前夜、くしゃみが出るからチョコが食べたいと己にしか分からない理屈を並べ立てて呆れる恋人にホットチョコを作らせることに成功したリオンは、寒い寒いと言いながらも傍目には元気よく己の職場へと出勤していた。
いつまでも寒いのは遠慮したい早く暖かくなってくれないかなー、そうすれば名実ともにあの心優しい恋人と伴侶になれるのにーと鼻歌交じりに呟けば、何度も何度も聞かされているそれに同僚がはいはいと呆れた返事をする。
二人で様々な出来事を乗り越え密かに抱いていた家族になりたいという願いが重なり、公的にも認められた関係になろうとようやく二人が決めたのは、ウーヴェが長年抱え続けてきた過去から解放されて間もなくだった。
同棲生活も長くなりこのままでも特に何かが変わるわけでは無かったが、リオンが長年思い続けた家族の形を完成させたいとの強い意志から適当な頃合いを見て結婚式を挙げることを決めたのだ。
ウーヴェの仕事は比較的自由の利くものだったし、内科医のように風邪が流行っている冬は忙しい等はあまりないが、何しろリオンの仕事が刑事で、殺人事件や重大な犯罪は日時を選ばないため、市役所の担当者と結婚式の段取りについての話し合いすらゆっくりする暇が無かった。
リオンが教会付設の児童福祉施設出身のためか、マザー・カタリーナや職場の人達ですら教会で式を挙げ市役所に届け出ると思われていたが、宗教とは距離を置いているウーヴェに教会で式を挙げさせるのは無理強いになるとの理由で市役所でのみ結婚式を挙げることにするとリオンが当たり前のように言ったため、自分たちの教会でリオンの式を執り行えると密かに喜んでいたマザー・カタリーナの肩を落とさせてもいた。
周囲の人達に安心と不安と歓喜と落胆を同時に味わわせていた二人だったが、それでも式を挙げることには前向きで、結婚に関わる煩雑な手続きなどは主にウーヴェが行い、五月の初旬に挙げることにした式を市役所で当日どのように行うか、二人に向けた祝辞をどのようなものにするのかを決めるために担当者と二人の出会いから様々な出来事を乗り越えてきた事実を時には冗談交じりに話し合っていたのだ。
そんな多忙な日々を過ごしていたリオンは、いつものように職場の己の席に腰を下ろし、今日は午前中に突発的な殺人未遂事件があったがそれも無事に犯人を逮捕出来たと素早い解決を自慢するような鼻歌を垂れ流して周囲の同僚達を呆れかえらせていたが、必要不可欠な書類と向き合っていた時に上司から呼ばれていることに気付きヒンケルの部屋のドアをノックする。
「真面目に仕事をしていたのに、ボスが邪魔をするから一気にやる気が無くなったでしょー」
「馬鹿者、どうしてお前は一言多いんだ」
戯けた挨拶で入室するリオンに呆れた顔で言葉を投げかけたヒンケルだったが、一言多いのはどっちだと嘯かれてリオンを睨み上げる。
「何か言ったか」
「何でもありません。それよりもどうしたんですか」
ヒンケルのデスク前に丸いすを運んで腰を下ろしたリオンは、これでも敬愛している上司の顔が一気に苦み走ったものになったことから何か重大な事件が発生したことを察し、くるくるといつものように回ろうとしていた椅子を止めてデスクに手をつく。
「ボス、何かあったんですか?」
「……これを見ろ」
己とリオンの間のデスクにバサリと投げ出された報告書に目を落とし読むのが面倒臭いと嘯こうとしたリオンの口が開いたまま動きを止めただけではなく、半ば浮かせていた腰もそのままで石化したかのように動きを止めてしまう。
「……ジル、ですか」
「ああ。去年の秋だったか、ジルベルトをフィレンツェで見つけたと報告があったが、あれ以来まったく姿を見せなかった」
それが先日フィレンツェで再び発見し、その後人を継いで追い続けた結果ローマにいるのが発見されたと溜息交じりに教えられて報告書に穴を開ける勢いで読み進めたリオンは、ローマでの足取りを追っていた関係者がオーストリアに入国したのを最後に三度姿を見失ってしまったことを知り、くそったれの無能刑事と報告書を作成した刑事の無能ぶりを陽気な声で罵るが、それはそれは悪かったと背後から不意に呼びかけられて瞬きをしつつ振り返る。
「……なんだ、ジルを見失ったのはあんただったのか」
「相変わらずきみは上司に対する口の利き方を知らないようだな。警部、もう一度見習いから躾け治せばどうだ」
「小さなハンスが覚えなかったことは大きなハンスは決して覚えないと言うだろう? だから躾けについては諦めた」
リオンの呟きにやれやれと肩を竦めながら-またその仕草が嫌味なほど似合っていた-ヒンケルに部下の躾けについて苦情を告げたのは、二年ぶりに姿を見せたBKAのモーリッツ・ブライデマンだった。
「久しぶりだな、モーリッツ」
「ああ。警部も変わりないようで良かった。……リオン」
「……へ!?」
デスク横に歩み寄る長身を呆然と見守っていたリオンは握手をする上司達を同じ視線で見ていたが、不意にブライデマンから名を呼ばれて素っ頓狂な声を上げる。
「何だ、その声は」
「あ、いや、いきなりリオンなんて呼ぶから驚いたんですよ」
まさかあんたからファーストネームを呼ばれるとは思ってなかった、自分はあんたのような真面目な人からすれば受け入れられない存在だと思っていたと己の驚愕の理由を口にすると、確かに受け入れられないがだからといってきみの存在を否定するわけではないと口早に言い放たれて目を瞠った後、にやりと口元に太い笑みを浮かべる。
「俺も、あんたは嫌いだったけど否定はしませんよ」
「……久しぶりだな。元気に働いているようで安心した」
リオンの言葉に咳払いをしたブライデマンだったが気持ちを切り替えたのか、きみのお姉さんの事件について今でも当時のことを思えば反省すべきは反省するとも告げて手を出してきたため素直にその言葉に礼を言う代わりにしっかりとブライデマンの手を握り、また会えて嬉しいですよと笑みを浮かべるとブライデマンの顔に少しだけ安堵の色が浮かぶ。
「だからといってジルを見失ったことは許せませんけどねー」
「きっときみは口から生まれてきたんだろうな」
だからそれだけ減らず口を叩けるんだろうと呆れられてもにやりと笑ってやり過ごしたリオンは、それよりも今日はそれだけのために来たのかと気持ちを切り替えたことを教える口調で問いかけ、ブライデマンの為の椅子を部屋の隅から運んでくる。
「ああ、ありがとう。……四日前、フランクフルトで身元不詳の遺体が発見されたが、その身元が判明した」
「フランクフルトで身元不詳?」
ドイツ国内でも大都市に分類されるフランクフルト近郊で起きた事件だが、この街で日々起こる殺人や未遂事件に追われているため他都市のことまで調べてられないと嘯きたくなるのをぐっと堪えヒンケルの疑問に返される言葉を待つが、聞かされたそれに思わず腰を浮かせてしまう。
「……ロスラーだった」
「!!」
「身元が分かるのに随分と時間が掛かったな」
ブライデマンの言葉にどうしてそんなにも日数が掛かったと先日ニュースで事件について情報を求めるキャスターの声を聞いたことを思い出したリオンは、身元が分かりそうなものが一切なかったと教えられて眉を寄せる。
「一切?」
「ああ。……両掌は焼かれていて指紋も掌紋も取れなかった」
「マフィアが絡んでるのか?」
告げられたおぞましい言葉に背筋に嫌な汗が流れ落ち不快感に眉を寄せたヒンケルがそれだけかと出来れば聞きたくないがと断りながら問いかけると、丸裸で川岸に流れ着いていたが、両足の腱が切られ、掌だけではなく体中の残されていた皮膚に火傷の痕があったこと、内臓にまで達するナイフの傷などからフランクフルトでもマフィアのリンチを疑ったそうだが、発見される数日前に元同僚と一緒に警察に行く約束をしていたが姿を見せなかったことなどから、ただのリンチではなく警察との間で何らかの取引があることを嗅ぎ付けた仲間達の報復と身元の確認を遅らせる目的もあるとの見方で調べた結果、日数が掛かったもののずっと追いかけていたロスラーである事が判明したと重苦しい空気の中で教えられてリオンが舌打ちする。
「警察に行くってことは、司法取引で話がついていた?」
「おそらくそうだろうな」
身の安全の確保を依頼する代わりに知っている情報を流す、そんな所だろうと嘆息するブライデマンにリオンが悔しそうに舌打ちをした後、デスクを軽く拳で叩く。
「ロスラーは組織についてどんな情報を持っていたんだろうな」
「昨年秋からずっとイタリアで組織について調べさせているが、ロスラーはフランクフルトのFKKの運営を任されていたようだ。だから組織のトップと繋がっているとみていたんだが……」
組織の人間に先を越されてしまったことを悔いても悔やみきれないが、BKAが持っている情報では組織のトップがジルベルトの幼馴染みで随分と顔の綺麗な男だということだけだと腕を組んで嘆息する。
「じゃあジルも組織の中では重要な立場にいた?」
「そうだろうな」
もしかすると幼馴染み二人が協力し合って組織を大きくしていたのかも知れないとBKAやフランクフルトの刑事達と話し合っていたことを伝え、そもそも組織を作り上げた人物はかなりの高齢になっていて、ここ数年は組織に関わっていないようだったと伝えると、リオンがあの日聞いたジジイが危篤だとの言葉を思い出す。
「あいつの言うジジイってそいつのことなのかもな」
「ああ。それにしてもそんな無残な殺され方をするなんてな」
組織の中で下っ端だと思っていたが実はフランクフルトの責任者の一人だったロスラーがそんなむごい最期を迎えなければならなかったのかとヒンケルが溜息混じりに呟くと、死体の脇腹にあった深さ三センチほどの傷の中からメモが発見されたと教えられて目を見張る。
「メモ?」
「ああ。これがそのメモだ」
血と唾液にまみれた紙に殴り書きされた文字らしきものを写した証拠写真を取り出されてヒンケルとリオンが身を乗り出してそれを覗き込むが、そこに書かれているものを見たとき咄嗟に意味が分からずにヒンケルを見ると、上司も同じ思いだったのかイタリア語なのかと自信なさげに小さく呟く。
「ああ。アヴェ・マリアの祈りの言葉らしい」
「アヴェ・マリア? ……adesso e nell’ora della nostra morte. Amen.って、ああ、最後の言葉か、これ」
「聞いたことがあるのか?」
「Ja.マザーやゾフィーが良く唱えてました。Bitte für uns Sünder jetzt und in der Stunde unseres Todes.ってなるのかな」
この命が終わりを迎えるときも聖母マリアの祈りを求める一節をリオンにしてみればごく自然と何気なく発したのだが、ロスラーが死体で発見されたこととゾフィーの最期の姿が重なり、三人が同時に顔を見合わせ互いの目に映り込むものが同じものである事に気付く。
「……ジルがロスラーを殺した」
「そう考えるのが正しいな」
ゾフィーの無残な最後とロスラーのそれに共通している部分が有り、逃亡しているジルベルトが手を下したと考えるべきだろうと嘆息混じりに告げると、ブライデマンも重々しく頷く。
「だから今日ここに来た」
「……そっか、あいつ、戻ってきてるのか」
そうかそうか、ならば一刻も早く発見してあの綺麗な顔をぶん殴ってやりたいとジルベルトからのメッセージが写された写真を手にリオンが歌うように呟くが、眉を顰めて小首を傾げる。
「なーんか、引っかかるんですけどね」
「何だ?」
リオンの直感について一目置いているヒンケルがその言葉に先を促すと、ジルベルトの日頃の言動から宗教のにおいを一切感じ取ることが出来なかったと呟かれ、ヒンケルとブライデマンが顔を見合わせる。
「マックスは日曜礼拝にも可能な限り通うしバッグには聖書が入ってる。規律に厳しいのもその辺が由来してますよね。ジルは……俺と似ていてどんな類いの宗教にも無頓着に思えました。そんなあいつがアヴェ・マリアの祈りを書いたメモを残すなんて不自然な気がする」
「共犯者がいるのか?」
「そう考えるのが妥当でしょうね。リンチを加えて殺害したとはいえロスラーをバラバラにしたわけじゃない。死んだ人の重さを二人とも知らないわけじゃないでしょう」
俺よりも人生経験も刑事としての経験もあるあんた達が気付かないはずがないと肩を竦め、誰かがロスラーを川に捨てに行った、そのことからも最低でも二人の人間が絡んでいること、ジルベルトのことだからそれ以外に人がいたとしてもあの時に殺された二人のように少人数で動いているはずだと親指同士をくるくると回転させながら話すリオンを真剣な顔で見つめた二人は、ほぼ同時に溜息を零した後、ジルベルトが戻ってきている事実とロスラーの殺害についての情報を仲間内で共有した方が良いと話し合いリオンも賛成と手を上げる。
「ロスラーの検死報告書は持ってますか?」
何かが気になるのかロスラーの検死時の報告書があるかと問いかけるリオンにブライデマンが軽く驚きつつ頷き、書類ケースからクリップで留められた数枚の書類を差し出す。
「これだ」
「ダンケ。……何か、なぁ」
「どうした?」
「んー、まだ少し整理できていないので、纏まったら報告します」
上司の言葉に上の空の様子で返事をしたリオンはこの書類を借りていくことを伝えてヒンケルやブライデマンの返事を待たずに部屋を出て行こうとするが、そんなリオンにブライデマンが呼びかける。
「リオン」
「はい?」
「暫くこちらにいる事になったからジルベルトについて知っている事を教えてくれ」
ドアノブに手をかけたまま振り返るリオンだったがブライデマンの頼み事の形をした命令にはにやりと笑みを浮かべ、見返りの量によって教える情報を考えますよと刑事にあるまじき発言をする。
以前のブライデマンならば何とふざけた男なのだと目を吊り上げただろうが、あの時から時は流れて少しはリオンという男の性情を理解したからか、早く仕事に戻れと溜息一つでそれを受け入れる。
だがそれだけで済ませることは出来なかったのかヒンケルのデスクに片手をついてあいつの再度の躾を要求すると伝えると、顎の下で手を組んだヒンケルが重々しく溜息を一つ零すのだった。