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やってんなあ
五月も半ばに差しかかる頃には、舜太はもう完全に、柔太朗の部屋の住人のようになっていた。
歯ブラシはいつの間にか洗面台に二本並び、冷蔵庫の中身は気づけば半分ほど減っている。洗濯物も気づけば混ざっていて、柔太朗が自分の靴下だと思って畳んだものが、舜太のものだったことも一度や二度ではなかった。
「――ねえ、舜の部屋、最近どうなってるの」
ある日、柔太朗がふと尋ねると、さも当たり前のように柔太朗の部屋にいる舜太は悪びれもせず答えた。
「さあ? 鍵かけたまま、もう一週間くらい入ってへんかも」
「それ、大丈夫なの……?」
「平気平気。柔の部屋の方が、居心地ええし」
屈託のない笑顔でそう言われると、柔太朗もそれ以上強くは言えず、結局その日もなんとなく流してしまっていた。
限界が来たのは、それから数日後のことだった。
柔太朗が講義から帰ると、机の上に広げていたはずの布地見本とデザイン画が、無造作にどけられ、その上にジュースの缶が置かれていた。缶の底が濡れていたのか、一番大事にしていたスケッチの端が、じんわりと滲んでいる。
「――これ」
震える声でスケッチを持ち上げる柔太朗に、ベッドでくつろいでいた舜太は、そこでようやく異変に気づいた。
「あ……ごめん、それ避けたつもりやってんけど」
「避けたつもりって……これ、何時間もかけて描いたやつなんだけど」
柔太朗の声から、いつもの余裕が抜け落ちていた。
「ごめん、ほんまに悪気は――」
「悪気がないのが、一番困るんだよ」
抑えていたものが、堰を切ったように溢れ出す。
「歯ブラシも、冷蔵庫も、洗濯物も、全部なし崩しに増えていって、今度は机の上まで好き放題にして……。俺の部屋、いつからか舜の部屋にもなってて、僕にはもう、逃げ場がないんだよ」
「――そんな、逃げ場とか」
「合鍵だって渡した覚えないのに、いつの間にか入り浸って。ちゃんと聞いて。ちゃんと、俺の部屋にいるっていうことを、意識して」
いつも穏やかな柔太朗の、初めて見る本気の剣幕に、舜太は珍しく言葉を失っていた。
そこに、間の悪いことに、課題の相談で訪れていた仁人が、ちょうどドアの前に立っていた。
ノックしようとした手が、途中で止まる。中から聞こえる剣幕に、入るに入れず、仁人はしばらくその場に立ち尽くしていた。
やがて舜太が「――頭冷やしてくる」とだけ言って部屋を飛び出し、廊下で仁人と鉢合わせる。
「……悪い、聞こえてたよな、今の」
「まあ、少しは」
気まずそうに頭をかく舜太に、仁人はそれ以上何も聞かず、ただ肩を軽く叩いて自分の部屋へと戻らせた。
水虹ひにゃ@リムらないでほしい
その夜、仁人の部屋を、今度は柔太朗が訪ねてきた。
「――ごめん、こんな時間に」
「別にいいけど。座れば」
差し出されたお茶を両手で包みながら、柔太朗はしばらく黙り込んでいたが、やがてぽつぽつと話し始めた。
「本当は、そんなに怒るようなことじゃないって、分かってるんだ。歯ブラシが増えたのだって、洗濯物が混ざるのだって……好きな人がそれだけ側にいてくれるってことだから、本当は、嬉しいはずなのに」
柔太朗はそこで一度言葉を切り、独り言のように付け加えた。
「――好きなだけじゃ、ずっとそばにいられない人も、いるのにね」
深い意味があって言ったわけではなさそうだった。ただ、その一言が、なぜか仁人の胸の奥に、小さな棘のように引っかかった。
(――何で、今の一言で)
理由をうまく言葉にできないまま、頭の片隅に、ふと浮かんだのは勇斗のことだった。仁人が何か困っている時、勇斗はいつも、多くを語らずにさりげなく手を貸してくれる。今まで当たり前だと思っていたその優しさが、今この瞬間だけ、やけに胸に迫るものとして感じられた。
「……なのに?」
かろうじて相槌を打ちながら、仁人はその小さな引っかかりに、あえて蓋をした。
「なのに、大事にしてるものまで無造作に扱われると、大事にされてないみたいで、悲しくなる。矛盾してるよね。好きだから苛立つとか、我ながら面倒くさい」
自嘲気味に笑う柔太朗を見ながら、仁人はしばらく、何と返せばいいのか分からずにいた。
「――好きだから、余計に譲れない部分があるのは、別におかしくないだろ」
「……そうかな」
「そう。適当な相手だったら、そもそも苛立ちもしない」
柔太朗は少し驚いたように仁人を見て、それから小さく笑った。
「仁ちゃんって、たまに変に説得力あること言うよね」
「たまには余計だ」
軽口を叩き合いながらも、仁人の中では、さっきの小さな引っかかりがまだ消えずに残っていた。
(――好きだから、余計に譲れない、か)
そんなふうに誰かを強く想ったことが、自分にはあっただろうか。
さっき頭に浮かんだ勇斗の顔を、仁人はもう一度思い返した。理由は今も、うまく言葉にならない。ただ、あの何気ない優しさを、これほどはっきりと意識してしまったのは、今日が初めてだった。
(――何でだよ、別にそういうのじゃないだろ)
その違和感に、あえて名前をつけないまま、仁人はその夜、なかなか寝つけなかった。
翌日、舜太は改めて柔太朗に頭を下げに来た。
「昨日はほんまにごめん。大事なもん、雑に扱ってしまって」
「……もういいよ。僕もちょっと言いすぎた」
「いや、柔は何も悪ないやろ。俺が甘えすぎたから」
素直に非を認める舜太に、柔太朗は毒気を抜かれたように息をついた。
「じゃあ、これからはちゃんとルール作ろう。合鍵は渡さない。週に何日かは、ちゃんと自分の部屋で寝ること。あと、俺の机には絶対に触らない」
「――了解。ちゃんと全部守るし」
「絶対だからね!」
念を押す柔太朗に、舜太は殊勝な顔で頷いてみせた。
――その目には早くも、次にどうやって上手く部屋に居座るかを企むような、いたずらっぽい光が滲んでいたのは見なかったことにするとして。
こうして、二人の初めての本格的な喧嘩は、どうにか丸く収まった。だが、この一件がきっかけで仁人の中に生まれた小さな違和感は、この日はまだ、誰にも――仁人自身にすら、その正体を明かしてはいなかった。
とはいえ、仲直りしたその晩から、さっそくルールは形骸化した。形骸化させられた。
翌朝廊下に響いたノックの音で、その日は始まった。
いつもだったら寝坊なんてしない柔太朗が、降りてこないのを心配した仁人が、部屋を見に行こうと年長者二人を誘った。
「――柔太朗、起きてる? 今日一限あるけど行けそうー?」
仁人が呼びかけながらドアを開けると、鍵が開いていた。あれ?という小さな違和感は、その後すぐに目に飛び込んできた光景でかき消された。
―――そこには寝ぐせだらけの柔太朗と、その後ろでのそりと体を起こす、上半身裸の舜太の姿があった。首筋から肩にかけて、うっすらと引っかき傷が残っている。
「……あー、なるほどね」
すべてを察したように、太智が半笑いで固まる。後から覗き込んだ勇斗も、同じく察した顔で、けれど今度はにやりと届くかどうかわからないぐらいのボリュームで呟く。
「舜太、手が早いな」
からかうような口調に、ちゃんと聞こえていたのか、舜太は悪びれる様子もなく、寝起きのまま欠伸交じりに答えた。
「そうかな? 思ってることを行動しただけやけど」
あまりにあっけらかんとした返しに、勇斗は思わず「ここまでくると潔いな、逆に」と笑ってしまう。
「き、決めたばかりのルール、もう台無しじゃない……!」
寝起きでぼーっとしていたがやっと状況を把握したときにはすでに遅く。真っ赤になって慌てた柔太朗は所在なさげに布団にくるまる他無い。舜太はどこ吹く風で服を探し始めた。
「柔、俺のシャツどこ行った?」
「知らないよ、そんなの!」
全ての鬱憤をぶつけるように、振りかぶった手は、きれいに半裸の彼の頬に跡をつけて………ぱちんっと聞こえた音に3人は顔をしかめた。全ては半裸の野郎の自業自得で同情の余地はないが。
少し離れた廊下で見ていた仁人が、やれやれと肩をすくめる。
「――朝から騒がしいな、うちのフロアは」
「あーー、別に知りたくなかった青春って感じ?」
太智に混ぜっ返され、仁人は何も言わずにふいと視線を逸らしただけだった。
結局のところ、喧嘩をしても、仲直りをしても、この二人がバカップルであることだけは、何一つ変わらないらしかった。