頭の後ろから扉を開ける音が聞こえ始めると、大和は目を覚ました。「う~ん」と伸びをするリョージの姿が右端に見える。大和が壁から背を離し、ベットから尻を離すと、鍵の束を手にしたチビスケが部屋の前にやってきた。チビスケは大和の部屋の錠を外すと、扉を開いた。大和はゆっくりとチビスケに近づいた。チビスケは枝分かれしたロープの端を大和の首輪に結び始めた。
──こいつになら勝てそうなんだが・・・。
大和は、ロープを結ぶチビスケを見下ろしながら思った。しかし、チビスケが左脇に付けている鉈に目をやると、思い浮かべた馬鹿な考えを頭の中から消去した。
外へ出た大和は、大きく息を吸い込んだ。部屋と外を隔てているのは、四角い穴だらけの檻なはずなのに、なぜか外の空気は一味違うように感じられた。大和は、久しぶりに味わう解放感に浸りながら、自由の香りがする外の空気を体中に浸透させた。
「大和、大丈夫か? お互い酷え顔になっちまったな」
左頬と額の半分が腫れ上がったユキジイが、ほとんど開いていない痛々しい左の眼で大和の姿を横目で見つめていた。
「だな。そんなんで、いけるのか?」
大和が痛みを堪えながら引きつった笑い顔を見せると、ユキジイは正面をこちらに向けた。顔の右半分は、大和の記憶にあるユキジイの顔のままだった。
「まけせとけ」
ユキジイはそう言うと、首を傾け大和の後ろを見つめた。
「リョージ、お前も行くんだろ」
ユキジイがリョージに声をかけると、大和は振り向きリョージの顔を見た。
リョージは黙ったまま大和とユキジイの顔を交互に見つめた。
「行くよ」
リョージはそう言うと、二人の視線から逃げるかのように顔を逸らした。
チビスケが全ての部屋の扉を開け終わり、最後の一人であるフォックス兄弟の兄が姿を現すと、大和達は体をチビスケの立つほうへ向けた。フォックス兄弟の兄はチビスケが「行け!」と首を左に振ると、ゆっくりと歩き始めた。けん引される車が、少し間をおいて動き出すように、弟そして一つ歯抜けてユキジイ、大和と歩き始める。チビスケは唯一の抜け穴である左角の前に立ち、偉そうに腕を組んでいる。完全に看守気取りだ。
大和は黙って静かに歩いていた。すぐ後ろにリョージの足音が聞こえる。前を歩くユキジイが二つ目の人間小屋の前まで進むと、大和は前との間隔を少し詰めた。
「ユキジイ、どうやってやるんだ? 部屋に戻される時にスルのか?」大和は尋ねた。
「まかせとけって言っただろ。黙って見てろ」
ユキジイはいつもとは違い、しっかりとした足取りで真っ直ぐに前を歩いていく。ユキジイの小さな背中からは、頼れる仕事人といった雰囲気が醸し出されていた。大和は、間隔を元に戻すと、ユキジイの背中を見つめ、邪魔だけはしないようにと気を配り始めた。
一周し、二周しても、ユキジイはただ歩き続けていた。三周し、四周目に入り、気を張り続けていた大和の集中力が低下し始めると、一つ目の人間小屋の前を過ぎた辺りで突然首が後ろに引っ張られた。前へと順番にその感覚が伝わって行く。訓練された兵士のように皆が同じ間隔をあけて足を止めた。そして、皆が一斉に後を振り向いた。
リョージと一つ間を開けた先にいる二人が、苦しそうに前かがみになっている。異様なほどのブヨブヨとした脂肪を全身に蓄えた二人の男は、歩き続けるのがしんどくなってしまったようだ。
「おい! さっさと歩けよデブ!」
先頭の兄ががなった。二人は汗だくになった顔を上げ、前を見ると、体を起こし足を引きずり始めた。皆が体を前に向けると、兄は再び歩き始めた。
「もう少し、ゆっくり歩いてやったらどうだ」
ユキジイは、先頭の兄にそう促したが、兄は歩く速度を緩めようとはしない。そのまま少し歩き、屠殺場の前を過ぎた辺りで、ユキジイが声を荒げた。
「おい、聞いてんのかよ、ウド!」
ユキジイが強い口調で言うと、兄は立ち止まった。兄は不愉快そうな顔をこちらに向けた。
「ゆっくり歩けって言ってんだよ。わかったかウド!」
ユキジイは、兄の神経を逆なでするかのように言い放った。
頬を引きつらせた兄は、弟の制止を振り切りながらユキジイに近づいてくる。
「おい、じいさん。お前、今何て言った?」
兄は歯を食いしばりながらそう言うと、その厳つい顔をユキジイの顔の前に近づけた。今にも殴りかかりそうな兄の勢いに、大和はたじろいだ。
「ゆっくり歩けって言ったんだよ。頭だけじゃなくて、耳も悪いのかウド」
ユキジイは目の前にある兄の顔に唾を飛ばしながら言った。完全に喧嘩を売っていた。いつもとは違うユキジイの言動に、大和は少し戸惑い振り向いた。それは後のリョージも同じようだった。
頭に血を昇らせた兄は、真っ赤な顔をしながら、両手でユキジイの胸座をつかみユキジイの小さな体を持ち上げた。
弟は、冷静な態度で「兄貴、やめろ」と兄の肩に手を置き、暴走しようとする兄の勢いを止める。兄は少し冷静になったのか、顎を上げたユキジイから顔を逸らすと、冷たく見つめる弟の顔を見つめた。兄はユキジイの胸座をつかんでいた手を緩めた。ユキジイの足が再び地に着いた。
「邪魔すんじゃねえよ」
ユキジイは何を思ったのか、弟の腹に蹴りを入れた。弟は顔を歪め、尻餅をついた。途端に兄の形相が変わった。兄の腕の筋肉が顔と同様に怒りを露わにすると、ユキジイの頭が大和の背丈を追い越した。大和の顔に降り注いでいた日の光が遮られる。
「離せ、このヤロウ」ユキジイは息苦しそうな声でそう言うと、宙に浮いた両足をジタバタと動かした。大和はとっさに二人の間に割り込もうと足を前に出した。するとユキジイの手の無い左腕が、動き始めた大和に「待て」と促した。ユキジイの横に回りかけていた大和は、二人の間で行われている事を目にし、躊躇った。
ユキジイの右手は、兄の首輪に伸びていた。相棒を失ったユキジイの右手は、もどかしそうに、首輪に結ばれたロープを緩めようとしていた。ふと見ると、地べたに座り込んだ弟は右手を首元にやり、チビスケに見えないように首輪のロープを慎重に緩めている。
とっさに三人の行動の意味を理解した大和は視線を左の角に向けた。チビスケが握り締めた棍棒を手のひらに打ち付けながら、こっちへと近づいて来る。大和は二歩ほど後ろに下がり持ち上げられているユキジイの体に身を隠すと「来たぞ」とぼそっとつぶやいた。
近づいて来たチビスケが、弟の背中を左ひざで軽く蹴る。弟は冷たい視線を右に逸らすと、ネクタイを弄る様に首輪を左右に動かし、地に手を着くとゆっくり立ち上がった。チビスケが兄の背後に近づくと、兄も視線を右に逸らした。兄は視線の先に顔を動かしながら、ユキジイの体を下ろした。胸座はまだつかんだままだ。チビスケは兄の右側から兄の前に回ると、血で黒く染まった棍棒で、兄の肩を小突いた。
「わかったよ」兄はそう言い、ユキジイから手を放した。チビスケは棍棒を振り「行け」と促した。兄は何事も無かったかのように歩き始めた。その後を追い、弟も歩き始める。ユキジイは右手で首をさすり、弟の背中を追い始めた。ユキジイの背中が遠ざかると、大和の首が前に引かれた。
「早く行きなよ」後ろから聞こえたリョージの言葉に、大和は従い歩を進めた。
──じっと見ていた。瞬きも忘れるくらいに、目の前で起こった全てをただ静かに注意深く、じっと見ていた。なぜだ。なぜ、何の行動も起こさなかった。
大和は、目の間にあるユキジイの背中に疑いの眼差しを浴びせた。
「うまく逃げろよ」
ユキジイの背中を見つめる大和の耳に、ユキジイの声が聞こえた。大和は顔を上げた。ユキジイの前にいた二人が、ロープを解き左の角へと走っていく。その先にチビスケはいない。大和が振り向き後ろを見ると、チビスケは、屠殺場の前を重い足取りで歩く二人を棍棒で「早く歩け」と威嚇していた。
兄弟の走る姿に気付いたチビスケは、とっさに走り出した。その走りは、ダチョウを思わせるかのような速さだった。大和は、土ぼこりを上げるチビスケの姿を目で追った。チビスケは、みるみるうちに左の角へと近づいていく。兄はもう倉庫の屋根に登っていた。弟はあと二回手足を動かせば鉄格子を登りきるくらいの所にいる。兄が近づいて来るチビスケの姿に気付き、その速さに驚いた様子を見せた。弟が右手を上にあげ、鉄格子をつかもうとした時、ジャンプしたチビスケの右手が、弟の右足首をつかんだ。兄は雨どいを右手でつかみながら左手を弟に差し伸べた。
弟は右手を兄の手に伸ばしたが、片手ではチビスケの重みに耐える事が出来ずに滑るように地面へと落下した。チビスケは上手く着地して、落ちてくる弟を素早く避けた。チビスケのその動きは尋常ではなく、近くで見ていたならば、おそらく何が起こったのか理解できなかっただろう。離れた場所から見ていても、何故そんな動きが出来るのかと思うほどだった。
背中から落ちた弟は、苦しそうに上体を起こした。弟は必死に鉄格子をつかむと、また上へと登ろうとしている。そんな弟を見おろしていたチビスケが腰に付けた棍棒に手をかけた。チビスケは手に持った棍棒を頭の上へと振り上げる。
「やめろ!」低く力強い声で兄が叫んだ。兄は叫ぶと同時に屋根の上から飛び降りていた。
その時、端の部屋の鉄格子の上のコンクリートが、突然小さく破裂した。砕けた破片がホコリと共に弾け飛ぶと、パーン! という甲高い音が森のほうから聞こえ、辺りにこだました。それは、ハンターが放った銃弾の仕業だった。あと少し、兄が飛び降りるのが遅かったならば、銃弾は兄の頭を撃ち抜いていただろう。
兄を見上げていたチビスケは、落ちて来る兄から素早く身をかわした。兄は両足で着地したが、その衝撃に耐えられずに膝をついた。うつむくような姿勢になった兄が歪めた顔を上げると、それを待ち構えていたチビスケが棍棒を振り下ろした。殴られた兄の顔が真横を向き、その口から血が飛び散った。兄は地に手をつきそうになったが、なんとか堪え、ムクりと立ち上がった。兄は弟を背で守る様に立ち構えると、間髪入れずにチビスケに殴りかかった。
身長190センチはあろうかという兄の振り下ろした重そうなパンチが空を切る。兄は怯まずパンチのラッシュをチビスケに向けたが、その全てのパンチが虚しく空を切った。
──いったい、何なんだこいつらは。
大和は、ただただ傍観していた。腕にゾワゾワと鳥肌が立った。兄のパンチが遅い訳ではなかった。その風貌からも、兄が喧嘩慣れしている事は見て取れた。だが、全くパンチは当たらない。それどころか、革のマスクにかすることさえしない。どんな格闘技のプロであろうとも、体の動きだけであんなにパンチを避ける事は不可能であろう。パンチだけではない、兄はフェイントを入れながらキックも出している。その動きはキックボクシングの経験があるのであろうと思わせる程のものだった。
大和も喧嘩に自信が無い訳ではなかった。伊達に建築現場で二十年近くも肉体労働をしてきたわけではない。十代の頃には、喧嘩で名を上げた事もある。いざとなれば、チビスケを倒すことは容易に出来るだろうと思っていた。ユキジイが鍵をスレなかったのならば、そして、あの兄弟の姿が倉庫の向こうに消えていたならば、間違いなく今あそこでチビスケと戦っているのは自分だっただろう。
──ヤバかった・・・。
大和は、自分の考えの甘さを痛感すると同時に、兄弟の失敗に心から感謝していた。
絶え間なく攻撃し続けていた兄の動きに変化が現れる。腕の動きはスローモーションになり、足はほとんど上に上がらない。限界が近いのだろう。汗にまみれたその顔からは「絶望」という二文字が滲み出ていた。
兄は諦めたのか、顔をガードしていた両手を下ろした。兄は肩を上下に動かしながら頭を後ろに倒すと、なめた動きをするチビスケを見下ろした。
チビスケは踊るように揺らしていた体を止めると、握っていた棍棒を振った。兄の頭が左に飛んだ。いや、右に、いや、左に。それはまるでビデオを早送りにしているかのようだった。旧正月に中華街で鳴らす爆竹のような音が響き渡る。
チビスケが繰り出す一発一発に、デカオほどのパワーはない。だが、そのスピードは尋常ではなかった。おそらく殴られている兄は、見ている大和よりも、何が起こっているのか理解できていないだろう。
どれくらいの時間なのかも、どれくらいの回数なのかも、計る術のない大和にはわからなかった。大和の頭の中で唯一わかっていた事は、それ以上殴ったら兄は死んでしまうという事だけだった。そんな光景を目の前にしていて、また止める事も、助けてやる事も出来ない自分に、大和は嫌気を感じ始めた。大和が視線を地面に逸らすと、鳴り響いていた爆竹の音が止まった。大和は顔を上げた。
巨大な肉団子のような顔になった兄が、口と思われる部分から血とよだれを垂らし、樵に根本を切り取られた大木のように、ゆっくりと前へと倒れていく。兄は全く受け身を取らないまま地面に引き寄せられ、神社の鐘を思わせるような鈍い音を辺りに響かせた。
ヒステリックな母親に怒られて泣きじゃくる子供のようになっている弟が、ひきつけを起こしたような息づかいで体を引きずり始める。自分を守ろうと必死に力を尽くしてくれた動かない兄の体に、感謝するかのように弟が覆い被さろうとすると、兄の傍に置物のように立っていたチビスケは、まだ血が滴っていた棍棒で、涙で濡れた弟の悲しい顔を殴り始めた。
「慈悲」という言葉を知らない爆竹の音は、大和達への警告を促しているかのように鳴り響き続けた。しばらくすると爆竹の音は、大和の耳に「わかったな」と、こだまを残して消えて行った。
寄り添うように倒れた兄弟の傍らで、チビスケは耳を劈くような甲高い声を上げた。大和が耳に手をやり、顔を顰めると、大和達の後ろの扉がガラガラと音を立てた。屠殺場からデカオが出てくる。デカオは、のしのしと大和達の左側を横切りチビスケに近づくと、倒れて動かない兄弟の首輪をつかみ、苦もなく二人の体を引きずり始めた。チビスケが二人の部屋の扉を開けると、デカオはゆっくりとした動きで、兄、弟の順に、ボーリングの玉でも投げるかのように二人の体を部屋の中へと投げ入れていった。チビスケは順に扉を閉め、錠をかけていく。
「くそ、くそ!」
呆けていた大和は、モゾモゾと動くユキジイの小さな背中に視線をずらした。
ユキジイは、右手をポケットの中に入れていた。
「どうした?」
大和が声をかけると、ユキジイは振り向き右手をポケットから出した。
「これ、取ってくれ。あと二つなんだよ」
必死な顔をしたユキジイの右手に、大和は希望を見つけた。薄汚れた革のホルダーに着いた幾つもの鍵達は、まるで月末に本の間から出てきた一万円札のように大和の沈みかけていた心を救い上げた。
「い、いつスッた?」
大和は、ユキジイの顔と鍵とを交互に見つめた。
「いつだっていいだろ。それより、早くこれ外してくれ。あとは6番と人間小屋の鍵だけだ」
ユキジイは後を気にしながら、大和の前に押し付けるように右手を差し出した。大和はユキジイの「早くしろ!」と言わんばかりの顔を見ると、近づいて来るチビスケ達を気にしながら、右手を上げた。
「俺がやるよ」終始黙っていたリョージが大和の左側に出てきた。大和が突然しゃしゃり出てきたリョージの目を見ると、リョージは大和から目を逸らし、ユキジイの顔を見た。
「さすがだね。いつスッたの? 全然わからなかったよ」
落ち着いた口調で流暢に喋るリョージに対し、ユキジイは近づいて来る足音を気にし、焦った様子を見せている。チビスケとデカオは、もうすぐそこまで来ている。大和の気も焦り始めていた。
「いいから、早くしろ」
ユキジイは差しのべられたリョージの右手に、握り締めていた鍵を落とした。
そう、ユキジイは投げたのではなく、ただ真下に広がっていたリョージの手のひらの上に、高い位置からではなく、たかだか数センチほど上からそっと鍵を落としたのだ。それなのに・・・。
「な・・・」
唖然とした大和が発した言葉はそれだけだった。デカオ達の足音に混じって、小銭入れを落としたような音が聞こえた。ユキジイは今にも泣きだしそうな顔でリョージの顔を見つめた。それは睨みつけるというようなものではなく、悪さをした息子を叱る時の父親のような顔だった。
「あ、ごめん」
リョージの言葉は信じられないほど軽いものだった。大和は怒りを覚え、リョージの顔を横目で睨んだ。
ユキジイの横に並んだチビスケが、前かがみになり落ちた希望を奪った。デカオはユキジイの肩に手を乗せ後ろに引いた。デカオは棍棒を手にし、それを振り上げる。
「やめろ! やめてくれ!」
ユキジイは必死にデカオの手を振り払うと、大和の体にしがみついた。大和は、どうする事もできなかった。そして、そんな自分が心底嫌になった。ユキジイの体がデカオに引っ張られ離れていく。大和は拳を強く握り締めると、眉間に力を入れ、デカオの顔を睨んだ。
意を決した大和が前へと踏み出そうとすると、さっきとは違う落ち着いた顔をしたユキジイが、右手を大和に向けて大きく広げた。
「動くな」ユキジイの言葉は文字通り、やる気になっていた大和の動きを止めた。
ユキジイの体がデカオに打ちのめされ、目の間でボロボロになっていく。まだ腫れの引かない大和の顔がジンジンと痛み出す。重く太い音が鳴る度に、大和の体は前へと飛び出しそうになった。ユキジイの開き続けている手のひらが、まるで赤信号のように、大和の衝動を止め続けていた。
ユキジイは意識を失いかけていた。ただでさえ腫れ上がっていた顔は更に腫れ上がり、眼は半開きになり、視点も合っていないようだ。幽霊のようにオデコは腫れ上がり、体がビクビクと痙攣し始めている。デカオは振り続けていた棍棒を腰へと戻すと、ぐったりと横たわるユキジイの右腕を押さえた。
何も言葉を交わす事もなく、まるで予め打ち合わせでもしていたかのように、チビスケは腰に着けていた鉈を手に取り振り上げた。
「やめろー!」
大和の声が合図のようになり、チビスケは鉈をユキジイの手首に振り下ろした。
意識を失いかけていたユキジイは、眼球が飛び出しそうなほどに目を見開き、その恐ろしさを大和の意識にシンクロさせるような声を張り上げた。
断! 断! 断!
鉈は三度振り下ろされた。
ユキジイの手首からは白い骨が見え、流れ出る血液は、まるでこぼしたエンジンオイルのように地に吸収されることなく地面を瞬く間に赤黒く染めていく。
涙を流し、悲鳴を上げながら体を激しく揺さぶるユキジイをデカオは大きな漬物石のように押さえつけている。
チビスケはエプロンのポケットから小瓶を取り出すと、フタを開け、紫色の液体を血が噴き出すユキジイの手首に垂らした。ユキジイの手首から白い煙が上がる。ユキジイは苦汁を舐めたかのような顔になり、喉の奥で悲鳴を上げ続けた。手首は焼けただれたようになり、溢れ出していた血は、凝縮された肉に塞き止められていた。くねくねと、もがき続けるユキジイの姿は、まるで釣り針に刺される前のミミズのようだった。
「ちきしょう、ちきしょう」
ユキジイは鼻を赤らめ、切り離された自分の右手に両腕を伸ばした。だが、それをつかむ事は出来ない。
その姿を見つめていた大和の耳の奥に、楽しそうに話してくれたユキジイの声が蘇る。
『甥っ子の工場で、最高のエンジンを組んで、あいつを驚かせてやるんだ。俺の技術を全部あいつに教えてやるんだ。そしたらよう、こんな俺でも、この世に生まれて来た意味があったんだなってよ、思えるような気がしてよう』
二度と動かない切り離された右手に必死に腕を伸ばすユキジイに、大和はただ涙を流す事しかしてやれなかった。
チビスケはユキジイの右手をゴミでもつまむかのように拾い上げると、顔の前で二、三秒ほどそれを眺め、そのままエプロンのポケットへと雑な動きで突っ込んだ。チビスケは踵を返し、大和達のほうへと近づいて来る。
ユキジイは体を起こすと地に膝をつき「返せ、返せ」と涙を流しながらチビスケを追いかけた。デカオはユキジイの首輪を後ろからつかみ、ユキジイを押さえた。
チビスケは棍棒を振って、大和達に「部屋へ戻れ」と促した。憤りを感じた大和が勇んで前へ出ようとすると、リョージが大和の左肩をつかみ、それを止めた。
「やめなよ、戻ろう」
リョージがそういうと、大和は肩を震わせた。
「逆らったって、勝てやしないよ。戻ろう」 大和は大きく息を吸い、昂る気落ちを抑え込むように息を吐き出すと、リョージに背中を押され、チビスケを冷たく睨みながら自分の部屋へと戻っていった。部屋に入ると、いつものように扉に錠がかけられた。
大和は振り向き、広場を見つめた。ユキジイはまだデカオに首輪をつかまれている。力尽きてしまったのか両の肩を落とし、腕も頭も重力のいいなりになっている。
チビスケが全ての部屋に錠をかけると、デカオは塩をかけられた青菜のようになったユキジイの体を引きづり始めた。デカオの向かう先がユキジイの部屋ではなく、屠殺場だとわかると、大和は大声を張り上げた。
「おい! どこへ行くんだ! やめろ!」
デカオも、傍を歩くチビスケも、まるで目の前に見えない壁でもあるかのように、大和の叫びに全く反応しない。それでも大和は鉄格子を両手でつかみ、叫び続けた。
ぐったりとしていたユキジイが顔を上げ、大和の眼を見つめた。ユキジイは目で何かを訴えながら、手の無い右腕で何故か自分の下腹の辺りを何度も叩いた。そして腫れ上がった唇ではっきりと語った。
「ニ・ゲ・ロ」
耳には聞こえないその声を大和ははっきりと両の眼で聴きとった。
ユキジイの姿が壁の向こうに見えなくなっていく。大和は鉄格子に顔をこすりつけた。顔の痛みなど何も感じなかった。ガラガラと扉を閉める音が聞こえた。
鋸刃の冷たい音が聞こえ始めると「やめろー!」というユキジイの叫ぶ声が聞こえた。大和は鉄格子を揺すったが、ビクともしない。容赦ない鋸刃の音が最高潮に達しユキジイの叫び声を掻き消し始めると、ユキジイは更に大きな声で甥っ子の名を叫んだ。
鋸刃の音が小さくなりゆっくりと音が止まった。その後、ユキジイの声が聞こえることはなかった。
大和は鉄格子を放し肩を落とした。やるせない気持ちが大和の心を痛め始めた。立ち尽くす大和は、数分前まで自分の目の前で生きていたユキジイの姿を思い出していた。大和の目に涙が溜まり始めた。
大和はふと左のポケットに手を差し込んだ。ユキジイが最後に叩いていた所だ。大和の指先に冷たく硬い物が触れた。
大和はポケットの中の物を握ると、ポケットから手を抜出し、手のひらを開いた。ポケットに入っていた物は、4と5と書かれた二本の鍵だった。
大和の目に溜まった涙は、表面張力の限界を超え頬を伝った。ユキジイの行動に脱帽した大和は、二本の鍵を握り締めながら膝を落とし、硬いベットに顔をうずめた。
涙の染み込んだ硬いベットが大和の腫れた頬を冷やし始めると、屠殺場の扉が開く音が聞こえた。大和は顔を上げると、呼吸の邪魔をする鼻水をすすり、両目をベットにこすりつけた。部屋の右側からアルミのこすれる音が聞こえ、ムシャムシャと食事をむさぼる音が聞こえ始める。大和はゆっくりと体を起こすとベットに手を着き、そのままベットの上へと座り込んだ。ステンレスのワゴンが大和の右側に止まり、破けたエプロンを身に着けたデカオが、器に入った餌を大和の足元に押しこむ。大和は殺意に満ちた眼差しで、終始デカオの顔を見つめていた。デカオは、そんな大和の事など広場に落ちている石ころほども気にせず、そのままワゴンを押して大和の視界から消えて行った。いつもはすぐに止まるデカオの足音が、隣の部屋を通過し遠ざかって行く。大和は無性に淋しくなった。
大和は足元に置かれたトレイを拾い上げ、膝の上へ乗せると、首を傾げ吐き気を催す餌をぼうっと見つめた。大和は、ずっと握っていた左手を開き、数秒の間鍵を見つめると鍵をポケットに押し込んだ。引き抜いた左手をアルミ製の器添えた大和は、スプーンをつかみ、胃液が上がる喉の奥へと餌を押し込んでいく。
無理やり口の中に詰め込まれた餌たちは、咀嚼されることなく上がってきていた胃液と共に胃の中へと土石流のように流されていった。最後の一口を飲み込んだ大和は、鼻の息を止め、一杯の水を一気に飲み込み、這い出ようとする餌たちにとどめを刺した。
大和はトレイを床に置き、足で外へと押し出すと、薄暗い部屋の奥へと急いだ。大和は膝を床に着けると、便座の上に手を置いた。とどめを刺したはずの餌たちが重力に逆らい上へと登り始めていた。大和は大きな息をいくつも飲み込み、それらが這い上がってくるのを阻止した。大和は鼻の息を止めたまま、大きく口を開けた便器と睨めっこをしていた。
大和は吐き気と戦いながら眉間にシワを寄せると、目を凝らした。便器の喉の奥に二本の細い針金のような物が付けられている。大和は首をひねった。大和は便器の裏側を覗き込んだ。便器の後ろから出ている黒い配線が、床を伝いすぐ後ろのコンクリートの壁の中へと続いている。大和の脳裏にユキジイの言葉が蘇った。
『飲みきれねえビールを便所に流したけどよう、そのとたんにやつらすっ飛んできやがって、棍棒でボコボコよう。でもよう、床にビールをこぼしちまった時は、すぐにすっ飛んではこなかったんだよなぁ』
大和は体を直すと、右手の人差し指と中指を喉の奥へと押しこんだ。喉の奥を刺激すると、食堂が刺激され、胃が波のように動き出した。鼻から酸っぱい香りが抜ける。胃の奥へと追いやった餌はすぐには戻ってこなかった。大和は涙目になりながら、もう一度二本の指を喉の奥へと突っ込んだ。再び胃が動き、追いやった餌たちを波のように喉へと運んでくる。大和が唾液にまみれた指を口の中から抜き出すと、同時に無理やり戻された胃液交じりの餌たちが、一斉に便器の中へと落ちていった。
二度、三度と、大和は飲み込んだ餌たちを吐き出した。胃の中の餌たちを全て吐き出した大和は、床にあるペーパーを拾い、右手にグルグルと巻き付けた。大和は胃液の混じる鼻水を拭い、鼻の中に残った鼻水をすすると、喉の奥から口に戻し、便器に吐き出した。大和はしばらくの間便器の中をじっと見つめていた。そして一分ほどすると、口を拭い、ペーパーを投げ入れ、手を伸ばし水を流した。渦になって消えて行くそれらを大和は息を整えながら見つめていた。
ドタドタという重い足音は、大和の予想通りにすぐに近づいて来た。大和は立ち上がり、錠を開けるデカオのほうを向いた。デカオは部屋の扉を開けると、餌を詰めた注射器を片手に部屋の中へと入ってくる。エプロンに穴は開いていない。餌を持ってきたヤツとは違うデカオだ。大和は冷静に観察しながら両手を顔の横で広げ、膝をついた。デカオはゴム
チューブを大和の喉に差し込み、胃の中へ餌を押しこんでいく。大和はデカオから視線を逸らし、部屋の煤けた天井の隅を見つめながら確信した。
──部屋に監視カメラはない。
その考えは、おそらく間違いではなかった。こいつらは、床に餌を吐いたり、こぼしたりしてもすぐにはやってこない。大抵、トレイを回収しに来た時にそれらに気付き処置をする。だが便器に流すとすぐさま現れた。部屋にカメラが設置されているのならば、大和が便器に吐いたと同時にやってくるはずなのだ。
これは大和にとって一つの賭けだった。いつも注射器の処置をしにやってくるのはデカオと相場が決まっていたが、万が一やって来たのがユキジイの腕を落としたチビスケであったならば、あるいはユキジイの考えが間違っていて、鍵の束が一つしかなかっとしたならば、鍵が無い事に気付かれ、脱走の計画は絶望的になっていただろう。
大和の頭の中で、チカチカと警告を促していた赤い光は、進めを意味する青色へと変わっていった。
大和への処置を終えたデカオは静かに振り向き部屋から出ると、錠をかけ右のほうへと歩いて行った。殴られることを覚悟していた大和は、大きく息を吐いた。
穴あきのエプロンをかけたデカオが、養殖人間に餌を与え、トレイを回収しに来た時には、大和はベットに横たわっていた。デカオはトレイを拾い、リョージの部屋のほうへとワゴンを押し進んで行った。大和は体を起こしポケットの鍵を取出し見つめた。デカオが屠殺場へ戻った事を音で確認すると、大和は小声でリョージに声をかけた。
「リョージ、寝るなよ」外は相変わらず明るかったが、これからの時間は睡眠の時間になっていたからだった。
リョージは「何で?」と答えたが、大和は「いいから、寝るな」といい、それ以上の事は何も言わなかった。
大和は壁に背を付け、正面の壁を見つめていた。左手には二本の希望が握られている。ゆっくりと静かに流れる時間の中で、時折睡魔が顔を出し、大和を夢の世界へと引きづり込もうとしたが、その都度、睨みをきかせた陽子が現れ、大和の手を引く睡魔を撃退してくれた。
大和は耳を澄ましていた。頭の後ろからリョージのイビキが聞こえ始める。大和は苦笑した。響いていたまな板に包丁を叩きつける音が止むと、ビチャビチャと垂れ流される水の音が聞こえ始めた。一瞬にして綺麗に骨まで切断してしまうような鋭い刃物を研ぐ音と、カバの歯でも磨いているかのようなブラシをこする音が、同時に聞こえ始める。大和は体を起こし、腫れが引いてきた顔を鉄格子に近づけた。
しばらくすると、聞こえていたそれらの音は止んだ。大和はじっとレンガの壁に着いている窓を見つめていた。曇りガラスの色が、白から灰色へと変わった。大和はしばらく動かなかった。頭の中で、ヤツらがシャワーを浴び、服を着替え、くだらない世間話をしながら一服つく。そんな姿を思い浮かべながら、ヤツラがタイムカードを押し「また明日」と同僚と別れを交わし、職場を後にする姿が思い浮かぶのを待った。
大和の頭に手を振るヤツらの姿が思い浮かぶと、大和はベットから腰を上げ、外の様子を目と耳で伺った。
外は静寂を保っていた。大和は希望を左手から右手へと持ち替え、扉へと近づくと、鉄格子の間から右手を外に出し、錠を外した。音が鳴らないよう、扉を少し持ち上げながらゆっくりと慎重に押し開けていく。大和は扉を半分ほど開くと、鰻のように体をくねらせ、狭い隙間をすり抜けた。そしてゆっくりと扉を閉め、錠を元に戻したが、錠はかかっているように見せただけで、ちゃんとはかけなかった。大和は音をたてないように進み、リョージの部屋の錠を外すと、扉をゆっくりと引き開けた。錆びついた扉が猿の断末魔の叫びのような音を鳴らす。
大和は両目をギュッと閉じた。固まった体から汗が噴き出してくる。大和の鼓動はうるさいほどに早くなったが、辺りの静寂さを乱す者は現れなかった。
大和は扉を開けたまま、リョージの部屋へと入り、夢の世界に引きづり込まれているリョージをこちらの世界へと連れ戻した。目を開いたリョージは、大和の顔を見て驚いたが、その声は、あらかじめそれを予想していた大和の右手に阻まれ、外へは漏れなかった。大和は左の人差し指を口の前に立て、リョージの目を見つめた。
リョージは体を起こすと、目を丸くしたまま大和に尋ねた。
「何? どうやって鍵を開けた?」
大和は鍵を見せ、ユキジイが最後に希望を残していってくれたことを話した。
「一緒に行くだろ?」
大和は、リョージの目を見つめながら言った。リョージは少し間を置き、考えているようなそぶりを見せると口を開いた。
「どうやって逃げ切る? この部屋から出ても、その先は? 鍵は二つしかないんだろ?」
もっともな質問だった。大和は目を伏せたが、すぐにまたリョージの目を見つめた。
「だが行くしかない。ここにいても、ただ死ぬのを待つだけだ。俺には女房がいるんだ。産まれてくる子供がいるんだ。お前が行かないと言っても俺は行くぞ」
大和は真剣な眼差しでリョージの目を見つめ続け、自分の硬い意思をぶつけた。リョージは大和の気迫に気圧されたように大和から目を逸らした。
「わかった、一緒に行くよ」
リョージは目を伏せたまま言った。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!