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第九話 待てない願いと、桃色の秒針
朝の遠坂邸には、焼き魚の匂いが満ちていた。
それは平和な匂いだった。
炊きたての白米。
湯気を立てる味噌汁。
丁寧に巻かれた卵焼き。
小鉢に盛られた青菜のおひたし。
そして、士郎が焼いた鮭。
昨日、返事の庭で黒い花と向き合ったことが嘘のように、食卓は穏やかだった。
だが、遠坂衛二の胸の奥には、まだあの黒い丘が残っている。
返事はいらない。
そう言った黒い花。
そして、その根元に生まれた白い蕾。
待つための沈黙。
言葉を押し付けないこと。
隣にいるための沈黙。
そこまでは見つけた。
しかし沈黙冠は、すぐに次の問いを投げてきた。
――待つことを拒む願いには、どう答える。
衛二は箸を止めた。
考え込むなと言われている。
分かっている。
だが、考えずにはいられなかった。
「衛二」
凛の声が飛ぶ。
衛二ははっとして顔を上げる。
「はい」
「今、考え込んでたわね」
「……少し」
「少し?」
凛の眉が上がる。
隣でアストルフォが、衛二の袖をつんつん引いた。
「エイジ、約束」
「分かってる」
「ほんと?」
「一人で抱えない」
「うん」
「怖い時は怖いって言う」
「うん」
「考えすぎたら、アストルフォに言う」
「うん!」
アストルフォは満足そうに笑った。
それから、衛二の皿に卵焼きを一切れ乗せる。
「だから今、卵焼き食べよう」
「どういう繋がりだ」
「考えすぎ防止」
「卵焼きにそんな効果が?」
「シロウの卵焼きにはある!」
士郎が味噌汁を置きながら苦笑した。
「そう言ってもらえると嬉しいな」
「士郎のご飯はすごいよ! 食べると元気になる!」
「アストルフォは本当に美味しそうに食べるな」
「美味しいもん!」
アストルフォは満面の笑みで卵焼きを頬張った。
その表情だけで、食卓の空気が少し柔らかくなる。
凛はため息をついた。
「まあ、アストルフォの言う通りよ。衛二、今日は学校へ行ってもいいけど、昨日と同じく魔術は禁止」
「まだ?」
「当たり前でしょ。昨日は魔術を使わなかったけど、返事の庭で未答花に触れてる。精神的な負荷は小さくないわ」
「分かってる」
「投影も禁止」
「分かってる」
「無窮剣界は論外」
「それは分かってる」
凛はじっと衛二を見た。
「あと、何か異常を感じたら、すぐアストルフォに言うこと。自分だけで判断しない」
「分かった」
「アストルフォ」
「はい!」
「衛二が“少しだけ確認する”とか“見るだけ”とか言い出したら止めなさい」
「了解!」
「特に“見るだけ”は信用しないで」
「うん!」
「母さん、俺を何だと思ってるんだ」
「過去の実績に基づいた判断よ」
何も言い返せない。
衛二は静かに味噌汁を飲んだ。
ユイは湯呑みを両手で包みながら、静かに口を開いた。
「昨日の未答花の反応は、大きな一歩だったわ」
「一歩、ですか」
「ええ。返事を拒む願いに対して、無理に言葉を返さず、隣にいるための沈黙を置いた。それは、返事の庭が今まで持っていなかった答えの形だった」
ミライが少し俯く。
「私たちは、言葉を探しすぎていた」
「ミライ」
「返事の庭だから、返事をしなければならないと思っていた。返事を拒む願いにも、何か言葉を与えなければならないと」
彼女の声は静かだった。
だが、昨日までより少し人間らしい熱があった。
「でも、言葉が傷になることもある」
衛二は頷いた。
「だから沈黙を返す」
「ええ」
ユイは頷く。
「ただ、沈黙冠はそれで終わらない。次の問いが来たのでしょう?」
衛二は箸を置いた。
「はい」
食卓の空気が少し引き締まる。
アストルフォがそっと衛二の手に触れた。
衛二はその温もりを受け取りながら言った。
「待つことを拒む願いには、どう答えるのか」
誰もすぐには答えなかった。
待つことを拒む願い。
それは、返事を拒む願いとは少し違う。
返事はいらない。
叶わないならいらない。
それが黒い花なら。
待てない。
今すぐでなければ意味がない。
それは別の痛みだ。
士郎が静かに言った。
「待てない願い、か」
凛は腕を組む。
「厄介ね。願いっていうのは、多かれ少なかれ“今”を変えたいものだもの」
ユイは頷いた。
「返事の庭にも、そういう願いは多かった。時間が経てば救われる、なんて簡単に言えない願い。今この瞬間でなければ意味がない願い」
ミライが小さく呟く。
「待つことは、時に残酷」
衛二は沈黙した。
待つこと。
昨日、自分たちはそれを答えの一つとして見つけた。
でも、待つことで壊れてしまう願いもある。
誰かが帰ってくるのを待ち続けた少女。
その人は結局帰ってこなかった。
それでも待てと言えるのか。
衛二の胸が重くなる。
「エイジ」
アストルフォの声。
「今、一人で沈みかけた」
「……悪い」
「悪くないよ。でも、戻ってきて」
「ああ」
「今ここにいるのは?」
「遠坂衛二」
「ボクの?」
「マスター」
「うん」
アストルフォはにこっと笑った。
「朝ごはん中のエイジ」
「そこも入るのか」
「大事。朝ごはん中に沈黙冠と戦わない」
士郎が笑った。
「それは確かに大事だ」
凛も少しだけ口元を緩める。
「沈黙冠より先に朝食を倒しなさい」
「倒すものなのか?」
「食べなさいって意味よ」
衛二は少し笑った。
アストルフォが嬉しそうに頷く。
「ほら、笑った。えらい」
「笑うだけで褒めるのは甘すぎる」
「今日はまだ回復日だから甘いの!」
「昨日も言ってた」
「今日も!」
食卓に、小さな笑いが戻った。
それは沈黙冠への答えではない。
でも、衛二を人間へ戻すには十分だった。
◇
穂群原学園の時計は、いつも通り八時二十五分を指していた。
校門前には生徒たちの声が溢れている。
受験の話。
部活の話。
テレビ番組の話。
昨日の小テストの愚痴。
日常は、昨日の返事の庭など知らない顔で続いている。
衛二はその中を歩きながら、少しだけ安心していた。
日常が続いている。
それは当たり前ではない。
昨日、未答区域の黒い蔓が庭を侵食していれば、柳洞寺の霊脈だけでなく冬木全体に影響が出たかもしれない。
黒い花はまだ咲いている。
沈黙冠もそこにある。
それでも、今朝の冬木は普通に動いている。
その普通を、衛二は少しだけ愛おしいと思った。
『エイジ』
霊体化したアストルフォの声が、すぐ隣から響く。
『今の顔、ちょっといいね』
「どんな顔だ」
『朝の学校っていいな、って顔』
「……そう見えたか?」
『うん。あと、ちょっと眠そう』
「それは事実」
『夜ちゃんと寝た?』
「寝たよ」
『夢は?』
「見なかった」
『ほんと?』
「ほんと」
『じゃあ、えらい』
「夢を見ないことまで褒めるのか」
『だって沈黙冠が来なかったんでしょ? よかったねって思ったから』
衛二は小さく笑った。
その時、背後から声がした。
「遠坂」
柳洞悠馬だった。
いつもより少し早足で近づいてくる。
「おはよう、柳洞」
「ああ。おはよう」
柳洞は衛二の顔を見て、少しだけ目を細めた。
「昨日よりは顔色がいいな」
「昨日は悪かったか?」
「かなり」
「正直だな」
「嘘をついても仕方ない」
柳洞は校舎の時計を見上げた。
八時二十六分。
「鐘は、昨夜は鳴らなかった」
「そうか」
「ああ。父も少し安心していた。だが……」
柳洞は言葉を切った。
「何かあったのか?」
「今朝、寺の時計が全部止まっていた」
衛二の胸がわずかに冷える。
「全部?」
「ああ。柱時計も、目覚まし時計も、父の腕時計も。寺にある時計が、すべて同じ時刻で止まっていた」
「何時?」
「三時七分」
衛二は息を呑んだ。
特別な時刻かどうかは分からない。
だが、すべて同じ時刻で止まる。
待つことを拒む願い。
時間。
繋がった。
アストルフォの声が硬くなる。
『エイジ、考えすぎないで』
「分かってる」
また小声で返してしまった。
柳洞が怪訝そうに見る。
「遠坂、やっぱり誰かと話しているな」
「……独り言が増えた」
「受験ストレスか?」
「そういうことにしておいてくれ」
「無理がある」
柳洞はため息をついた。
「まあいい。父から伝言だ。昨日の御守りは、まだ持っているか?」
「ああ」
衛二は鞄の内ポケットに入れてある御守りへ意識を向けた。
魔術を使ったわけではない。
ただ、そこにある温度を思い出しただけだ。
「ならよかった。父が言うには、それは“待つ者の御守り”らしい」
「待つ者の?」
「柳洞寺に昔からある祈りだそうだ。待つしかできない者が、それでも誰かの無事を願ったもの」
衛二は黙った。
待つしかできない者。
それは昨日、衛二が経験したことでもある。
黒い蔓がアストルフォへ迫った時。
白い芽が狙われた時。
衛二は魔術を使えなかった。
ただ待ち、信じ、祈るしかなかった。
その時、御守りは確かに衛二を守った。
「柳洞。ありがとう」
「礼なら父に言ってくれ」
「ああ」
「それと」
柳洞は少し言いづらそうにした。
「今朝から、一部の生徒が変だ」
「変?」
「妙に時計を気にしている。時間がない、間に合わない、と何度も言っている生徒がいる」
衛二の表情が固まった。
「誰だ?」
「一人は三年の宮原詩乃。隣のクラスだ」
宮原詩乃。
衛二も名前は知っている。
同じ三年で、進路指導室によく呼ばれている女生徒。
成績は優秀だが、かなり無理をしていると噂されていた。
柳洞は続ける。
「今朝、昇降口で見かけた。ずっと腕時計を見て、まだ間に合う、まだ間に合うと呟いていた」
衛二の背筋が冷えた。
待てない願い。
時間がない。
間に合わない。
すべてが、嫌な形で噛み合っていく。
『エイジ』
アストルフォが強く呼ぶ。
『約束』
「……分かってる」
衛二は深く息を吸った。
魔術は使わない。
自分だけで動かない。
まず相談。
「柳洞。その宮原って、今どこにいる?」
「たぶん教室だ。ただ、遠坂」
「何だ?」
「また危ないことか?」
柳洞の声は静かだった。
だが、その奥に本気の心配がある。
衛二は少しだけ迷った。
魔術のことは話せない。
返事の庭も、沈黙冠も、普通の人間に聞かせるには危険すぎる。
だが、何も言わないのも違う気がした。
「危ないかもしれない」
衛二は最低限だけ答えた。
「でも、俺一人では動かない。家にも連絡する。アスト……いや、頼れる人もいる」
柳洞はじっと衛二を見た。
「ならいい」
「いいのか?」
「よくはない。だが、お前が一人で突っ走らないなら、それで少しは安心できる」
衛二は小さく笑った。
「俺、そんなに突っ走るように見える?」
「見える」
即答だった。
アストルフォが横で大きく頷いている。
『見える!』
「二人して……」
「二人?」
「いや、何でもない」
柳洞はまた怪訝そうにしたが、予鈴が鳴ったため、それ以上は追及しなかった。
◇
一時間目。
教室の時計は、八時五十分を指していた。
授業が始まる。
教師が黒板に文字を書き、生徒たちがノートを取る。
いつもの風景。
だが衛二の意識は、教室の時計に吸い寄せられていた。
秒針が動いている。
一秒。
二秒。
三秒。
普通に進んでいる。
少なくとも、この教室では。
アストルフォは霊体のまま、衛二の机の横に座っていた。
いつものように話しかけてくることはない。
ただ、衛二の手元を見守っている。
魔術を使わないか。
無理に感知しようとしないか。
完全に監視役だ。
衛二はノートの端に小さく書いた。
『見張りすぎ』
アストルフォはそれを見て、空中に指で文字を書く真似をした。
『大事』
その隣に、にこっと笑う顔を描いた。
衛二は笑いそうになり、慌てて口元を押さえた。
その時。
教室の時計の音が消えた。
カチ、カチ、と鳴っていた秒針の音が。
ふっと。
消えた。
「……」
衛二は顔を上げる。
時計を見る。
秒針は動いている。
だが音がない。
いや、違う。
教室全体の音が、少し遠い。
教師の声。
チョークの音。
ノートをめくる音。
すべてが薄く、遠く、遅れて聞こえる。
『エイジ』
アストルフォの声ははっきり聞こえる。
『何か来てる』
「分かってる」
小声で答える。
だが魔術は使わない。
衛二は感覚だけで周囲を見る。
教室の空気が、ほんのわずかに歪んでいる。
それは魔力というより、焦りに近い。
時間がない。
間に合わない。
急がなきゃ。
待てない。
そんな感情が、教室の隅から染み出している。
衛二は隣のクラスの方を見た。
壁一枚向こう。
そこから、黒い秒針のような気配が伸びている。
『隣のクラス』
アストルフォが言う。
衛二は頷いた。
しかし、授業中に飛び出すわけにはいかない。
しかも魔術は禁止。
凛に連絡するにも、今は授業中だ。
どうする。
考えた瞬間、アストルフォが小さく言った。
『エイジ、まだ動かない』
「でも」
『ボクが見る』
「アストルフォ?」
『霊体のままなら隣を確認できる。エイジはここにいて』
衛二は一瞬迷った。
アストルフォを行かせる。
自分は待つ。
昨日と同じだ。
剣を抜かず、信じて待つ。
衛二は奥歯を噛みしめた。
「……頼む」
アストルフォは嬉しそうに笑った。
『うん。任せて、マスター』
その呼び方が、妙に胸に響いた。
アストルフォの気配が教室から消える。
霊体化したまま、隣のクラスへ向かったのだ。
衛二はノートに目を落とす。
文字が滲む。
何もできない。
いや、違う。
待つことができる。
信じることができる。
衛二は柳洞寺の御守りを制服の内側からそっと握った。
温かい。
待つ者の御守り。
待つしかできない者が、それでも誰かの無事を願ったもの。
衛二は小さく息を整えた。
アストルフォを信じる。
すると、契約を通じて彼の声が戻ってきた。
『エイジ』
「どうだ?」
『隣のクラスに女の子がいる。たぶん宮原さん。机の上に腕時計を置いて、ずっと見てる』
「状態は?」
『泣いてない。でも、息が浅い。机の下に黒い秒針みたいなのがある』
衛二は眉を寄せる。
黒い秒針。
沈黙冠の新しい影か。
『その秒針、宮原さんの影から伸びてる。でも、攻撃してる感じじゃない。焦りを吸ってるみたい』
「待てない願い……」
『うん』
「アストルフォ、無理に触るな」
『分かってる。ボクも今は見るだけ』
見守る声が、少しだけ誇らしそうだった。
『エイジが約束守ってるから、ボクも守る』
衛二は小さく笑った。
「ありがとう」
『えへへ』
しかし次の瞬間、アストルフォの声が緊張した。
『待って。秒針が動いた』
「何?」
『宮原さんの机の時計、針が進んでる。速い。すごく速い』
衛二は立ち上がりそうになった。
だが堪える。
「宮原本人は?」
『苦しそう。口で何か言ってる』
「何て?」
『間に合わない。もう待てない。今日じゃなきゃだめって』
衛二の胸が締めつけられる。
その時、授業終了のチャイムが鳴った。
いや、鳴ったはずだった。
音は途中で途切れた。
ごく短い沈黙。
そして次の瞬間、隣の教室から椅子が倒れる音が響いた。
衛二は立ち上がった。
今度は迷わなかった。
「先生、すみません。隣で何かありました」
教師も異変に気づいたのか、すぐに廊下へ向かった。
衛二もそれに続く。
魔術ではない。
ただの生徒として、隣のクラスの異変を見に行く。
廊下へ出ると、隣の教室の入口に生徒が集まり始めていた。
ざわめき。
その奥で、宮原詩乃が床に座り込んでいた。
顔は青白い。
手には腕時計を握りしめている。
その時計の針が、異常な速度で回っていた。
普通の人間には見えないだろう。
だが衛二には見えた。
時計から、黒い秒針の影が伸びている。
それは宮原の胸元に刺さり、彼女の焦りを吸い上げていた。
「間に合わない……」
宮原が呟く。
「今日じゃなきゃ……今日、行かなきゃ……もう、待てない……」
教師が駆け寄る。
「宮原、大丈夫か?」
宮原は答えない。
ただ、時計を握りしめ続けている。
衛二は息を呑む。
どうする。
魔術は使えない。
ここには一般生徒も多い。
下手に動けば、騒ぎになる。
アストルフォは霊体で衛二の隣へ戻ってきた。
『エイジ、秒針が強くなってる』
「分かってる」
『でも、ここで戦えない』
「ああ」
黒い秒針は、宮原の焦りを核にしている。
無理に切れば、彼女の心を傷つける可能性がある。
返事を拒む願い。
待つことを拒む願い。
力では駄目だ。
衛二は深く息を吸った。
そして、宮原の前にしゃがんだ。
「宮原」
彼女がゆっくり顔を上げる。
目の焦点が合っていない。
「遠坂……くん?」
「ああ」
「時間が……ないの」
「うん」
「今日じゃなきゃ、だめなの。今日、行かなきゃ。今日言わなきゃ。明日じゃ遅いの」
衛二は何も言わない。
何を言うべきか分からない。
大丈夫とは言えない。
落ち着いてとも言えない。
待とうとも言えない。
彼女は待てないのだ。
待つことが痛みなのだ。
アストルフォの声が聞こえる。
『エイジ、焦らないで』
衛二は小さく頷いた。
「宮原。今、どこに行きたい?」
その問いに、宮原の目が揺れた。
「病院」
「誰かがいるのか?」
「弟」
教室が静かになる。
教師も、周りの生徒も、何かを感じ取ったのか口を閉じた。
宮原は時計を握りしめたまま言う。
「今日、手術なの。ずっと、怖いって言ってた。でも私、昨日行けなかった。模試があって、親にも勉強しろって言われて、明日行けばいいって思って……でも今朝、病院から連絡が来て、予定が早まったって」
「……」
「間に合わないの。もう出ないと、手術前に会えない。でも授業が、学校が、受験が、全部、全部……」
言葉が崩れる。
涙が落ちる。
「待てない。もう待てないの。今じゃなきゃだめなの」
黒い秒針が激しく回る。
宮原の影が濃くなる。
衛二の胸が痛む。
これは、特別な魔術師の願いではない。
神杯戦争の残響に選ばれた大きな願いでもない。
ただの高校生の、切実な願いだ。
弟に会いたい。
怖がっている弟に、手術前に一言声をかけたい。
その願いが、沈黙冠に触れられている。
待てない願いとして。
衛二は静かに言った。
「先生」
教師が顔を上げる。
「宮原を早退させてください」
「遠坂?」
「事情があるなら、学校にいる場合じゃないと思います」
教師は一瞬迷った。
だが宮原の様子を見て、すぐに頷く。
「分かった。宮原、保健室へ行こう。家にも連絡する」
「だめ……保健室じゃ、間に合わない……」
宮原が震える。
黒い秒針がさらに速くなる。
その時、柳洞が廊下の人垣をかき分けて入ってきた。
「遠坂」
「柳洞」
「話は少し聞こえた。職員室へ伝えてくる。タクシーも呼ぶ」
「頼む」
柳洞は迷わず走った。
衛二は宮原に向き直る。
「宮原。今、タクシーを呼ぶ。先生も連絡してくれる」
「でも、時間が」
「うん」
待てとは言わない。
大丈夫とも言わない。
衛二は御守りを握る。
「今、動いてる」
宮原が目を瞬く。
「え?」
「君が待たなくていいように、今、動いてる」
それは返事ではなかった。
慰めでもない。
待てない願いに対して、待てと言わない。
代わりに、今できることを一つずつ動かす。
衛二は続けた。
「俺もここにいる。先生もいる。柳洞も走ってる。今、間に合わせるために動いてる」
宮原の呼吸が、ほんの少しだけ整う。
「でも……」
「間に合うって断言はできない」
周囲が静かになる。
衛二は嘘をつかなかった。
「でも、今ここで一人で時間に潰されるより、みんなで間に合わせに行く方がいい」
宮原の目から涙が落ちる。
黒い秒針の回転が、わずかに鈍った。
アストルフォが小さく息を呑む。
『エイジ、効いてる』
衛二は宮原の前で、ただ視線を合わせた。
「宮原。立てるか?」
宮原は震える足で立とうとする。
だが力が入らない。
教師が支えようとした瞬間、衛二の身体が先に動いた。
しかし抱え上げる前に、アストルフォの声が飛ぶ。
『エイジ、身体も無理しない!』
「……分かってる」
衛二は教師に言った。
「先生、支えてください。俺も肩を貸します」
「ああ」
教師と衛二で宮原を支える。
魔術は使っていない。
ただ、人として支える。
その時、宮原の握っていた時計から、黒い秒針が抜けかけた。
しかし完全には消えない。
秒針は空中で震え、今度は衛二の方へ向かおうとした。
アストルフォが即座に実体化しかける。
『エイジ!』
「待て」
衛二は小さく言った。
魔術は使わない。
斬らない。
衛二は御守りを時計へ近づけた。
祈りの温度が、黒い秒針に触れる。
秒針は一瞬、止まった。
その隙に、アストルフォが霊体のまま衛二と宮原の間に立つ。
見えない盾。
黒い秒針は、アストルフォの存在に触れ、わずかに揺らいだ。
アストルフォは小さく言う。
『待てないなら、走ろう』
その声は宮原には聞こえない。
でも、願いには届いたのかもしれない。
『でも、一人で走らなくていいよ』
黒い秒針が、少しずつ薄くなる。
完全には消えない。
だが、宮原の胸に刺さっていた影は抜けた。
彼女の時計の針が、普通の速度へ戻る。
衛二は息を吐いた。
魔術は使わなかった。
無窮剣界も開かなかった。
だが、確かに一つ、沈黙冠の影を押し返した。
◇
宮原は教師に付き添われ、早退することになった。
柳洞が職員室から戻り、タクシーの手配も済ませていた。
学校側も事情を把握し、担任が病院への連絡を取っている。
廊下の騒ぎは少しずつ収まっていった。
宮原は玄関へ向かう途中、衛二を振り返った。
「遠坂くん」
「何?」
「ありがとう」
その声はまだ震えていた。
でも、さっきのように時間に押し潰されてはいなかった。
「間に合うか、分からないけど」
「うん」
「でも、行ってくる」
「ああ」
衛二は頷いた。
「行ってこい」
宮原は小さく頷き、教師と共に校舎を出た。
その背中を見送った後、衛二は壁にもたれかかった。
思った以上に疲れていた。
魔術を使っていないのに。
心だけが、ひどく消耗している。
アストルフォが実体化できる場所を探し、人気のない廊下の角で姿を現した。
「エイジ」
「大丈夫」
「今の大丈夫は半分くらい?」
「三割くらい」
「低い!」
アストルフォは慌てて衛二の前に立つ。
「座ろう。保健室行く?」
「そこまでじゃない」
「でも顔色悪い」
「魔術は使ってない」
「魔術使わなくても疲れる時は疲れるの!」
アストルフォは衛二の手を握った。
「エイジ、今日も頑張ったね」
「頑張ったのは柳洞と先生と宮原だよ」
「エイジも頑張った」
「俺は何も」
「したよ」
アストルフォは真剣に言った。
「待てない願いに、待てって言わなかった。大丈夫って嘘も言わなかった。今動いてるって言った」
衛二は黙った。
それは自分でも、なぜ出た言葉か分からなかった。
でも、あの瞬間、待てない願いに必要なのは「待つこと」ではなかった。
今、誰かが一緒に動いているという実感。
時間に追い詰められている人間に、止まれと言うのではなく、隣で走り出すこと。
「……あれでよかったのかな」
「よかったよ」
アストルフォは即答した。
「宮原さん、ちゃんと自分で行こうって言えた」
「間に合うかは分からない」
「うん」
「それが怖い」
「うん」
「でも、行けた」
「うん」
アストルフォは衛二の手を両手で包む。
「待てない願いには、一緒に今を動かす。そういう返事もあるんだね」
「返事なのかな」
「たぶん、返事になる前の行動」
その言葉に、衛二は顔を上げた。
「返事になる前の行動……」
「うん。言葉より先に、動く。シロウみたい」
「父さんみたい?」
「ちょっとね」
アストルフォはにこっと笑う。
「でも、エイジらしくもあったよ」
「どこが?」
「ちゃんと嘘をつかなかったところ。間に合うって簡単に言わなかった。でも、一人にしなかった」
衛二は目を伏せた。
胸の奥に、ゆっくりと光が灯る。
沈黙冠の問いへの完全な答えではない。
でも、また一つ、道が見えた。
返事を拒む願いには、隣にいるための沈黙。
待つことを拒む願いには、今を一緒に動かすこと。
言葉よりも先に、動き出す返事。
衛二はアストルフォの手を握り返した。
「アストルフォ」
「なあに?」
「ありがとう。隣にいてくれて」
「うん」
「あと、止めてくれて」
「うん」
「信じてくれて」
アストルフォの頬が少し赤くなる。
「エイジ、そういうの、廊下で言う?」
「今言わないと忘れそうだったから」
「ずるい」
「最近、それ言われると少し嬉しくなってきた」
「だめ! もっとずるくなる!」
アストルフォは頬を膨らませた。
その表情が可愛くて、衛二は笑った。
「笑った!」
「何だよ」
「エイジが笑ったから、ボクの勝ち」
「何の勝負だ」
「エイジを元気にする勝負」
「なら、アストルフォの勝ちだな」
アストルフォは一瞬固まり、それから嬉しそうに笑った。
「やった」
◇
昼休み。
衛二は校舎裏の人気のない場所で、凛へ連絡を入れた。
今日起きたことを簡潔に説明する。
宮原詩乃。
止まった時計。
黒い秒針。
待てない願い。
そして、魔術を使わず対処したこと。
凛は電話の向こうでしばらく黙っていた。
『まず確認するわ』
「うん」
『魔術は?』
「使ってない」
『投影は?』
「してない」
『無窮剣界は?』
「開いてない」
『アストルフォ』
凛の声が少し強くなる。
隣にいたアストルフォがぴしっと背筋を伸ばした。
「はい!」
『本当?』
「本当! エイジ、ちゃんと約束守ったよ!」
『そう』
電話の向こうで、凛が少しだけ息を吐いた。
『よくやったわ、衛二』
衛二は一瞬、言葉を失った。
「……うん」
『ただし、黒い秒針の残滓が残っている可能性がある。放課後、宮原さんの状況を確認するわ。あなたは学校が終わったらまっすぐ帰宅』
「分かった」
『あと、今日の件は重要よ。待てない願いへの接触例として、ユイとミライにも共有する』
「うん」
『衛二』
「何?」
『魔術を使わずに対処した。それは、本当に大事なことよ』
凛の声は静かだった。
『あなたは剣で解決しなかった。固有結界にも頼らなかった。人として、その場でできることをした』
「……そうかな」
『そうよ。少なくとも、私はそう評価する』
衛二の胸が温かくなる。
「ありがとう」
『調子に乗らない』
「乗ってない」
『でも、今日は少しだけ胸を張っていいわ』
通話が切れた。
衛二はスマホをしまう。
アストルフォが隣で、目を輝かせていた。
「リンに褒められた!」
「そうだな」
「エイジ、すごい!」
「アストルフォにも何回も褒められてる」
「まだ足りない」
「足りないのか」
「うん。今日のエイジは、いっぱい褒める必要があります」
アストルフォは真剣な顔で言った。
「帰ったら、ぎゅーしながら褒めます」
「また予約か」
「今日も予約いっぱい!」
衛二は笑った。
その笑いは、朝よりずっと自然だった。
◇
放課後。
宮原から学校へ連絡が入った。
弟の手術前に、間に合ったらしい。
ほんの数分だけだった。
けれど、会えた。
手を握って、行ってらっしゃいと言えた。
その報告を聞いた時、衛二は廊下でしばらく動けなかった。
間に合った。
その事実が、胸の奥でゆっくり広がっていく。
全部が救われたわけではない。
手術の結果はまだ分からない。
宮原の不安が消えたわけでもない。
でも、彼女は会えた。
待てない願いは、少なくとも一つ、今へ届いた。
アストルフォが隣で嬉しそうに笑う。
「よかったね」
「ああ」
「エイジ」
「何?」
「泣きそう?」
「……少し」
「じゃあ、隠さなくていいよ」
「学校だぞ」
「じゃあ、ちょっとだけ」
アストルフォは霊体化したまま、衛二の手に触れた。
他の誰にも見えない。
けれど衛二には分かる。
優しく、包むような気配。
「よかったね、エイジ」
「ああ」
「宮原さん、行けてよかったね」
「ああ」
「エイジが一緒に動いたからだよ」
「みんなで、だ」
「うん。みんなで」
衛二は廊下の窓から空を見た。
夕陽が校舎を赤く染めている。
時計の針は、普通に進んでいた。
カチ、カチ、と音を立てて。
その音が、今は少しだけ優しく聞こえた。
◇
遠坂邸へ帰ると、リビングにはすでに凛、士郎、ユイ、ミライが集まっていた。
テーブルの上には、宮原の件に関する簡易報告書と、柳洞寺の御守りに似た護符がいくつか置かれている。
凛は衛二を見るなり、まず魔術回路を確認した。
「異常なし。本当に魔術は使ってないわね」
「疑ってたのか?」
「確認よ」
アストルフォが横から言う。
「エイジ、ちゃんと我慢したよ!」
「聞いてるわ」
凛は少しだけ表情を緩めた。
「よくやったわ」
その一言に、衛二はまた少し照れた。
士郎が温かい茶を出す。
「お疲れ、衛二」
「ありがとう」
「今日の話は凛から聞いた。剣を抜かないで人を助けたんだな」
「助けたってほどじゃない」
「十分だ」
士郎は穏やかに言う。
「誰かが動けない時に、隣で動く。それは簡単なことじゃない」
ユイは報告書を見ながら言った。
「黒い秒針は、沈黙冠の新しい枝のようなものね。未答区域から直接伸びているというより、待てない願いに反応して現れる影」
「つまり、宮原さん自身が悪いわけじゃない」
「もちろん。彼女の焦りや不安に、沈黙冠の問いが触れただけ」
ミライが静かに続ける。
「待てない願いは、時間を敵にする。時間そのものが自分を追い詰めるものになる。黒い秒針は、その象徴」
「どう答えるべきか、少し分かった気がする」
衛二が言う。
全員の視線が向く。
「待てない願いに、待てとは言えない。大丈夫とも簡単に言えない。だから、今できることを一緒に動かす」
ユイが目を細める。
「行動する返事」
「はい。返事になる前の行動、ってアストルフォが言ってくれました」
アストルフォが少し照れたように笑う。
「思ったこと言っただけだよ」
「それが大事だった」
衛二は続ける。
「返事を拒む願いには、隣にいるための沈黙。待つことを拒む願いには、今を一緒に動かすこと。まだ答えじゃないかもしれないけど……少なくとも、沈黙冠に奪わせないための方法にはなると思う」
ミライが静かに呟く。
「私たちは、叶えるか、返すかの二つしか見ていなかった」
ユイが頷く。
「でも、その前にできることがあった。黙って隣にいること。共に動くこと」
凛が腕を組む。
「魔術師らしくない答えね」
「駄目ですか?」
「いいえ」
凛は微笑んだ。
「あんたらしいわ」
その言葉に、衛二は胸が熱くなった。
アストルフォが隣で小さく拍手する。
「エイジ、あんたらしいって!」
「聞こえてる」
「嬉しい?」
「……嬉しい」
「素直!」
アストルフォは満足そうに笑った。
凛が少し呆れた顔をする。
「アストルフォ、あとで存分に褒めてあげなさい。今は話し合い中」
「はーい!」
話し合いはしばらく続いた。
黒い秒針の性質。
柳洞寺の御守りの効果。
返事の庭の白い蕾との関係。
宮原の願いが沈黙冠に触れた理由。
結論は、まだ出ない。
だが、沈黙冠の問いは少しずつ具体的になっている。
返事を拒む願い。
待つことを拒む願い。
次にどんな問いが来るのかは分からない。
けれど衛二は、昨日より少しだけ怖くなかった。
隣にアストルフォがいる。
それだけではない。
自分は、戦わずにできることもあると知ったから。
◇
夜。
衛二の自室。
話し合いが終わり、夕食も済み、凛の回路チェックも終わった。
今日も魔術使用は禁止継続。
ただし凛は、最後にこう言った。
『明日からは、軽い制御訓練くらいなら再開してもいいわ。ただし、無窮剣界はまだ駄目』
少しだけ前進だ。
衛二はベッドの端に座り、柳洞寺の御守りを手に取っていた。
待つ者の御守り。
待つしかできない者が、それでも誰かの無事を願ったもの。
今日、それは黒い秒針を止める助けになった。
魔術ではない。
祈り。
衛二はその温度を感じる。
隣にはアストルフォが座っている。
今日の彼は、明らかに何かを待っていた。
「アストルフォ」
「なあに?」
「何か言いたそうだな」
「うん」
「何?」
「エイジ、今日は本当にすごかった」
「また褒めるのか」
「うん。予約してたから」
「予約制、まだ生きてたのか」
「もちろん」
アストルフォは衛二の前に回り込み、両手を広げた。
「まず、ぎゅー」
「順番があるのか」
「あります」
衛二は少し笑い、アストルフォを抱きしめた。
アストルフォもぎゅっと抱き返してくる。
温かい。
昨日の返事の庭の冷たい沈黙も、今日の黒い秒針の焦りも、この温度の中では少し遠くなる。
「エイジ」
「うん」
「魔術使わなかった。えらい」
「うん」
「一人で動かなかった。えらい」
「うん」
「宮原さんに嘘を言わなかった。すごくえらい」
「……うん」
「ボクを信じて、待ってくれた」
アストルフォの声が少し柔らかくなる。
「それが、一番嬉しかった」
衛二はアストルフォの背中に回した腕に少し力を込めた。
「俺も、アストルフォが見に行ってくれて助かった」
「ほんと?」
「ああ。俺一人だったら、たぶん焦ってた」
「じゃあ、ボク役に立った?」
「めちゃくちゃ」
アストルフォは嬉しそうに笑った。
「やった」
「あと」
衛二は少し迷った。
けれど言うことにした。
「アストルフォの“返事になる前の行動”って言葉、すごくよかった」
アストルフォがきょとんとする。
「そう?」
「あれがなかったら、今日のことをどう考えればいいか分からなかった」
「ボク、そんなすごいこと言った?」
「言った」
「えへへ」
アストルフォは照れたように頬を赤くする。
「エイジに褒められるの、好き」
「いつも俺ばっかり褒められてるからな」
「じゃあ、今日はお互い褒める日?」
「いいな、それ」
「ほんと?」
「ああ」
衛二はアストルフォの髪に手を伸ばした。
「今日のアストルフォは、すごく頼りになった」
桃色の髪をそっと撫でる。
アストルフォは目を細めた。
「宮原のところへ先に見に行ってくれた。俺を止めてくれた。黒い秒針から守ってくれた」
「うん」
「それから、ずっと隣にいてくれた」
アストルフォの頬がさらに赤くなる。
「エイジ……」
「ありがとう」
「ずるい」
「今日も言われた」
「だって、そういうの、心臓にくる」
「サーヴァントにも?」
「ボクにはくるの!」
アストルフォは衛二の胸に顔を埋める。
「エイジの好きが増える」
「俺も増えてる」
アストルフォが固まった。
数秒後、彼はゆっくり顔を上げる。
「今の、もう一回」
「言わない」
「お願い」
「……俺も、アストルフォのことがもっと好きになってる」
アストルフォは両手で顔を覆った。
「だめ……」
「だめなのか」
「うれしすぎる」
衛二は少し笑った。
するとアストルフォが、顔を赤くしたまま衛二の額にそっと唇を触れさせた。
「契約、再確認」
小さな声。
「ボクはエイジの隣にいる。エイジが待つ時は一緒に待つ。エイジが動く時は一緒に走る。エイジが自分を責めそうになったら、ちゃんと褒める」
「褒めるのか」
「うん。いっぱい褒める」
衛二は目を閉じた。
「俺も、アストルフォの隣にいる。アストルフォが怖い時は手を握る。アストルフォが頑張った時は、ちゃんと褒める」
「うん」
「大変は半分」
「うん」
「好きは増える」
アストルフォはまた顔を真っ赤にした。
「エイジ、最後のずるい!」
「気に入ってるだろ」
「気に入ってる!」
二人は笑った。
その笑いは、今日の終わりにふさわしい温かさだった。
◇
深夜。
柳洞寺の地下、返事の庭。
白い花畑は静かに眠っていた。
黒い丘の根元では、昨日生まれた白い蕾が閉じている。
その近くに、新しい芽が生まれていた。
小さな芽。
花弁はまだない。
だが、その茎には時計の針に似た淡い光が宿っている。
待てない願い。
今を一緒に動かしたことで生まれた、小さな芽。
沈黙冠は黒い丘の上で動かない。
だが、その輪郭はまた歪んでいた。
返事を拒む願いに、沈黙を返した。
待つことを拒む願いに、行動を返した。
冠の中で、問いが組み変わる。
――ならば、動くことすら拒む願いには、どう答える。
白い花々が、風もないのに揺れた。
返事の庭は、また新しい問いを抱える。
そして冬木の夜は、静かに次の朝を待っていた。
コメント
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第九話、読み終わりました……! 待てない願いに対して、衛二が「待て」とも「大丈夫」とも言わず、一緒に今を動かしたところ、すごく響きました。宮原さんの「弟に会いたい」っていう切実な気持ちと、黒い秒針の焦りが重なって、胸が締め付けられました。そして、アストルフォの「返事になる前の行動」っていう言葉が、本当に素敵で。衛二の成長と、二人の絆がもっと深まっていく感じが温かくて、このエピソード、すごく好きです🌙
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