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雨はいつの間にか本降りになっていた。教室へ戻るタイミングを逃したあたしたちは、校舎裏の屋根のある場所へ移動した。
濡れた制服の袖が重くて、寒いはずなのに、胸の奥は熱かった。
さっき、あたしは――まろに刃を向けてしまった。
「……ほんま、ちょっと擦っただけやて。ないこ、そんな顔せんでええのに」
まろは冗談みたいに笑って見せる。
濡れた前髪が頬にはりつき、その向こうの瞳がふっと細められる。
その優しさが、あたしにはつらかった。
「ねぇ……まろ、なんでそんなに笑えるの?」
「なんでって……ないこが泣きそうやからやん。うちが笑うんが一番効くやろ?」
「……それが、つらいの」
声が震えていた。まろの袖を指先でつまむ。
まろは気づいているのだろうか。あたしがどれだけ必死で自分の中の何かを押し殺しているかを。
「まろが優しいとね、あたし、余計に壊れそうになるの。だってさ……」
まろの視線が真剣になる。
「だって、もう……まろ以外見えないんだよ。怖いくらいに」
その言葉に、まろは小さく息を呑んだ。
比喩でもなんでもなかった。あたしの世界は、ほんとうにまろ一人で成り立っている。
「ないこ……」
「まろが他の誰かと笑うのが怖い。まろの心が誰かに向くのが、耐えられない……。考えるだけで、息苦しくなるの」
そのたびに、あたしはあのナイフに触れた。
まろじゃなくてもいい、あたしを傷つけてでも気持ちを確かめたいほどだった。
まろは少し俯き、濡れた自分の手首を撫でた。
「さっき……刃が触れたときな」
「……うん」
「怖くなかったわけやない。正直、痛っ、て思ったし。何してんねんって、一瞬思った」
胸が痛んだ。
「でも、そのあとで……ないこの顔見たら、なんか全部わかってもうたんよ。どれだけうちのこと思ってるか、どれだけ不安か……。その気持ちが、痛いほど伝わってきて……」
まろの声はやさしく揺れていた。
「うち、逃げへんって言ったやろ」
「うん……」
「それはな、怖がってへんから言えるんやない。怖いけど……それでも、ないこと向き合いたいからや」
あたしの胸が熱くなった。
「向き合うって……どうするの?」
「まずは、ないこの気持ちを全部聞くとこからや」
「全部……?」
「そ。ぜーんぶ。汚いとこも、嫉妬も、独占欲も。うちは聞くし、受け止める。だから……もう刃物はいらんやろ?」
まろはそっと、あたしの手を握る。
あたしの指はまだ震えていた。
「……まろ、あたし、ほんとに壊れてるよ。普通じゃないよ」
「普通てなんやろな。うち、ないこの気持ち……全部抱えるつもりでおるよ」
「……そんなこと言ったら、もっと好きになっちゃう」
「ええよ。どれだけ好きになられても」
まろの強い言葉に、胸の奥がぎゅうっと締めつけられた。
あたしは、両手で顔を覆って泣きたくなった。
でも、泣く前にまろがあたしの手首を引いて、胸元へ抱き寄せた。
「あっ……まろ……」
「ここおいで。泣きたかったら泣いてええ」
温かい。
まろの胸に触れた瞬間、あたしの中で張りつめていた何かが溶けた。
「……まろ……好き……ほんとに、好き……」
「うん、知ってるで」
「まろが笑うと苦しい……他の誰かがまろの名前呼ぶだけで心臓痛い……」
「うん」
「このまま独り占めしたい……誰にも渡したくない……」
「……うん、ないこ。それでええ」
涙が止まらなかった。
まろは、泣きじゃくるあたしの背中をゆっくり撫で続けた。
雨の音だけが、二人のまわりに落ちていく。
どれくらい時間が経ったかわからない。
泣き疲れて顔を上げたとき、まろはあたしの頬に手を添えた。
「なぁ、ないこ」
「……なに?」
「うちもな、ちょっとだけやけど……胸が苦しかったんよ。ないこが泣いてる間ずっと」
「まろも……?」
「うち、人に好かれるの慣れてへんし。そんなん急に向けられて、戸惑ってた。でも、ないこのそれ……向けられたとき、なんか……胸が熱くなった」
心臓が跳ねた。
「まろ……」
「これが恋なんか、まだ断言はできへん。でも……ないこと離れたくないのは、本音や」
その一言は、あたしの存在を全部肯定してくれるようだった。
あたしはそっと、まろの傷に触れた。
赤い線が薄く残っている。
「……痛かったよね」
「んー……ちょい、かな。でもそんな気にせんでええ」
「ごめん……でも、まろを傷つけたくなかったわけじゃないの。むしろ……」
喉が震え、言葉が途切れる。
まろは静かに待ってくれていた。
「あたし自身が、怖かったんだよ……まろがいなくなる未来が。それがいちばん怖かった」
まろはあたしの手を握り、指を絡めて、ゆっくりと頷いた。
「うちはここにおる。消えへんよ。ないこが望む限り、ずっと」
泣きそうになった。
馬鹿みたいに、簡単に泣けるほど、まろの言葉はあたしの生きる理由になっていた。
「まろ……抱きしめて」
「もちろんやん」
まろの腕があたしの背に回り、あたしはすべてを預けた。
雨に濡れた体温が重なり、呼吸のリズムが合う。
胸の奥に巣くっていた狂おしいほどの思いは、まだ消えない。
だけど、その狂気すら――まろは受け止めると言ってくれた。
「まろ……あたし、生きてくよ。まろがいるなら、生きていける」
「うちもや。ないこがいるから、前に進める」
しばらく抱きしめ合って、まろがあたしの耳元で小さく笑った。
「……なぁ」
「なに?」
「うちはまだ“答え”を言ったわけちゃうで? でもな……」
まろはあたしの頬にそっと唇を近づけた。
触れるか触れないかの距離。
「こうしたくなるくらいには……好きやと思う」
触れた。
ほんの一瞬、唇があたしの頬を掠めた。
世界が止まった。
「……っ、まろ……!」
体が熱に包まれた瞬間、まろは照れたように目をそらした。
「続きは……ないこがもう刃物握らんって約束してくれたら、考えるわ」
「……約束する」
「ほんま?」
「うん。まろがいるなら……もう必要ない」
まろは笑った。
あたしの胸にあった暗い衝動は完全には消えない。
でも、まろが手を伸ばしてくれた。
その手を握って、生きていきたいと思った。
「これからも、ちゃんと向き合おな」
「うん。どこにも行かないから」
雨音が少しだけ弱まった。
ふたりはまだ、校舎裏の薄暗い影に寄り添っていた。
その影はどこか歪で、危うい。
けれど確かに、あたしたちだけの場所だった。
まろとあたしは、あの雨の日、確かにひとつの未来を選んだのだ。
壊れた心ごと抱きしめ合って、
それでも前に進もうとする――
そんな、ふたりだけの物語を。