テラーノベル
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図書室での震えがいつ収まったのか、覚えていない。
気付けば、僕の足元の空間がぐにゃりと歪んでいた。視界の端に浮かび上がった赤いデジタルタイマーが、【04:00】からカウントダウンを始める。
また、始まったのだ。
転送された先は、ひどく埃っぽい、不気味な学校の廃校舎だった。
割れた窓ガラスから、赤い月明かりが差し込んでいる。廊下には机や椅子が散乱し、空気がカビと鉄錆の匂いで満ちていた。
このゲームでは、試合開始時に各サバイバーはマップ内のランダムな位置に転送される。キラーの初期位置からは遠ざけられるようだが、誰がどこに飛ばされるのかは完全に運次第だ。
視界がクリアになると、僕の隣には迷彩服の頼もしい背中があった。
「……今回は、あなたと同じスポーンポイントのようですね」
「はい。ゲストと初期配置が被ったのは幸運です。僕のセンサーはすでに周囲の警戒モードに移行しています」
僕は丸眼鏡を押し上げ、いつものように冷静な声音を作って答えた。
そう、いつもの通りだ。僕と、ゲストのペア。前衛と、後方支援。二人でマップを探索し、他のメンバーと適宜合流を図る。完璧で論理的な生存戦略。
けれど、僕の心臓はさっきから嫌な警鐘を鳴らし続けていた。他の仲間たちと離れ、静まり返ったこの廃校舎の空気が、あまりにも『知っている匂い』に似ていたからだ。
「未知のマップですね。まずは、地形の把握から――」
『…………』
不意に、廊下の奥から足音が聞こえた。
いつもなら、キラーの接近には狂気じみた笑い声やチェーンソーの駆動音、地響きのような足音などの分かりやすい兆候がある。だが、今回接近してくる『それ』には、一切の音がない。
ただ、ひどく静かな、上履きがリノリウムの床を擦るような音だけが、等間隔に響いてくる。
「……来ます。下がって」
ゲストが両腕をクロスさせ、自身の屈強な肉体を盾にする構えをとる。
暗闇の中から姿を現したのは――キラーだった。
だが、その姿を見た瞬間、僕の思考は完全に停止した。
「……え?」
バグのノイズの向こうに浮かび上がったのは、見覚えのあるシルエットだった。
ダッフルコート。
全身が赤黒い血でひどく濡れ、重く垂れ下がっている。
キラーが動くたびにフードが揺れ、裏地のチェック柄が見えた。
僕と、同じだ。
キラーが一歩、踏み出す。
血の足跡が、床に残る。そのたび、甘い紅茶の匂いが漂った。
――いや、違う。ひどい腐臭だ。でも僕の狂った脳には、それが喉が焼けるほど甘い紅茶の匂いに感じられた。
その匂いが、僕の心臓を直接削り取った。
キラーが、ゆっくりと首を傾げる。
深く被ったフードの奥から覗いたのは、割れた丸眼鏡だった。
片方のレンズがひび割れ、そこから赤い血が伝い落ちている。右手には、赤黒い血が滴る鋭いナイフが握られていた。
「っ……未知のキラーか! Faux、一旦退避だ! 合流するぞ!」
「あ……」
走れ、と指令が飛ぶ。彼岸の戦場において、ゲストの判断は常に迅速で正しい。
けれど、僕の体は、脳の命令を完全に拒絶していた。
ガタガタと奥歯が鳴り、指先がひどく冷たくなる。蛇に睨まれた蛙のように、血まみれのダッフルコートから目を逸らすことができなかったのだ。
「Faux! 動け!!」
呆然と立ち尽くす僕の腕を、ゲストが強引に掴んで走り出す。
引きずられるようにして廃校舎の廊下を逃げる。背後からは足音すらない。しかし、血まみれのダッフルコートのキラーは、異常な速度で滑るように追いかけてくる。
ドクン。
熱を持った眼鏡を通して、視界にノイズが走る。
――埃っぽい部室の匂い。
――『風邪、引くよ』。そう言って、寒がっていた僕の肩に、大きめのダッフルコートをかけてくれた日のぬくもり。
「あ……ぁ、あ……っ」
息ができない。喉の奥から、僕のものではない、誰か知らない少女の嗚咽が漏れ出す。
「ちが、違う。僕は……僕は、完璧な……っ」
アイデンティティが揺らぐ。
僕が完璧に構築していたはずの『クールな人間』という大前提が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。
『……ジ、ジジ……』
「くっ……速すぎる!」
じりじりと接近するキラーを横目に見て逃げ切れないと悟ったのか、ゲストは素早く反転し、僕を背後に庇うようにして両腕を前に出した。
その直後、血まみれのキラーが振り下ろしたナイフが、ゲストの腕に激突した。刃物から発せられるとは思えない、凄まじい衝撃音。
そして、ブッチャッという生々しい音と共に、ゲストの迷彩服が赤く染まった。
「ぐっ……!」
「ゲスト……!」
命のデータを直接削り取ってくるような、異常なダメージ。
キラーが、無慈悲に二度目の刃を振り上げる。
「……Faux。支援を。体勢を立て直す」
腕からドクドクと血を流しながらも、ゲストの声は冷静だった。
僕は震える手で、ポケットから端末を取り出した。
「『Vital Sync』……っ!」
これで、いつものように回復できる……はずだった。
『エラー:デバイスの深層ファイルで深刻なコンフリクトが発生しています』
『システムに制限がかかっています』
画面には、真っ赤な警告文が無数に表示されていた。
「嘘……なんで、接続してよ……っ!」
画面を何度も叩くが、回復の緑色のラインは現れない。
このイカれた世界では、死んでも本当に命を失うわけではない。死体は一定時間で霧散し、サバイバーハウスで目を覚ます。そのことは、ここに来てからの数日で嫌というほど学んだ。
頭では分かっている。
でも、だからといって。目の前で、僕を庇ってくれた人が血を流し、死の苦痛を味わいながら冷たくなっていく光景は、もう二度と見たくなかった。
『……ジ……』
キラーが、無慈悲な連撃を放つ。
三度、四度、五度。血に塗れたナイフが、嵐のようにゲストに降り注ぐ。
それでもゲストは、僕の前に立ち塞がり、両腕を上げたまま一歩も退かなかった。
「……Faux。聞け」
五度目の斬撃を受けながらも、ゲストの声は不思議なほど冷静だった。
「こいつはお前しか見ていない。私は、ただの『障害物』だ」
百戦錬磨の軍人である彼は、自身の命を削りながら、目の前の異常なキラーと、背後で震えるFauxの様子を分析していた。
そのキラーの視線はゲストにではなく、その後ろで震えているFauxに完全に固定されていた。ゲストが防御しても、彼女への攻撃の軌道上にいるゲストを機械的に排除しようとしているだけだ。
そして何より、普段は虚勢を張って「計算通りだ」と嘯くFauxが、異常なほど取り乱し、過去の亡霊を見るような目でキラーに怯えている。
ゲストは、このキラーとFauxの間に『浅からぬ因縁』があることを、即座に見抜いていた。
「Faux。……これは、『お前のラウンド』だ」
再びナイフが振り上げられる。六度目の一撃。
「合理的に考えろ。私を守るな」
一瞬の間。
死を目前にした彼岸の戦士が、僕に向かって鋭い視線を向けた。
ついに六度目の深い斬撃が叩き込まれた瞬間、不屈の軍人はゆっくりと床に崩れ落ちた。
タイマーはまだ、【01:45】を残していた。
盾を失った僕の前に、血まみれのキラーがゆっくりと歩み寄ってくる。
その時、キラーの顔を覆っていた黒い靄が、一瞬だけ晴れた。
『……寒いだろ』
ひどいノイズに塗れた、歪んだ声。
その言葉を聞いた瞬間。
ダムが決壊するように、デバイスの深層に厳重にロックされていた『僕になる前の私』の全ての記憶が、濁流となって脳内に溢れ出した。