って言ってくれないの?」
間近で見つめられて、苦しくなるほど鼓動が鳴る。私はこくんと頷いた。
補佐は私の両手をぎゅっと握った。
「俺と付き合ってください」
「はい……」
今度はどうにか声を絞り出すようにして答えた。その途端、私の目から涙がこぼれ落ちた。
補佐の指が私の頬を伝う涙を払う。彼はそのまま私の顎を軽く持ち上げ、顔を寄せた。
キス、される――。
どきどきしながら目を閉じた私に、補佐が突然訊ねた。
「宍戸からは何回キスされたの?」
「えっ、えぇと、あの……」
予想していなかった質問に、私は焦りつつ目を開いた。
「宍戸の話からすると、あの資料室での他に一回。つまり少なくとも二回。いや、もしかしてそれ以上?」
私は目を逸らした。本当はそれだけではなかったと思う、たぶんだけれど。第一そんなことを正直に言えるはずがない。
黙り込んだ私の耳元に、補佐は唇を寄せて囁いた。
「消毒する」
補佐はきっかり二回、私についばむようなキスをした。
咄嗟のことで目を開いたままだった私は、補佐の肩越しに築山さんの背中が見えてはっとする。
待って、ここはお店!
私は慌てて補佐の胸を押した。
「こういう場所で、こういうことをするのは……」
「ごめん。つい」
照れ笑いを浮かべる彼を見たら、私の頬は緩んだ。
私が今この人と笑い合っていられるのは、背中を押してくれた人がいたからだと、宍戸の顔が思い浮かぶ。その方法が荒っぽい時もあったが、彼が私と補佐の想いをつなぐきっかけを与えてくれた。少なくとも私はそう思っていて、できればありがとうの気持ちを伝えたいなどと思う。
ふと視線を感じて顔を上げると、私をじっと見つめる補佐と目が合った。
「今、誰のことを考えていたの?」
私は素直に答えた。
「宍戸にはたくさん助けてもらったな、と……」
「あぁ、確かにね。岡野さんとこんな風になれたのは、宍戸がきっかけを与えてくれたおかげもあるよね。でもね……」
補佐は目を細めた。
「普通なら、ここはこう言う場面なのかな」
「何のことですか?」
首を傾げる私に補佐はくすっと笑う。
「他の男のことは考えるな、って」
補佐は指で私の唇を撫でながら続ける。
「今日は大目に見てあげるよ。でもこれからは、他の誰かのことを考える暇がないくらい、俺は君を大事にするつもりでいるからね」
「え……」
私の頬や耳の辺りが熱を持つ。
ひと晩寝たら実はすべてが夢だった――。そんなことになったりしないわよね?
補佐の甘い言葉と展開に、幸せ過ぎて不安な気持ちになりそうだった。けれど私の目の前にある補佐の眼差しと、私の唇をなぞるように撫でる彼の指先の感に、これが夢でも嘘でもなく、確かに現実のことなのだと私に教えてくれている。
「ええっと、失礼いたします」
少し離れた所から、突然、咳払いと声がした。
私は補佐から慌てて離れた。そうっと声の方を見ると、築山さんが立っていた。
今の、見られたかしら――?
やや不機嫌そうな声で補佐は言う。
「なんだよ」
「だってさぁ、なんだか気になって」
築山さんはにこにこと満面の笑みをたたえて、私と補佐を交互に見た。
「後で、って言っておいただろ。用があったら呼ぶってさ」
自分を邪魔にするような補佐の様子にも動じず、築山さんは笑みを崩さない。
「そうだったんだけどね。みなみちゃん、さすがにおなかが減ったんじゃないかなぁ、と思ったからさ」
築山さんに言われて思い出す。ここに来てからの私はずっと緊張していたこともあって、まだ何も口にしていなかった。食べながら待っていようという気にならなかったのだ。
築山さんは私の前に、料理が乗ったお皿と取り皿やスプーン、フォークを並べた。
「ありがとうございます」
恥ずかしいのを我慢して、私は補佐の後ろから顔を出して礼を言った。
「それから、あの、その節は大変お世話になりました……」
頭を下げようとした私に、築山さんはにこっと笑った。
「どういたしまして。あとでお祝いにデザート出してあげるからね」
「お祝いって……」
赤面する私に目を細め、それから築山さんは補佐にも笑顔を見せた。
「匠、良かったな」
補佐は照れ臭いような顔で親友を見上げた。
「色々心配かけたな。ありがとう」
「おう。邪魔者はもう消えるから、気のすむまで二人でごゆっくり」
そう言ってカウンターの方へ戻ろうとした築山さんだったが、急に足を止めて私を見た。
「みなみちゃん、この前、言い忘れてたことがあったんだ」
「なんでしょう?」
「匠はね、一見ドライに見えるけど、実はなかなかに熱い心の持ち主なんだ」
「はぁ……?」
「だから気をつけてね」
「気をつける、ですか?」
「うん。どろどろに溶かされないように」
「えっ?」
私は目を瞬いた。
「慎也、もうあっちに行けよ」
やや苛立った補佐の声が築山さんを追い払おうとする。
「はいはい、お邪魔しました。用があったら呼んでね」
陽気に言って背中を向けた親友を見送って、補佐は深々とため息をついた。
「あの、今、築山さんが言ったことって……?」
「慎也の戯れ言だよ。気にしないで。ほんとにあいつは賑やかなやつで……ごめんね」
「築山さんは、補佐のことが本当に大好きなんですね」
「その言い方はちょっと語弊があるというか……」
補佐は苦笑を浮かべる。それからしみじみとした口調で言った。
「でも、あいつには色々と心配かけたから。これで少しは安心してくれたかも」
「お互いにお互いを想う気持ちが、ひしひしと伝わってきます」
私はふふっと笑った。
補佐の顔に、複雑にも見える表情が浮かんだ。驚いたような、安心したような、嬉しいような、そこには様々な感情が入り混じって見えた。
「岡野さんが、俺の前で初めて自然に笑ってくれたような気がする」
そう言いながら補佐は私の頬に手を伸ばし、優しく触れた。
「岡野さん。これから、よろしくね」
「はい。よろしくお願いします」
私は補佐の手に自分の手を重ねた。切なく感じるほどの喜びを感じながら、彼の手をきゅっと握る。彼を見つめて頬に笑みを刻んだ。それはたぶん、目の前のこの人を好きになってから今までで初めての、曇りのないまっさらな笑顔だったと思う。
そしてしばらくたったある日のこと。
それはいつもと違う少し遠出のデート。
初めて乗る彼の車という二人だけの空間、私はがちがちに緊張していた。けれど、好きで好きでたまらなかった人と同じ時間を過ごすことの喜びを、ひしひしとかみしめてもいた。
着かず離れず、互いに微妙な距離を保ちながら見て回る水族館。
傍にいるだけで幸せな気持ちになるというのに、甘い声で名前を呼ばれ、私の心は幸福感にますます満たされた。
どきどきして、緊張して、だけど嬉しい。触れたいのに触れられない、触れてほしいのに触れてくれない。そんなもどかしさが、私の心をかき乱していた。
けれど――。
人の波が途切れた時、その瞳に切なげな光を揺らめかせた彼は、私にそっとキスをした。
「好きだよ」
低く囁くその言葉に応えようとする唇を塞がれて、私は再び目を閉じた。心の中で強く思う。
私もあなたが好き。その想いをこれからも、もっとたくさん伝えたい。
大好きです。愛してる――。
(了)