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すっかりと枯れてひび割れた、墨滴を思わせる虚(うつ)ろな眼に、かすかな光明が差した。
これを決して消さないよう、細心の注意を払う仕草で、のろのろと視線を巡らせる。
その末に、葛葉は見慣れた容貌を認めた。
「なんや、生きとったん? 弟くん」
「当たり前じゃボケ!」
危ないところではあった。
なんだっけ? あの……、チェーンソーか。
アイツに圧(へ)し折られる間際、ギリギリんところで刀霊(じぶん)を剣から切り離し、何とか事なきを得た。
しかし、ありゃ当分は戻れねぇな。
よくもまぁ真っ二つに……。
「生きてたんやったらそう言いよ? お姉ちゃんホンマ心配したわぁ」
「あ? タケノコ野郎がほざいてんじゃねぇぞ? バンブーソードかよ? 得意技は何ですか?」
「えやえや、ほんならそっちは海の藻屑ちゃうの? ほら、フジツボついたあるで? ほら、そこそこ。 お姉ちゃん取ったろかぁ?」
「てめぇ……っ」
ギリギリと歯牙を軋ませた矢先、柔らかなものに抱きすくめられた童は、途端に気熱を冷まし、呆気にとられた。
程なく気恥ずかしい思いが湧いて、これに抗おうと試みるも、曇(くぐも)った嗚咽を聞いた途端に、そんな気はさっさと失せた。
──姐御が泣くとこ、初めて見たかも知んない……。
そんな事を考えていると、自分の鼻もまた、何やらグシュグシュと音を立てていることに気付いた。
もらい泣きなんて柄(がら)じゃないし、周りの眼も気にはなったが、まぁいいや。
今だけは、思いっきり甘えさせてもらっても、バチは当たらねぇだろう。
「へぇ………?」
あぁ、そういう事かいなと、同じく彼女の腰物として、こちらは目から鱗の落ちる思いがした姫君は、胸中の息をそっと吐き出した。
刀折られたことに怒ったんと違う、主さんは単に、弟くんの身を案じて。
けど、それはアカンで。
道具を道具として見れんようなったら終いや。
そこだけはちゃんと割り切っとかな、いずれどっかでややこしい事になる。
『あたいの言うこと聞いてくれたら、耳朶かじらせてあげる』
こんな阿呆な誘いに乗って、単身 陰陽寮(うらのつかさ)に斬り込んだかつての阿呆な持ち主が、すぐ耳元で血を吐くような恨みごとを囁いた気がした。
「………………」
事の一部始終を見届けた虎石は、どんな顔をすればいいのか分からず。
また、自分がいま、どのような表情を浮かべいるのか分からずに、詮方(せんかた)ない思いで目線を足元へ向けた。
──なんつう修羅場だよ……。
血腥(ちなまぐさ)い場面には、それなりに慣れているつもりでいた。
しかし、ここまで憫然(びんぜん)たる戦場(いくさば)を目の当たりにするのは、まったく初めてのことだった。
いまや、怒号・蛮声の代わりに、慟哭と感泣の声が飛び交い、血潮や弾雨の代わりに、滂沱(ぼうだ)の涙がひっきりなしに降り続いている。
経年のうちに、何物も寄せつけぬ鉄の胴当てを着込んだ胸にもなお、さすがに迫るものがある。
この場面に臨んで、なにも感じないのは単なる人でなしだ。
隣り合いに気を向けると、かの頭目もまた、顔面に施した綿布の奥で、しきりに鼻を啜っている様子が窺い知れた。
そうこうする内、おもむろに立ち上がった葛葉が、いまだ苦悶の淵に沈む女性の元へ、頼りない足取りで歩みを寄せた。
わずかに気を揉んだが、そっと身を屈めた彼女は、当人の背中に手を添えるようにして、ひと言ふた言、寧静(ねいせい)に語りかけた。
どのような言葉を用いたのか、人並みの聴力しか持ち得ない虎石にとって、この距離でそれを知る術(すべ)はない。
ただ、その模様はいたく穏やかで、悲しげで、事態の収拾を見越すには、余りあるほどにしめやかな光景だった。
「……こっから沿岸へ出て、海沿いを西へ西へ進んでくと、小さな港町がある。 名前はないけど、行けば分かる。 草臥(くたび)れた町だ」
程なく、身を持ち直した女性は、ぽつりぽつりと呟くように語を次いだ。
いまだ、普段通りの調子とは言い難(がた)いが、表情は幾分にも和らいでおり、ちょうどにわか雨が降りしきった後の、隠微な晴れ間を想起させる。
ただ、泣き腫らした目がひどく痛々しく、見るに忍びない。
「そこは元々、豊富な海底資源と、それを元にした冶金(やきん)の技術で栄えた町で、腕のいい鍛冶屋が今でも何人か残ってるって聞いた」
彼女がなにを言わんとしているか、早々に解した葛葉は、さらにも増して胸中の混迷に拍車をかけた。
心のほんの浅瀬を浚(さら)ってみても、雑多な感情が玉石のように入り乱れている。
大部分を占めるのは、有り難みで間違いない。
「それこそ、神寳(かんだから)の鍛造に携わるような連中だ。 そこいらの鍛冶師とは、そもそも出自が違う」
敵に塩を送るのにも、まずは当人の余裕があったればこそのはずだ。
ここまで打ち拉(ひし)がれてなお、それに踏み切ってくれた彼女が、ひどく労(いたわ)しく。 また、申し訳なく思う。
喧嘩両成敗の古義に則(のっと)っても、これでは余りに
「その連中なら、あるいは」
こちらも、憮然たる面持ちで静聴の姿勢を示す童に対し、ぎこちなく手のひらを差し向けた女性は、思い止(とど)まった様子で、これをそっと引っ込めた。
どのような情理が働いたのか。
単に、触れることを恐れたのかも知れない。
あるいは、“別の人生”がふと脳裏を過(よぎ)ったせいで、躊躇(ためら)いが生じたのかも知れない。
「………………」
空を仰ぐ。
いい朝だ。
今日はどんな一日になるだろう?
きっと、これまで通り忙しい一日になるに違いない。
あの子は、無事に成長しただろうか?
元気に育ってくれただろうか?
いっぱい遊んで、いっぱい笑って。
男の子だから、きっと手を焼くことも多いだろう。
時にはケンカをすることだってあるかも知れない。
だけど私は、いつでもあなたを愛しているよ?
世界でいちばん大切に思ってるよ?
だから、どうか健やかに。 丈夫で優しい子に育ってね?
楽しい思い出を、たくさん作っていこう。
そうだ、誕生日には大きなケーキを焼いてあげよう。
プレゼントは何がいい?
どんなものに興味を持つんだろう?
将来の夢を、聞かせてくれたりするんだろうか?
この先どんな事があったって、きっと大丈夫。
あなたの味方は、ここに居るよ?
いつだって、私はあなたの味方だから。
でも……
でもあなたは、ここには居ないんだね……?
「ごめんな……? 本当に、ごめんよ……」
さめざめと泣き濡れる女性に対し、葛葉は真摯(しんし)な態度で頭(こうべ)を垂れた。
これに寄り添う童もまた、実姉が仕出かした醜行を察したようで、苦衷(くちゅう)の念が表情にありありと表れていた。
そんな二名の様子を受け、女性はわずかに口元をゆるめた。
なにを呟こうとしたのかは分からない。
戸惑いがちに差し伸べた手が、今度こそ、小さな頭に柔らかく触れた。
その掌は優しくて、温かくて、最初からそういった存在を持ち得ない童にさえ、母の面差しというものを、朧気に連想させた。