「お嬢。こんなとこにいたのか」
背後から発注係の義雄(よしお)の声が聞こえて、小口美央は慌てて吸っていたそれを地面に押し付けた。
「こそこそって。また煙草吸いだしたのか?」
サンダルをつっかけて裏口から出てきた義雄が眉毛をハの字に曲げながら隣にしゃがむ。
「これに判子くれ」
覗き込むと、南洋タイヤに申し込むスタッドレスタイヤの発注書だった。
「去年と同じでいいんだろ?まずは」
「うん、オッケー。どんだけ受注減るかわかんないし」
言いながら美央はすっかり色落ちした紺色の作業着の胸ポケットからシャチハタを出すと、承認印を押した。
“あの事件”以降、小口自動車の客離れが続いていて、先月の車検台数は去年の同じ月の半分もいかなかった。
「―――はい、サンキュ」
義雄がそれを、美央よりもさらに色落ちした作業着の胸ポケットに入れ、代わりに煙草の箱を取り出した。
100円ライターを手渡しながら美央はため息をついた。
「ーーー直に雪が降るな」
一つも美味しそうな顔をせずに、義雄は苦い顔で煙草を吸い込むと、真っ白い煙を吐き出しながら唸った。
「そうねえ」
美央も唸る真似をしながら笑った。
「―――あいつから連絡は?」
ますます渋い顔をしながら煙草を吸い込む。
「ないよ。相変わらず」
「―――そっかあ」
義雄が少し大きな声で言った。
「暴走族にいたから素行は悪いし、ガラも悪いし、言葉も態度も何もかも気に食わなかったけど」
そこまで言ってから義雄は大きく息を吐いた。
「ーー逃げるような男じゃないと思ってたんだけどな」
「―――――」
美央は青空に伸びていく白い煙を見ながら小さく頷いた。
『ーーー俺じゃねぇ!俺なわけねぇ!!』
叫んだ彼の顔を思い出す。
『そんな初歩的なミス、俺がするわけねぇだろうが!』
押さえつけられてもなお暴れ続けた彼の、宙を蹴る左足を思い出す。
ーーー俺が……
ーーー俺が、証明してやる……!
と、その煙の先に、自分たちの地味な作業着からすると明らかに浮いている色を発見し、美央は目を細めた。
赤と黒の制服。
ここらでは有名なお嬢様学校のものだ。
その女子高生が受付嬢の|香苗《かなえ》と何やら話をしている。
「―――あれ、誰?」
美央が言うと、義雄が興味なさそうに首を伸ばした。
「香苗ちゃんの妹かあ?」
「妹にしては――――」
似てないと言おうとして、美央は思わず息を吸い込んだ。
「ーーあいつ、秋元のとこの娘だ」
立ち上がった美央を義雄が驚いて見上げる。
「マジで?何しに来たんだ?」
「わかんない―――」
美央が見つめていると、視線に気づいたらしい娘がこちらを振り返った。
そして意味深に微笑むと、静かにゆっくりと会釈し、そして踵を返して去っていった。
「――――!」
美央は駆けだすと、また表を箒で掃き始めた香苗の腕を掴んだ。
「あの女に何を話したの?」
「え、あ……」
入ってたった数ヶ月の香苗は、新社長の突然の登場に驚きながら、おどおどと言った。
「あの子が、失踪した兄を探してるとかで」
嘘だ。秋元の娘は一人っ子だ。
「―――それで?」
勤め始めとはいえ、自分の会社が出ているニュースも観ないこの若い女に腹が立つ。
「“最近この会社を辞めていった人の名前を教えてほしい”って」
「それで!」
つい声が荒くなる。
「複数いるからわからないって言いました。そうしたら……」
「そうしたら?」
「―――足を引きずってる人だって、言うので……」
香苗は泣き出しそうな顔になりながらいた。
「それなら、吉良瑛士さんだと思うって……。昔バイクで足を怪我したって聞いたからって、言いました……」
「――――」
美央は振り返った。
彼女の姿はもう見えない。
兄が失踪?
どうしてそんな見え透いた嘘をーーー?
そしてどうして、
あんな目立つ制服を着て、こんな敵陣に乗り込んでくるような真似をーーー?
「――――お嬢?」
心配で追いかけてきた義雄が美央を覗き込んだ。
「―――まさか……」
美央は、背の低い住宅地の向こう側に視える、秋元家の豪邸を睨みながら、肺に残っていた煙を吐き出した。
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