コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
色を重ねていく。灰色の曇り空に晴れ間を探して、青を付け足す。果てることの無い空を旅する雲を描き連ねて、唐突に、終わらせる。その下にはこれもまた果てなど知らないような稲穂畑を見たままに描く。描いて、描く。 完成したのは、ありふれた風景画。どこの美術館にも飾ってない、どの画商でも売っていない、男の生命を削った絵だ。
男は、ただの絵描きだった。画家なんて大層なものでは無く、万年貧乏な絵描きだった。ふた月に1枚売れるかどうか、それも1枚が二万円もしないくらいの値で、凡百の中に混ぜればまず間違いなく埋もれていく。
男の絵を見た人々はこんな絵は見たことがない、これは何の冗談か、とそう鼻で笑った。そして笑われる度、男は深く没頭した。
バイトを4つ掛け持ちしてどうにか生きてはいるが、それもいつまで続くか分からない。それでも男は至って絵描きだった。
「売れることが目的じゃない。良い絵を描きたい。」
それが男の信条だ。だから、男は自身が美しいと思うものを描き続ける。風にそよぐ草花、山粧う紅景色、銀箔の雪明かりといった自然ばかりではなく、雨の降る日の閑散とした商店街や、西陽が射し込む図書館までも。理由も無く
、美しさを感じては描き、何度も何度も描いた。それを続ける内に辞められなくなっていって。ダラダラと28にして未だ定職にすら付けずに、絵描きで在り続けた。
少し冷える梅雨の日のことだ。男はまた、家の近く、雨のせいか否か、人の姿は見えない商店街を闊歩していた。何度来ても美しく感じてしまうのはきっと、この美しさを絵に捉えきれていないからだと思い込んで、男は何度でも描きに来ていた。
キャンバスを張って、安物の絵の具と筆を出す。美大に五度落ちて親に見捨てられた貧乏人には精一杯の代物だ。
万が一にでも濡らさぬように雨漏りしている商店街の屋根の無事な所で描き始める。しかしそれも、雨が激しくなるまでの話。ぽつりとちらつく雨は次第に強くなって、我先にと屋根の穴に押し入ってくる。
そろそろ帰るか、なんて男の思考は、真後ろより少し斜めから投げかけられた声に塗り潰された。
「素敵な絵ですね。こんな絵は見たことないわ。」
今までに幾度となく聞いた嘲りの言葉が初めて、男の中で称賛に変わった気がした。振り返ると、そこには純朴そうな瞳で男と男の絵を眺める女がいた。女は蔑みを一切も含めない微笑みで続ける。
「でも、雨に濡れてしまってはいけないわ。もし良ければ、うちの店で雨宿りでもして行かないかしら。少し話をしましょう。」
男は自分の絵を褒めてくれた彼女の花屋へと、快く入っていく。男は他人の温もりに触れて、喜びに満ちている。女は余裕を取り繕って、紅潮を懸命に抑えている。そして雨は―、雨だけが、そんな二人を見失って、目的も知らずにただ降り続けていた。
梅雨が通り過ぎた頃には、二人は恋仲になっていた。一つ同じ四畳半の内、互いに収入はささやかで、慎ましく幸せを噛み締める生活を送っていたのだ。悲しみは半分に、喜びは倍にして。ありきたりが何より嬉しくて、普通に喧嘩もしたし、わだかまりをぶつけ合った。いつも隣には相手がいて、金では買えない今を共に生きていた。
女は、男の横顔が好きだった。絵に対する真摯な姿勢が好きだった。悩むと虚空を見つめて、たまに自分と目が合うと笑ってくれる男が好きだった。そうして出来上がる、普通な男の平凡な絵が、一番好きだった。
男は、女の優しさに惚れていた。いつまでも大して金にならないで、女に贅沢もさせてやれない自分を抱き止めて、自分の絵を好きでいてくれる女に、その優しさに、心底惚れていた。それと同じくらい、自分を蔑んだ。
夏真っ盛りのある日。そういえば、とふと、男はカレンダーに目をやる。女の誕生日が来月に迫っていた。
―何か喜ばせてやりたいな、たまには。
男は絵を描くこともやめて、女を喜ばせる方法を何通りも考え始めた。しかし、どれもこれも、実現するだけの金が無い。それでも男はとにかく考えて、筆を三日間全く取らなかった。そんな男の様子を、女は寂しげに眺めているだけだった。
それから男は金を作ろうと、大衆受けするような、金になるような絵を描くようになった。近場のショッピングモールでは似顔絵を描いて、可愛い女性や動物を描いた。
元々、模写が上手いからと絵を描き始めた男の売れるための絵は飛ぶように売れた。こんな絵は見たことない、と人々は称賛した。男には金が入ってきて、ついには四畳半を引っ越した。男は、ようやく少し、自分のことを許せるようになった。
―誕生日になったら、指輪を買ってプロポーズしてやろう。
女の誕生日が近づくにつれて、男は女といる時間が減っていった。それは男にとっては大きな問題ではなかったが、女は、前よりも辛く寂しそうに、やはり男を眺めているだけだった。
女の誕生日、当日。男は、いつものように仕事に向かうフリをして、指輪を買いに行った。
―きっと、喜んでくれる。
ぽつり。期待に胸を弾ませる男の鼻先を雨粒が掠めた。辺りはいつの間にか暗くなって、本格的に夏の終わりを感じながらも、男は寂寥感の類は持たないで有頂天のまま家に帰って来た。
―どのタイミングで渡そうか。
男の胸中はその事ばかりが占めていて、リビングに着くまで女の気配が全く無いことに気付けない。
家のどこにも、女は居なかった。理由も分からず、ただ女が居ないという事実だけがその場にはあった。何故かと自問しようとも答えは出ない。
ふと、茫然とする男の目に、一枚のメモ用紙が映った。
「こんな絵は見たくない。」
それが書き置きの全文で、男の愛情表現に対する女の回答だった。途端に男の視界は、セピア色に染まった。
最愛の女に拒絶を突き付けられた男は、初めのうちは女を憎んだ。
―あんなに傍に居てくれたのに。弄んだのか。
だがそれも短い間。すぐに男は一度愛した女を憎みきれない自身の性分を泣きながら呪った。泣いて、泣いて、彼女が飾った花と一緒に男の涙も枯れてしまった。
そして呪うことにも飽きた時、男は久々に筆を取った。
―俺は思い違いをしていたんだ。そもそも人に愛されるなんて出来るわけないじゃないか。俺は、絵描きなんだ。
完成したのは、ありふれた風景画だった。大衆受けもしないし、金にもならない。しかし、たった一人のある女に愛してもらえる、男にとっては億千万の価値のある作品だ。
―これが、俺の最高傑作で良い。
描き上がった時、男の視界はようやく色を取り戻した。暗い中で唯一色褪せなかった日々も、より一層輝きを増していた。世界はかくも美しいものか、と流した男の涙にはその本人すら、あるいは世界すらも気付かなかった。ただ、庭に咲いた一輪の花だけがその涙に気付き笑った。
数年後、男は個展を開いた。規模は小さく、客も来ない。一番目立つ所に、あの日描いた雨の日の商店街を置いて、題を「貴女へ、私より。」とした。
五日間、開催して、男以外に客は二人しか来なかった。それも、本当に暇になったから何となく来た客だ。特に感激した様子は無かったが、男は満足していた。
―誰かに俺の絵が届いた。それでいい、いや、それが良いんだ。
最終日。もう終わろうかという時に降り始めてきた雨は、あの日と同じように少し冷える。
―あぁ、これで終わるんだな。
個展の五日間を思い出しながら、男は珍しく感傷に浸っていた。柄でもなくあの絵を見て泣きそうになって、慌てて抑えた。
「素敵な絵ですね。こんな絵が、また見たかったわ。」
真後ろより少し斜め。深く胸に刻まれた耳障りの良い声が、男の感傷的な心を塗り潰した。男の鼓動は次第に速くなって、男は振り返るのを一瞬躊躇った。
「良ければ、貴方の絵を、貴方をもっと見せて欲しいのだけれど。」
もう、男は躊躇わなかった。男が振り向くと、そこには見慣れた女がいた。
「ただいま。」
不意に口を出た言葉は、男の紛れようのない本心だ。そんな男の言葉を、女は数年分の情愛を含んだ微笑みで返す。
「ええ、おかえりなさい。ただいま。」
そのありきたりな物語を、雨だけが眺め続けていた。