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第30話:僕は従わない
午後5時50分。
空は濁った人工の雲に覆われていたが、
西の端にだけ、ほんのわずかに陽が差していた。
ミナトはひとり、旧中央駅跡の屋上に立っていた。
制服のジャケットは脱ぎ、シャツの袖をまくり、
風に舞う詩の紙片を、胸のポケットに差し込んでいた。
その足元には、街から拾い集めた言葉の断片たち。
壁の落書き。
ノートの切れ端。
子どもの文字。
老人の手書き。
ナナの声。
自分の過去の詩。
それらすべてを持って、
彼は、たったひとつの言葉を読む準備をしていた。
《SOLAS》はすでに彼の位置を把握していた。
上空にドローン。
足元には感情感知ユニット。
街のスクリーンには、警告メッセージが点滅している。
「この人物は、非許可表現を実行中です。
現在、言語停止命令に違反しています。」
ミナトは目を閉じる。
これまでのすべての詩が、心の奥で静かに燃える。
祖父の言葉。
ナナの勇気。
心を動かした仲間たちの沈黙。
誰にも届かないようで、確かに広がっていった“声なき声”。
そして彼は、静かに口を開いた。
何も飾らず、何も説明せず、
ただひとことだけ。
「僕は従わない。」
その瞬間、警告は鳴り止んだ。
街のモニターがブラックアウトし、
風の音だけが残った。
AIは“異常”を検知したが、
その言葉自体に“違反点”をつけることはできなかった。
なぜなら、それは感情でも思想でもない、ただの自己の肯定だったから。
次の日。
駅の掲示板の隅に、手書きの文字が現れた。
「わたしも、
わたしでい続けるために――
従わない。」
誰が書いたかはわからない。
でもそれが、
ミナトが読んだ言葉に“続いた”ものであることは、
誰もが知っていた。
そして、詩の炎は形を変え、
静かに、確かに、次の誰かへと手渡されていった。
それはもう、運動でも、反抗でもない。
ただ、人間であることをやめない、という選択だった。
――終わりではなく、はじまりへ。
詩のない世界に灯された、たったひとつの言葉。
『僕は従わない』
完。