チョモの激しい嗚咽が収まり、呼吸が落ち着いてきたのを確認すると、藤澤はその背中を撫でたまま、優しい声で語りかけた。
「咳落ち着いてきたね、良かった」
チョモは何も言わずに俯いている。
「…ごめんなさい、もう大丈夫です」
迷惑をかけた。そう思い、俯いていた顔を上げて、無理やり笑顔を作る。すると若井が、痛々しいものを見るかのような顔をしたあと、静かに尋ねた。
「…あのさ、泊まるの躊躇ってたけど、何か理由があるの?」
その声は、チョモを責めるような響きは一切なく、ただ彼の心に寄り添おうとしているのが伝わってくる。
「……えっと……その……」
チョモは、焦りながらも言葉を探す。彼の脳裏には、複数の理由が駆け巡っていた。まず、急に知らない人の家に泊まることへの、強い抵抗感。そして、自分たちがあのチャンネルに出ていた人間だとバレてしまうかもしれないという恐怖。さらには、親や身近な人間に裏切られたことで、人間不信になっていること。
それでも、こんなにも優しく接してくれる彼らを、信じたい気持ちもある。しかし、まさか「貴方たちを信じられないからです」なんて、口が裂けても言えるはずがない。そんなことを言ったら、彼らの親切を無碍にすることになる上に、もしかしたら怒って何かされるかもしれない。
チョモは、言い淀み、視線を泳がせる。その様子を見た藤澤が、チョモの顔を覗き込み、優しい声で促した。
「大丈夫だよ、正直に言っていいよ」
その声は、チョモの心を解きほぐすようだった。藤澤は、さらに続ける。
「もしかして、知らない人の家に泊まるのが怖かった?」
その言葉は、チョモの抱えていた感情を、的確に言い当てていた。
ゆっくりと頷く。その通りだ。理由は他にも色々とあるけれど、それは間違いなく本心だった。無理に笑顔を作っていた顔から、ようやく緊張が解け、素直な表情が浮かぶ。
藤澤は、その様子を見て、ほっとしたように、先ほどより明るく話しかける。
「そうだよね。急に知らない人の家に泊まるって、不安だよね。怖いって思うのも当然だよ」
この人は、自分の気持ちを否定せず、そのまま受け止めてくれる。その安心感が、チョモの心をじんわりと温かくした。若井も、チョモの頭をそっと撫でてくれる。
「大丈夫。俺たちは、君に何も怖いことしないからな」
彼らの優しさに、チョモの固く閉ざされた心の扉が、少しずつ開いていく。
そして、藤澤は、さらに一歩踏み込んで、チョモの心の奥にある感情を探るように、問いかけた。
「ねぇ、君は、さっき言い争いになっちゃったあの子に対して、どう思ってる?」
藤澤の視線が、チョモの瞳を真っ直ぐに捉える。
「……」
チョモは、考えるように視線を落とす。砂鉄に怒鳴られたこと、自分の気持ちを分かってもらえなかったこと。色々な感情が、チョモの心の中で渦巻いていた。どう、と言われても複雑過ぎて言葉には表せなかった。
逡巡している様子を見た藤澤は少し考えたあと、言葉を続けた。
「もし、何か言いたいことがあるなら、聞かせてくれないかな? 君が、あの子とどうしたいか、話せる範囲でいいから、教えてほしい」
藤澤の声は、あくまで穏やかだった。彼らの間には、砂鉄がいない今だからこそ、話せるような、特別な空気が流れていた。若井も、チョモの傍で静かに耳を傾けている。
頭の中では、砂鉄に対する複雑な感情がぐちゃぐちゃに絡み合っている。怒り、悲しみ、そして、それでも砂鉄を信じたい、仲直りしたいという気持ち。それらが混ざり合って、どう言葉にすればいいのか、全く分からない。
「うーん……」
チョモは、唸ってまた俯いた。
藤澤は、そんなチョモの様子を見て、優しく背中をさすりながら、再び問いかけた。
「ぐちゃぐちゃになっちゃって、よく分かんない?」
その言葉に、チョモはこくりと頷いた。今度も、藤澤の言う通りだった。自分の感情が、あまりにも複雑すぎて、自分でも整理がついていない。
「そっか。それでも、大丈夫だよ」
答えになってない返答にどんな返しをされるかと思ったが、今度も自分の感情を否定せず、そのまま受け止めてくれる。 砂鉄がこの人たちを信用してもいいと判断した理由が、少しだけ理解出来たような気がした。
だが、ぐちゃぐちゃな気持ちの中でも、チョモの心には、はっきりと決まっていることが一つだけあった。
「……でも、仲直りしたい」
掠れた声で、そう呟いた。その瞳には、強い意思が宿っている。
藤澤は、その言葉を聞くと、安心したように笑った。
「うん。分かった。仲直りしたいんだね」
「じゃあ、戻ってきたら、話してみるか」
若井が続ける。二人の、無理強いすることなく、こちらのペースに合わせてくれているのが心地よかった。チョモは、二人の言葉に、小さく頷く。まだ不安はあるけれど、砂鉄と向き合う勇気が、少しだけ湧いてきたような気がした。
一方、その頃…
マンションの廊下に出ると、先ほどまでの騒がしさが遠ざかり、少しだけ砂鉄の頭が冷えた。チョモから離れたことで、張り詰めていた怒りの感情が、じわじわと落ち着いてくるのを感じる。
大森が、エレベーターのボタンを押した。静かにエレベーターが下がり、一階に着くと、そのまま自動ドアから外に出る。夜の空気は、思っていた以上にひんやりと冷たかった。砂鉄は、身震いする。
大森は、何も言わずに一歩先を歩き出した。砂鉄は、その後を追う。ほとんど無言のままの空間に、砂鉄は心臓がギュッと締め付けられるような緊張を感じていた。
(怒ってる…うるさくしたから……)
家にお邪魔してもらっているのにも関わらず、自分は怒鳴り散らしてしまった。チョモにも、ひどいことを言ってしまった。そんな後悔と、大森から何を言われるのかという不安が、砂鉄の心を渦巻く。
数歩歩いたところで、砂鉄は意を決した。
「……うるさくして、ごめんなさい」
俯いたまま、絞り出すような声で謝った。
大森は、砂鉄の言葉を聞くと、ゆっくりと足を止めた。そして、砂鉄の方を振り返る。彼の表情は、暗闇に溶け込んでいて、よく見えない。
「別に、怒ってないよ」
大森の声は、いつもと同じ、落ち着いたトーンだった。しかし、その言葉は、砂鉄の想像とは全く違っていた。
「ただ……それだけ心配だったんだなって思った」
大森は、静かに、そう続けた。彼の言葉は、砂鉄の怒りを責めるのではなく、その根底にある「心配」という感情を汲み取っていた。
「君の言葉は、あの子には責められてるように聞こえたかもしれないけど、それだけ、あの子を大切に思ってるんだなって」
砂鉄はようやく大森と目線を合わせることが出来た。彼の瞳には、非難の色は全くなかった。
砂鉄は、何も言えなかった。彼の言葉が、心の奥底に染み渡る。自分が、どれほどチョモを心配していたか。そして、その心配が、疲労とストレスで歪んで、ああいう形になってしまったことを、大森は全て見抜いていたのだ。
大森は、再びゆっくりと歩き出した。砂鉄も、その隣を歩く。夜の冷たい空気の中、二人の間に、ようやく穏やかな空気が流れ始めた。
静かな夜道に、二人の足音だけが響く。砂鉄は、大森の言葉を反芻していた。自分の怒りを、「心配」と捉えてくれたこと。その優しさに、砂鉄の心が少しずつ解れていく。
「……でも、あそこまで言うつもりは、なかったんです」
砂鉄は、ポツリと呟いた。
「言い過ぎたって、思います」
そう言いながら俯いた。チョモの傷ついた顔が、脳裏に焼き付いている。
しかし、同時に、砂鉄の心には、もう一つの本音があった。
「……けど……全部、思ってたこと、ではあるんです」
チョモがもっと早く体調を訴えてくれていれば、こんなことにはならなかったのに。なぜもっと頼ってくれなかったのか。その苛立ちは、確かに砂鉄の本音だった。綺麗ごとだけでは片付けられない、複雑な感情が砂鉄の心を占めていた。
大森は、砂鉄の言葉を、ただ静かに聞いていた。そして、再び立ち止まり、砂鉄の方に向き直った。彼の表情が、今度ははっきりと見える。
「うん。分かるよ。」
大森の声は、変わらず落ち着いていた。彼の瞳は、深く、まるで砂鉄の心の奥底を見透かすかのようだった。
「誰だって、ああいう状況になったら、色んな感情がごちゃごちゃになるものじゃない?心配な気持ちが大きすぎて、それが怒りになることもあるし。疲れてる時は特にさ、」
彼は、砂鉄の行動を肯定し、それが人間として当然の反応だと言うかのように、言葉を続ける。砂鉄の心にあった、自己嫌悪の感情が、少しずつ薄れていくのを感じた。
「だから、君が、その子を大切に思ってるってことは間違いない。それだけは、俺にも分かるよ」
大森は、そう言って、砂鉄の肩をポンと軽く叩いた。
砂鉄は、大森の言葉に、何も言い返せなかった。ただ、彼の目を見つめたまま、涙がにじむのを感じた。この人は、自分を責めず、むしろ理解し、受け入れてくれた。砂鉄は、これまでの人生で、こんなにも深く自分を理解してくれる人間に出会ったことがなかった。形容しがたい暖かいものが砂鉄を包み込む。
マンションの周りを一周し、再びエントランスが見えてきた。砂鉄の心は、先ほどよりずっと落ち着いていた。しかし、マンションの入り口が近づくにつれて、足どりが何となく重くなった。リビングでは、まだチョモが泣いているかもしれない。また、気まずい空気になるのは嫌だった。それに、チョモがあんなに泊まるのを嫌がっていた理由も、まだ砂鉄には分からない。
砂鉄の歩みが遅くなったことに気づいた大森が、隣でそっと足を止めた。彼は砂鉄の様子をじっと見ている。
「入りにくい、かな」
大森の声は、静かだが、砂鉄の心をそのまま言い当てていた。砂鉄は、はっと顔を上げる。
「大丈夫だよ」
大森は、優しく続けた。
「中で、二人が話を聞いてくれてる。向こうも、もう落ち着いてると思う」
大森は、砂鉄の不安を察して、安心させるように語りかけた。
「あとは、君の言いたいことも、きっと伝わる」
大森は、砂鉄の目を見つめ、そう言った。彼の言葉には、先ほどの言い争いが、決して無駄ではなかったというメッセージが込められているようだった。感情をぶつけ合ったことで、お互いの本音が見えてくることもある。大森は、そんなことを言外に示しているようだった。
砂鉄は、大森の言葉に、少しだけ勇気づけられた気がした。まだ不安はあるが、一人で抱え込むよりも、この人たちを頼って良かった。そう思えるようになっていた。
二人は、再びゆっくりと歩き出し、マンションのエントランスへと向かった。
〜〜〜
最近寒暖差が激しいですね…!
皆さんも体調にお気をつけください…
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天才か何かですか?