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かんな
あかね ♛❤️♛
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出勤するなり、ナースステーションは奇妙なざわつきに包まれていた。
同僚たちの視線が、一斉に自分の方を向く。一体何事だろうか。
不思議に思っていると、いきなり背後から声が飛んできた。
「安住さん、おめでとう!」
駆け寄ってきた彩美の弾んだ声に、穂乃果は目を瞬かせた。
「え……?」
「え? じゃないよ。もう、水臭いんだから。聞いてるわよ、真鍋先生と正式に婚約したんでしょ?」
彩美はニヤニヤと意地の悪いほど明るい笑みを浮かべ、穂乃果の肘を小突いてくる。
「ねぇ、いつから付き合ってたの? 全然気づかなかったんだけど」
「はぁ……?」
完全な不意打ちだった。あまりの脈絡のなさに、声が裏返る。
周りを見渡せば、同僚たちがこちらをちらちらと見ては、「やっぱり本当なんだ」と確信に満ちた囁きを交わしていた。
「なに言ってるの、彩美ちゃん。私、そんな話一度もしてないけど?」
「えぇ? でも、真鍋先生に聞いたら照れくさそうに笑ってましたよ? みんな噂してるし」
(――……直樹……)
胃の奥に、泥を流し込まれたような不快感が広がる。
一体どういうつもりだろうか。自分の中ではとうに見限っているし、あの男のところに戻るつもりなんて、もう一ミリも残っていないのに。
勝手に作り上げられた「幸せな結末」が、病棟の淀んだ空気の中で一人歩きしていく。
「いいなぁ、安住さん。真鍋先生って言ったら、研修医の中でも一番人気じゃないですかぁ。ちょーっと短気なところもあるけど、爽やかだし、イケメンだし……羨ましい。最近、急に綺麗になったのって、やっぱり彼のためなんでしょ?」
「いや、これは――……」
否定しようとして、ふと言葉に詰まった。
まさか、「女装してバーに立つ三十二歳の男性に叩き込まれました」なんて、口が裂けても言えない。
その事実を伏せたままでは、どんな弁明も「照れ隠し」や「謙遜」として処理されてしまう。
「まぁ……色々あってね」
曖昧に濁すしかなかったが、そんな穂乃果の態度を肯定と捉えたのか、彩美はさらに盛り上がる。周囲からも「ヒューッ!」という、無遠慮で茶化すような歓声が上がった。
「はいはい。浮ついた話はそこまで。申し送り始めるわよ」
同僚たちの嬌声に辟易していると、師長の鋭い声が飛んだ。ようやく質問攻めから解放され、穂乃果は胸に溜まった毒を吐き出すように、小さく溜息をついた。
(あの男、一体何を考えているの……?)
元々、付き合っていることを伏せようと言い出したのは直樹の方だった。「バレるとお互い仕事がしにくいだろうから」というもっともらしい言い訳を、当時の自分は信じていた。
けれど、実態は違ったのだ。同棲中の部屋に別の女を連れ込み、そのベッドで平然と肌を重ねる。そんな最低な男との関係など、公表する価値もない。付き合っていた事実すら、記憶から抹消したいほどなのに。
(今さら婚約だなんて、虫が良すぎる……)
直樹が職場で「幸せな婚約者」を演じれば演じるほど、穂乃果が何を言っても「照れ隠しの謙遜」として処理されてしまう。この、逃げ場のない外堀の埋め方こそが、直樹という男の執着そのものだった。
(今すぐにでも訂正しておかないと。……せめて、ナオミさんのお店に行く前には)
ナオミにかけられた魔法を、直樹という泥で汚されたくない。その一心で、穂乃果は頭痛のするこめかみをぐりぐりと指で圧迫した。
ここは戦場にも似た病棟だ。私情を爆発させるわけにはいかない。
穂乃果は深く、深く溜息をつき、ナースとしての仮面を被り直した。