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「あの……私の顔に、何かついていますか?」
「へっ? あっ……いや、別に……何でもない」
「そうですか。でしたら、さっそく仕事を始めさせていただきますね」
颯斗の前に立っても、美玲の表情は変わらない。むしろ、この時間が無駄だと言いたげだ。媚びられるよりはマシだが、ここまで興味を示されないと面白くない。
「そこだ」
顎で示されたのは、専務室の片隅にある小さな机。その態度は傲慢で、美玲は一瞬にして敵認定していた。初日から、二人の間には不穏な空気が漂う。
颯斗の無礼な仕草に、美玲は黙って机へ向かった。かばんを横に置き、着席してパソコンを立ち上げる。その落ち着きようは、初出勤とは思えない。まるで長年ここで勤めてきたかのような貫禄だ。
しばらく操作していた美玲が、突然立ち上がってかばんを手に颯斗へ近づいてくる。
(ふん、どうせ何もできずに泣きつくんだろう? 素直に謝るなら許してやらなくもない)
「専務」
「なんだ」
「外出のお時間です」
「……はあ?」
予想もしなかった言葉に、颯斗は思わず目を瞬かせる。
「十時からローズガーデンで打ち合わせがございます。外出のご準備をお願いします」
「なんで……」
「はい? なぜ打ち合わせが入っているのかまでは、私にはわかりかねます」
本当は「どうしてスケジュールを知っている」と聞きたかった。だが、自分が彼女より劣っているように思えて、颯斗は言葉を飲み込むしかない。
無言で立ち上がり、ラックからジャケットを取り、袖を通す。颯斗の一歩後ろを、美玲は置いて行かれまいと追った。
「専務ぅ、お出かけですかぁ?」
「いってらっしゃいませ~」
受付の女性たちが甘ったるい声を揃える。
「ああ」
颯斗は彼女たちには軽く手を上げて応じる。しかし美玲に対しては完全に無反応。
「……」
あまりにわかりやすい態度に、美玲は声を出して笑いたくなる。それにしても、受付があんな調子でこの会社は大丈夫なのだろうか。本社兼サロンの未来を思うと、先行きが不安になる。
「ねぇ、あの地味女だれ?」
「専務には不釣り合いだよね……」
すれ違いざまの陰口は筒抜けだ。品位を疑う。颯斗にも聞こえているはずなのに、注意しないところもまた問題だった。
――数日前。櫻井のおじ様が嵯峨野家に来訪した。父に用があると思っていたら、なぜか美玲も同席を命じられる。
「櫻井おじ様、ご無沙汰しております」
「美玲ちゃん、久しぶりだね。ますますきれいになって」
「お世辞がお上手なんですから」
「いや、本心だよ! 仕事ぶりの評判も耳に入っている」
本来なら目立たないサポート役なのに、どこからそんな話が広がったのか。当初は嵯峨野家の円滑な運営に尽力していたが、いつの間にか他社の改善依頼まで受けるようになっていた。
「それで、私にお話とは……」
「ああ、実は頼みたいことがあるんだ」
「はい」
「うちの愚息のことは知っているだろう?」
「……はい」
櫻井兄弟は良くも悪くも有名だ。美玲には幼いころの嫌な記憶が強い。池のほとりで彼を取り合って争う少女たち。その光景を、止めもせず見ていた少年。思い出すだけで不快になり、頭を振った。
「長男に会社を継がせるつもりで、仕事面では心配していないのだが……」
どうせ女性問題だろうと、容易に予想できた。
「秘書の女性が長続きしなくてな。お恥ずかしい話だが、原因は息子自身にもある」
父親の口から女性問題を語るなど、不本意に違いない。
「それでは、私がお役に立てるとは思えませんが……」
「いや、鍛え直してやってほしいんだ」
「……」
懇願されては、きっぱり断れなかった。
「それに、社長を継ぐ条件を設けるつもりでね」
「条件……ですか?」
「結婚を条件にする」
「えっ? そんなことをしたら、適当に偽装する人が現れそうですが」
地位も名誉もあり、容姿も悪くない。望む人はいくらでもいるだろう。
「そこはきっちり釘を刺す。だから、美玲ちゃんには秘書として見張っていてほしい」
厄介な頼みだが、父の手前、拒めずに今に至る。
***
「おはようございます」
エントランス前には黒塗りの高級車。運転手が扉を開けて待っていた。スケジュールの共有ができていたことに、美玲は内心安堵する。
「本日より専務の秘書として参りました、嵯峨美玲と申します。よろしくお願いいたします」
「運転手の剛田と申します。こちらこそ、よろしくお願いします」
歴代の秘書を知る剛田は、目を丸くした。今まで秘書は華やかだったが、正反対の地味な容姿。態度も正反対で驕らず丁寧。これほど礼儀正しい秘書は初めてだ。
颯斗が後部座席に乗っても、なぜか剛田は扉を閉めない。
「あの、専務はもう乗られていますよ?」
「はい。ですが嵯峨さんがお乗りになるのを待っております」
「へ?」
「え?」
思わぬ食い違いに、互いに声を上げる。
「まさか……今までの秘書は専務の隣に?」
「はい」
美玲は思わず「彼女か!」と心の中で突っ込む。
「私は助手席に乗ります。それでよろしいですか?」
「もちろんでございます」
「何をしている?」
車内から颯斗の苛立つ声が飛んでくる。
「すみません!」
剛田が慌てて扉を閉め、運転席へ。美玲も自ら助手席に乗り込む。車内は沈黙に包まれた。
やがて車はフラワーショップの前に止まる。一階が店舗、上階がオフィス。
(やっぱり……ローズガーデンってここね)
美玲の実家は華道の家元、嵯峨野家。店の噂は耳に入る。その中でもローズガーデンは評判が悪い。傲慢な社長にわがままな娘。経営難だという話も聞いたばかりだ。
運転手が降りようとするのを制して、美玲は自分で助手席から降り、颯斗のために後部座席の扉を開ける。無言で降りた颯斗は、ビルを見上げた。
後を追おうとしたその瞬間――
「きゃあっ」
ヒールの踵が穴に引っかかり、体が傾く。思わず目をつぶり、衝撃を覚悟した。
「危ないっ!」
寸前で颯斗が支え、二人は抱き合うように地面へ倒れ込む。
(あれ……痛くない?)
(間に合った……って、なんで俺は一瞬ドキッとしたんだ?)
「ちょっと!」
頭上から、女性の怒りに満ちた声が響いた。
コメント
7件
あらやだっ颯斗ドキッとしちゃって🤭まったく興味ないくせに〜🤭 どちらの会社もなんか問題ありあり。美玲ちゃん心配だわ。 それに誰?噂の我儘お嬢様?