テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
病棟を巡回中、患者のカルテを確認していると、視界の端に影が落ちた。
「穂乃果!」
振り返ると、白衣を翻した直樹が立っていた。首から下げた聴診器を揺らし、研修医らしい爽やかな笑みを浮かべている。かつては好きだったその笑顔が、今はひどく不気味な仮面に見えた。
「……真鍋先生、お疲れ様です」
努めて事務的に、壁を作るような声で返した。
「酷いな。そんな他人行儀な言い方、止めろよ」
「別に。……私たち、他人でしょう? そんなことより、どうしてあんな噂を流したの? 迷惑だからすぐに訂正して」
声を低く沈めて牽制したが、直樹はどこ吹く風で、飄々と肩をすくめてみせた。
「はぁ? 事実だろ。俺と穂乃果が結婚するのは時間の問題じゃないか」
「……結婚も何も、もう終わった話でしょう?」
「別れてない」
迷いのない、断定的な口調。
「……は?」
「穂乃果が一方的に言ってるだけだ。俺は認めてないから」
「自分の非を棚に上げて……信じられない……」
「何が非だよ。誤解だ、誤解」
直樹は余裕たっぷりに笑い、少しだけ距離を詰めてきた。
病棟の消毒液の匂いに、彼が愛用している微かなシトラスの香水が混ざる。その清潔感すら、今は吐き気がするほど空々しい。
「機嫌を直せよ。もう、あのマンションに帰ってきてもいいんだぞ? 洗濯物も溜まってるし、お前のメシが恋しいんだ」
どこまでも自分が被害者で、穂乃果が「ちょっと拗ねているだけ」だと思い込んでいる。
その歪んだ自信に、穂乃果は背筋が凍るような寒気を感じた。
この男にとって、自分の犯した裏切りは、もう「なかったこと」に分類されているのだ。
「……知らないわよ、そんなの。アンタが必要としてるのは、私じゃなくて都合のいい家政婦でしょう? 大体、そんなにやって欲しいなら里奈にでもやらせればいいじゃない」
堪えきれず漏れた言葉は、自分でも驚くほど冷たく、鋭かった。
けれど、直樹は反省するどころか、心外だと言わんばかりに顔をしかめた。
「あのなぁ、なんでそこで斎藤さんが出てくるんだよ。穂乃果、親友を悪く言うなんてどうかしてるぞ」
諭すような、慈悲深いとさえ思っていそうなその口調。
穂乃果の心の中で、何かがパチンと弾ける音がした。
本当は今すぐ、その身勝手な口を塞ぐほど怒鳴り散らしてやりたい。けれど、ここは静寂を尊ぶべき病棟だ。患者や家族の目が光る場所で、こんな低俗な私情を撒き散らすわけにはいかない。看護師としての矜持が、かろうじて穂乃果をその場に繋ぎ止めていた。
「……私に構わないで。お願い」
溢れ出しそうな怒号を喉の奥に飲み込み、震える声を押し殺した。
それだけを言い捨てると、逃げるように踵を返す。
去り際にちらりと振り返った視線の先で、直樹がまた何か言いかけた唇を歪めたのが見えたが、もう知るものか。
遠ざかる背中に投げられた視線が、まるで腐った泥のように粘ついていて、ぞっとする。
公の場であることが、今の穂乃果にとっては唯一の防波堤だった。
もしここが、あのマンションの閉ざされた部屋であったなら。二人きりの沈黙の中であったなら。
穂乃果は間違いなく、彼が「誤解」と呼ぶその傲慢な顔に、力任せに掴みかかっていただろう。
かんな
あかね ♛❤️♛
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!