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聖杯
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聖杯
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第十話 動けない願いの隣で、桃色の手を握る
冬木の朝は、時計の音から始まった。
カチ、カチ、カチ。
遠坂邸のリビングに掛けられた古い時計が、規則正しく秒を刻んでいる。
昨日までは、そんな音を気にしたことなどなかった。
けれど今朝の衛二には、その音が妙に大きく聞こえた。
待てない願い。
黒い秒針。
宮原詩乃の震える声。
――今日じゃなきゃだめなの。
その言葉は、まだ胸の奥に残っている。
彼女は弟の手術前に間に合った。
会えた。
手を握れた。
行ってらっしゃいと言えた。
それは良い結末だった。
けれど、沈黙冠の問いはそこで終わらなかった。
返事を拒む願いには、沈黙を。
待つことを拒む願いには、今を一緒に動かすことを。
ならば。
動くことすら拒む願いには、どう答える。
「衛二」
凛の声が飛んだ。
衛二は味噌汁の湯気から顔を上げる。
「はい」
「今、また沈黙冠のこと考えてたわね」
「……少し」
「少し?」
「そこそこ」
「正直なのはいいけど、朝食中に冠と向き合わない」
凛はぴしゃりと言った。
隣でアストルフォが大きく頷く。
「そうだよ、エイジ。朝ごはん中は、シロウの味噌汁と向き合う時間!」
「味噌汁と向き合う」
「大事!」
アストルフォは真剣だった。
その真剣さが少しおかしくて、衛二は小さく笑った。
「分かった。味噌汁と向き合う」
「よし!」
アストルフォは嬉しそうに、衛二の皿へ卵焼きを一切れ乗せる。
「これも向き合って」
「増えた」
「回復日だから」
「もう回復日は終わったんじゃないのか?」
「エイジはまだ回復中です」
アストルフォはきっぱり言った。
「心が」
その一言に、衛二は言葉を失った。
アストルフォは時々、何気ない顔で核心を突いてくる。
魔術回路は回復している。
凛の許可で、今日から軽い制御訓練は再開できる。
だが心は、まだ返事の庭と沈黙冠の問いに触れたままだ。
凛が茶碗を置く。
「今日は放課後、柳洞寺へ行くわ」
食卓の空気が変わった。
衛二は顔を上げる。
「返事の庭ですか?」
「ええ。ただし、今回は奥へは行かない。未答区域の外縁を確認するだけ」
ユイが頷く。
「昨日、待てない願いに反応して新しい芽が生まれた。おそらく返事の庭にも変化が出ているはず」
ミライは黙ったまま、手元の湯呑みを見つめていた。
昨日より顔色が悪い。
衛二はそれに気づく。
「ミライさん、大丈夫ですか?」
ミライはゆっくり顔を上げた。
「大丈夫」
その言い方は、明らかに大丈夫ではなかった。
アストルフォが小さく衛二の袖を引く。
「エイジ、今の大丈夫は怪しいやつ」
「ああ」
凛もミライを見る。
「無理なら残ってもいいのよ」
「行く」
ミライは即答した。
「返事の庭に、私は行かなければならない」
その声は硬かった。
まるで、自分に命令しているように。
ユイが静かに言う。
「ミライ。行かなければならない、じゃなくて、行きたいかどうかで決めて」
ミライは答えない。
ただ、湯呑みを握る指に力を込めた。
白くなるほどに。
衛二はその手を見て、胸の奥に沈黙冠の問いが沈んでいくのを感じた。
動くことすら拒む願い。
その問いは、もう近くにある。
◇
学校はいつも通りだった。
宮原詩乃は欠席していた。
担任によると、弟の手術は無事に終わったらしい。
しばらく病院に付き添うため、数日休むとのことだった。
教室に小さな安堵が広がった。
誰かが「よかった」と呟いた。
衛二も心の中で同じことを思った。
よかった。
全部が解決したわけではない。
弟の回復も、宮原の受験も、彼女の不安も続いていく。
それでも、昨日の「今」は届いた。
その事実は、確かに救いだった。
昼休み。
衛二は屋上で弁当を開いた。
隣には実体化したアストルフォがいる。
今日は認識阻害をかけ、周囲からは「遠坂家の親戚」として見えるようになっている。
屋上にはほとんど人がいないので、問題は少ない。
アストルフォは士郎が作った弁当を見て、目を輝かせていた。
「シロウのお弁当、今日もすごい!」
「本当に嬉しそうだな」
「だって美味しいんだもん。エイジ、卵焼き食べた?」
「朝も食べた」
「昼も食べる」
「命令?」
「おすすめ!」
アストルフォは自分の箸で卵焼きを取り、衛二の弁当箱の端に乗せた。
「はい」
「自分で取れる」
「今日はボクが乗せたい気分」
「自由だな」
「うん!」
衛二は苦笑して卵焼きを食べる。
甘い。
朝のものより少しだけ甘く感じた。
「どう?」
「美味い」
「でしょ!」
なぜかアストルフォが誇らしげだった。
衛二はその表情を見て、胸の奥が柔らかくなる。
この時間が好きだと思った。
戦いでもない。
問いでもない。
神杯でも沈黙冠でもない。
ただ、屋上で隣に座って、同じ弁当を食べる時間。
アストルフォが隣にいる時間。
その気持ちに名前をつけようとして、衛二は少しだけ怖くなった。
好き。
その言葉は何度も交わした。
でも、その先にある名前はまだ遠い。
恋人。
そう呼ぶには、まだ何かが足りない気がする。
覚悟か。
約束か。
それとも、戦いが終わるまで名付けてはいけないと思っているだけなのか。
「エイジ?」
アストルフォが顔を覗き込む。
「また難しい顔」
「……悪い」
「何考えてたの?」
「言わなきゃ駄目か?」
「駄目じゃないけど、言ってくれたら嬉しい」
アストルフォはそう言って、弁当の蓋を閉じた。
衛二の話を聞く姿勢。
それがまた、胸を揺らす。
衛二は少し迷ってから言った。
「アストルフォとのこと」
アストルフォが固まった。
「ボク?」
「ああ」
「ボクとのことって?」
「……上手く言えない」
「うん」
アストルフォは急かさなかった。
衛二は屋上のフェンス越しに空を見る。
「好きって言うのは、もう何回も言った。でも、それだけでいいのか分からなくなる時がある」
アストルフォの頬が少し赤くなる。
でも、茶化さなかった。
「それだけじゃない名前を、つけたいって思う時がある。でも今は、沈黙冠とか返事の庭とか、危ないことが多すぎて」
「うん」
「名前をつけたら、もっと失うのが怖くなる気がする」
言ってしまった。
胸の奥にあったもの。
アストルフォを好きだと思うほど、失うのが怖くなる。
神杯はその願いを利用した。
沈黙冠も、きっとそこに触れてくる。
だから衛二は、踏み込むのが怖い。
アストルフォは少し黙った。
それから、そっと衛二の手に触れた。
「エイジ」
「うん」
「ボクも怖いよ」
その声は柔らかかった。
「エイジと近くなればなるほど、エイジが遠くに行っちゃうのが怖くなる。エイジが傷ついたら、たぶんボク、すごく泣く」
「アストルフォ」
「でも、近くにいるのをやめたいとは思わない」
アストルフォは衛二の手を握った。
「怖くても、隣にいたい。名前がまだなくても、今のこの気持ちは大事にしたい」
衛二はその手を見た。
桃色の騎士の手。
何度も自分を掴んでくれた手。
夢から呼び戻してくれた手。
沈黙に沈みそうな時、温度をくれた手。
「名前は、いつかちゃんとつけよう」
アストルフォは少し照れたように笑った。
「急がなくていい。でも、逃げないで」
その言葉に、衛二は息を呑む。
逃げないで。
それは責める言葉ではなかった。
約束のようだった。
「……逃げない」
衛二は答えた。
「いつか、ちゃんと言う」
「うん」
「その時は、アストルフォも聞いてくれるか?」
アストルフォの顔が、ぱっと赤くなる。
「もちろん!」
声が大きすぎて、衛二は慌てて周囲を見た。
幸い、屋上には誰もいない。
アストルフォは口元を押さえながら、小さく笑った。
「ごめん。嬉しかった」
「まだ何も言ってない」
「でも、いつかちゃんと言うって言ってくれた」
「……ああ」
「じゃあ、ボクも待つ」
アストルフォはそう言って、握った手に力を込めた。
「待つの、怖くないよ。エイジが逃げないって言ってくれたから」
衛二の胸が、静かに熱くなった。
待つことを拒む願いもある。
待てない願いもある。
けれど、信じて待てる願いもある。
それはきっと、アストルフォが今くれたものだった。
◇
放課後。
柳洞寺の石段は、昨日より冷たく感じた。
空は曇り始めている。
冬の夕方は早い。
山の影が境内へ落ち、木々の間を抜ける風が少し湿っていた。
遠坂家の面々は、鐘楼の前で集合した。
凛。
士郎。
ユイ。
ミライ。
衛二。
アストルフォ。
そして柳洞寺の住職、宗真と、柳洞悠馬もいた。
「今日は奥へは入らないと聞いています」
宗真が言った。
凛は頷く。
「ええ。外縁部の反応確認だけです」
柳洞悠馬は衛二を見る。
「昨日、学校で何かあったんだな」
「少し」
「宮原のことか」
「……ああ」
「先生から少し聞いた。遠坂が助けてくれたと」
「助けたのは先生と柳洞だろ」
「お前もだ」
柳洞は静かに言った。
「宮原が言っていた。遠坂くんが、待てとは言わなかったって」
衛二は少し言葉に詰まった。
柳洞は続ける。
「それが嬉しかったらしい」
「……そうか」
「ああ」
アストルフォが隣でにこにこしている。
「エイジ、嬉しい?」
「……嬉しい」
「素直!」
「最近、アストルフォに鍛えられてる」
「いいこと!」
凛が軽く咳払いした。
「甘い空気は後」
「はい」
アストルフォが元気よく返事をする。
宗真が少し微笑んだ。
「その明るさは、この場所にはありがたい」
アストルフォは胸を張る。
「ボク、明るいの得意です!」
「でしょうね」
宗真は穏やかに頷いた。
その時。
鐘楼の下の石扉が、勝手に震えた。
全員の表情が変わる。
ユイが封印鍵を握る。
「返事の庭が反応している」
ミライの顔が強張った。
昨日より明らかに怯えている。
衛二はそれに気づいた。
「ミライさん」
「問題ない」
即答。
しかし声が硬すぎる。
アストルフォが小さく言う。
「エイジ」
「ああ」
今朝の食卓で感じたもの。
ミライは、行きたいから来たのではない。
行かなければならないと、自分に命令している。
過去の罪。
返事の庭から背を向けた後悔。
月蝕教団に加担した自責。
それらが彼女を動かそうとしている。
だが本当の彼女は、動けない。
動きたくない。
怖くて、戻りたくなくて、それでも戻らなければならないと自分を縛っている。
動くことすら拒む願い。
それはミライの中にあった。
凛が石扉へ向かおうとした時、ミライの足元に黒い影が落ちた。
「ミライ!」
ユイが叫ぶ。
影は蔓ではない。
鎖でもない。
黒い泥のようなものが、ミライの足首を包み込んでいる。
ミライは動かない。
いや。
動けない。
彼女の瞳から光が抜けていく。
「行かなければならない」
ミライが呟く。
「戻らなければならない。謝らなければならない。待たなければならない。答えなければならない」
言葉だけが進む。
でも足は動かない。
「でも」
ミライの声がかすれる。
「怖い」
黒い泥が広がる。
返事の庭の扉へ向かう道が、まるで沼のように沈んでいく。
ユイが駆け寄ろうとする。
だが凛が止めた。
「待って。下手に引っ張ると、精神ごと沈むわ」
「でも!」
「ミライ自身が動けないことを拒んでる。外から無理に動かしたら壊れる」
衛二の胸が痛んだ。
動けない願い。
それは、誰かに無理やり引っ張られることを恐れている。
動けない自分を責められることを恐れている。
動けないままでは許されないと、自分で自分を追い詰めている。
アストルフォが衛二の手を握った。
「エイジ」
「ああ」
「魔術は?」
「使わない」
「でも、行く?」
「行く」
「うん」
アストルフォは頷いた。
「一緒に」
衛二はミライへ近づいた。
黒い泥が足元に触れる。
冷たい。
けれど、まだ沈まない。
アストルフォが隣にいるからかもしれない。
柳洞寺の御守りが胸元で温かいからかもしれない。
衛二はミライの前にしゃがんだ。
「ミライさん」
ミライは反応しない。
ただ、呟き続ける。
「行かなければならない。戻らなければならない。謝らなければならない」
「ミライさん」
「でも、動けない」
その声は、初めて子どものように小さかった。
「動けないの」
ユイが息を呑む。
ミライは震えていた。
「返事の庭に戻ったら、全部見える。私が背を向けた花。私が待てなかった願い。私が観測するだけで救わなかった声」
「……」
「行かなきゃいけないのに、動けない」
黒い泥がさらに濃くなる。
沈黙冠の影だ。
だが、これは攻撃ではない。
ミライ自身の罪悪感に、冠の問いが触れている。
衛二は言葉を探した。
動けない願いに、どう答える。
頑張れと言ってはいけない。
行こうと引っ張ってはいけない。
謝ればいいとも言えない。
動けない人に、動けと言うことは、時に刃になる。
アストルフォが静かに衛二の隣へ座った。
白い石畳の上に、ぺたんと。
衛二は驚いて彼を見る。
「アストルフォ?」
「座る」
「え?」
「ミライが動けないなら、ボクたちも一回止まる」
アストルフォはミライを見た。
「無理に動かさない」
その言葉に、衛二の胸の奥で何かがほどけた。
そうか。
動けない願いに、最初から一歩を求めてはいけない。
まず、止まることを許す。
動けないままでも、置いていかない。
衛二はアストルフォの隣に座った。
黒い泥のすぐ前。
ミライの前。
「ミライさん」
衛二は静かに言った。
「動かなくていいです」
ミライの呟きが止まった。
ユイが涙を堪えるように唇を噛む。
「今は、動かなくていい」
衛二は続ける。
「行かなきゃいけないって思ってるのも、本当だと思います。戻らなきゃって思ってるのも、謝らなきゃって思ってるのも」
黒い泥が揺れる。
「でも、怖いのも本当ですよね」
ミライの瞳がわずかに動いた。
「怖いなら、今は止まっていい。俺たちは先に行かない。引っ張らない。ここで待つ」
アストルフォが頷く。
「うん。座って待つ」
衛二は少しだけ笑った。
「アストルフォが座ったから、俺も座ります」
「えへへ」
アストルフォは明るく笑う。
その笑顔が、この重い場に小さな灯りを置いた。
ミライの唇が震える。
「待つ……?」
「はい」
「私は、待てなかったのに」
「それでも、今は待ちます」
「私は、逃げたのに」
「戻るかどうかを決めるまで、待ちます」
「私は、月蝕教団に」
「それでも」
衛二は遮らず、でもはっきり言った。
「今ここで、ミライさんが怖いって言えたから」
ミライの目から涙が落ちた。
黒い泥が、ほんの少し薄くなる。
ユイが一歩近づいた。
凛は止めなかった。
ユイもまた、ミライの前でしゃがむ。
「ミライ」
「ユイ……」
「私も待つ」
「でも、あなたは」
「一緒に閉じた庭だもの。一緒に背負う」
「私は裏切った」
「それでも、今ここにいる」
ユイはミライへ手を伸ばしかけ、止めた。
無理に触れない。
ミライが選ぶまで待つ。
「手を取りたくなったら、取って」
その言葉に、ミライの表情が崩れた。
黒い泥はまだある。
でも、彼女を沈める勢いは弱まっている。
アストルフォが小さく衛二に囁く。
「エイジ」
「何?」
「動けない願いには、隣で止まること」
「ああ」
「それで、動きたくなるまで場所を守る」
「……そうだな」
それは答えではない。
だが、確かな一歩だった。
いや。
今は一歩でなくていい。
立ち止まること。
それが必要だった。
しばらく、誰も動かなかった。
柳洞寺の境内に、静かな時間が流れる。
風が木々を揺らす。
遠くで鳥が鳴く。
鐘楼の影が長く伸びる。
ミライは泣いていた。
声を上げることもなく、ただ涙を流していた。
その涙が黒い泥へ落ちるたび、泥は少しずつ薄れていく。
やがて、ミライが震える手を伸ばした。
ユイがその手を取る。
今度は、ミライが選んだ。
「……まだ、怖い」
ミライは言った。
「うん」
ユイが頷く。
「動けるか分からない」
「うん」
「でも、一人で止まっているよりは……」
ミライは顔を上げた。
「一緒に止まってくれるなら、少しだけ前を見られる」
黒い泥が消えた。
完全に消えたわけではない。
地面の隙間に、まだ影は残っている。
だが、ミライの足首を縛っていたものは消えた。
彼女は立ち上がろうとして、少しふらついた。
ユイが支える。
衛二も立ち上がる。
アストルフォも、ぱっと跳ねるように立った。
「ミライ、えらい!」
場の空気が一瞬止まった。
ミライは目を瞬かせる。
「……えらい?」
「うん! 怖いって言えた。止まれた。手を取れた。すごくえらい!」
アストルフォの言葉は、あまりにもまっすぐだった。
ミライは困ったように視線を落とす。
「私は、褒められるようなことは」
「あるよ」
アストルフォは笑った。
「今、頑張ったもん」
ミライは何も言えなかった。
ただ、涙を拭った。
その表情は、少しだけ幼く見えた。
◇
石扉の向こう、返事の庭の入口まで進むと、昨日とは違う光景があった。
奥へは入らない。
それでも、門の隙間から庭の様子が見える。
白い花畑の奥。
黒い丘の根元。
昨日生まれた白い蕾。
時計の針に似た淡い芽。
そして、その隣に新しい芽があった。
それはまだ、地面から顔を出したばかりの小さな芽だった。
動かない。
揺れもしない。
ただ、そこにある。
だが、その根元には淡い桃色の光が宿っていた。
アストルフォが目を輝かせる。
「エイジ、見て。あの芽、ちょっとボクの色!」
「本当だ」
「ボクの座った効果?」
「たぶん」
「やった!」
凛が呆れたように言う。
「まあ、実際にアストルフォの存在が影響した可能性はあるわね」
「本当に?」
アストルフォがぱっと振り向く。
凛は頷いた。
「あなたの明るさは、返事の庭にとってかなり異質よ。沈黙に対して、温度を持ち込める」
「温度……」
アストルフォは少し照れたように笑った。
「じゃあ、ボク、役に立ててる?」
衛二は即答した。
「めちゃくちゃ」
アストルフォが固まる。
「エイジ」
「何?」
「ここで言う?」
「事実だから」
「ずるい……」
アストルフォは頬を赤くして、衛二の袖を掴んだ。
士郎が少し笑う。
ユイは門の向こうの新しい芽を見つめていた。
「動けない願いに、隣で止まること」
ミライが静かに言う。
「私は、それを知らなかった」
「私もよ」
ユイが答える。
「私たちは、早く答えを出そうとしすぎていた」
「待つことも、動くことも、止まることも、全部必要だった」
ミライは小さく息を吐いた。
「返事の庭は、まだ変われるのね」
その言葉に、白い花がかすかに揺れた。
まるで、そうだと返すように。
◇
遠坂邸へ帰った頃には、夜になっていた。
今日は戦闘らしい戦闘はなかった。
剣も抜いていない。
魔術もほとんど使っていない。
衛二は無窮剣界にも触れていない。
それなのに、ひどく疲れていた。
リビングのソファに座ると、アストルフォがすぐ隣へ来る。
「エイジ、大丈夫?」
「今日は大丈夫、六割くらい」
「六割。まあまあ」
「評価されてる」
「七割まではぎゅー必要」
「基準は?」
「ボク」
「だろうな」
アストルフォは当然のように衛二を抱きしめた。
リビングで。
凛の目の前で。
凛は一瞬何か言いかけたが、今日は何も言わなかった。
士郎も温かい茶を置くだけだった。
ユイとミライは向かいのソファに座っている。
ミライは、少し疲れた顔をしていたが、朝よりも呼吸が楽そうだった。
「衛二」
ミライが言った。
「ありがとう」
「俺だけじゃないです」
「それでも、ありがとう」
衛二は少しだけ目を細める。
「どういたしまして」
ミライは小さく頷いた。
アストルフォが嬉しそうに言う。
「ミライもえらいよ!」
ミライは少し困った顔をする。
「まだ慣れない」
「褒められるの?」
「ええ」
「じゃあ、慣れよう!」
「……努力する」
「努力じゃなくて、ちょっとずつ!」
アストルフォの言葉に、ミライは少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
でも、確かに笑った。
ユイがそれを見て、静かに目を細める。
返事の庭だけではない。
ミライ自身も、少しずつ変わり始めている。
◇
その夜。
衛二の自室。
凛の回路チェックが終わり、今日も異常なしと判断された。
魔術使用は明日から軽度のみ許可。
無窮剣界は禁止継続。
返事の庭への接続も単独禁止。
いつもの禁止事項が並んだ後、凛は最後にこう言った。
『今日はよく止まれたわね』
それは、今日の衛二にとって一番大きな褒め言葉だった。
部屋に戻った衛二は、ベッドの端に座って柳洞寺の御守りを見つめていた。
アストルフォは隣に座っている。
「エイジ」
「何?」
「今日は、止まる日だったね」
「ああ」
「動けない人の隣で、一緒に止まった」
「アストルフォが先に座ったからな」
「えへへ。座っちゃった」
「助かった」
衛二は素直に言った。
「俺だけだったら、たぶん何か言葉を探してた。説得しようとしてたかもしれない」
「エイジは優しいからね」
「優しいのか、それ」
「うん。でも優しすぎると、急いじゃう時がある」
アストルフォは衛二の手に触れた。
「助けたいから、早く答えを出したくなる」
「……そうだな」
「でも今日は、止まれた」
「ああ」
「えらい」
「また褒める」
「褒めるよ。今日は止まれた記念日」
「何でも記念日にするな」
「する!」
アストルフォは笑った。
そして、少しだけ静かになる。
「ねえ、エイジ」
「何?」
「お昼に言ってたこと」
衛二の胸が少し跳ねた。
名前をつけたいという話。
好きの先にある名前。
「……ああ」
「ボク、嬉しかった」
アストルフォは膝の上で手を重ねる。
「まだ名前がなくても、エイジが逃げないって言ってくれたから」
「うん」
「ボク、待てるよ」
その言葉は、今日のどんな返事よりも衛二の胸に響いた。
「待つの、怖くないのか?」
「怖いよ」
アストルフォは正直だった。
「でも、エイジがちゃんとこっちを見てくれるなら、待てる」
「……」
「それに、待つだけじゃなくて、一緒に進むんでしょ?」
アストルフォは微笑む。
「止まる時は一緒に止まる。動く時は一緒に動く。待つ時は一緒に待つ」
衛二はその言葉を胸にしまう。
返事の庭の答えにも似ていた。
でもそれ以上に、二人の関係そのもののようだった。
衛二はゆっくりアストルフォの手を握った。
「アストルフォ」
「うん」
「俺は、まだ怖い」
「うん」
「アストルフォを失うのも、アストルフォとの関係に名前をつけるのも」
「うん」
「でも、逃げない」
アストルフォの瞳が揺れる。
「いつかちゃんと言う。今みたいに曖昧なままじゃなくて」
「うん」
「その時まで、隣にいてくれるか?」
アストルフォは一瞬、泣きそうな顔をした。
けれどすぐに、笑った。
「もちろん」
彼は衛二の手を両手で包む。
「ボクはエイジの隣にいる。名前がつく前も、ついた後も」
衛二は息を呑んだ。
ついた後。
その言葉が、未来を照らした。
アストルフォは少し照れたように続ける。
「だから、焦らなくていいよ。でも、忘れないで」
「何を?」
「ボクも、エイジのことが好き」
静かな声だった。
いつもの明るい「好き」とは違う。
もっと深く、もっと柔らかく、衛二の胸の奥に置かれるような声。
「名前がつく日を、待ってる」
衛二は目を閉じた。
その待つという言葉は、重くなかった。
怖くもなかった。
温かかった。
「……ありがとう」
「うん」
「アストルフォ」
「なあに?」
「少し、甘えていいか?」
アストルフォの顔がぱっと明るくなる。
「もちろん!」
彼は衛二をぎゅっと抱きしめた。
衛二も腕を回す。
今日の抱擁は、戦いの後の回復ではなく、約束のためのものだった。
まだ恋人ではない。
まだ名前はついていない。
けれど、二人の間には確かに未来へ続く線がある。
それは桃色の光のように、柔らかく、温かく、消えそうで消えない。
アストルフォは衛二の額にそっと唇を触れさせた。
「契約、再確認」
小さく囁く。
「ボクはエイジの隣にいる。エイジが止まる時は隣で止まる。エイジが動く時は一緒に動く。エイジが待つ時は、怖くても一緒に待つ」
衛二は頷いた。
「俺も、アストルフォの隣にいる」
「うん」
「名前がつく日まで、逃げない」
アストルフォの頬が赤くなる。
「うん」
「名前がついた後も、離さない」
アストルフォは完全に固まった。
そして、衛二の胸に顔を埋める。
「エイジ、ずるい……」
「今日も言われた」
「だって、今のはずるい」
「嫌だったか?」
「嫌じゃない。嬉しすぎるだけ」
衛二は少し笑って、アストルフォの髪を撫でた。
桃色の髪は柔らかかった。
アストルフォは目を細める。
「エイジのなでなで、好き」
「知ってる」
「もっと好きになった」
「俺も」
「またずるい」
二人は笑った。
沈黙冠の問いは、まだ終わっていない。
返事の庭の黒い丘も、黒い花も、白い蕾も、動かない芽も、まだそこにある。
けれど今夜、衛二は一つだけ確かに知った。
動けない願いには、まず隣で止まること。
無理に引っ張らず、置いていかず、立ち上がるまで場所を守ること。
そして、まだ名前のない想いにも、同じことが言える。
焦らない。
でも逃げない。
止まっても、待っても、いつかちゃんと一歩を踏み出す。
衛二はアストルフォを抱きしめながら、静かに目を閉じた。
◇
柳洞寺の地下。
返事の庭の奥。
白い蕾、時計の芽、そして動かない桃色の芽が、黒い丘の根元に並んでいた。
沈黙冠は動かない。
けれど、その輪郭はさらに歪んでいる。
沈黙を返された。
行動を返された。
停止を許された。
冠の中で、問いがまた組み変わる。
――ならば、差し伸べられた手を拒む願いには、どう答える。
黒い花畑の奥で、何かが揺れた。
それは手の形をしていた。
誰かに伸ばされ、しかし誰にも握られなかった手。
次の問いが、返事の庭に影を落とす。
そして冬木の夜は、静かに第十一の朝を待っていた。
コメント
1件
読了しました。第十話、とても良かったです。 特に印象的だったのは、アストルフォが先に座って「止まる」ことを示した場面です。「動けない願いに、隣で止まること」――これはミライさんだけでなく、衛二自身や、名前をまだつけられない二人の関係にも響いてくるテーマで、巧いなと感じました。屋上で「逃げない」と言い合うシーンも、静かな約束として胸に残ります。桃色の芽が返事の庭に生えたのも、アストルフォの存在が確かに痕跡を残しているようで嬉しかったです。次が気になります。