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「静かに崩れていく日常」
名前伏せ無し
ライブ後の控え室。スポットライトの余韻がまだ脳裏に残っている。
なのに、さとみの姿はどこかぼんやりしていた。汗を拭うことも、着替えることも忘れたまま、彼は鏡の前で突っ立っている。
「……さとちゃん、大丈夫?」
そっと肩を叩いたのはジェルだった。柔らかな声。心配そうな眼差し。
「ぁ、うん……。ちょっと、ぼーっとしてただけ。」
返ってきた声は、いつものような自信に満ちたトーンではなかった。無理に作った笑顔の奥で、何かが軋んでいるようだった。
その日から、さとみの様子は徐々に変わり始めた。
翌日の配信では、さとみはまるで“スイッチ”が切れてしまったかのように、発言が少なかった。
チャット欄には「さとみくん元気ない?」「どうしたの?」というコメントが相次ぎ、ころんがフォローを入れながら場を回す始末だった。
配信後、メンバーは控え室に集まり、自然とさとみを囲むようにして座っていた。
「ねぇ、さとみくん……最近、疲れてない?」
莉犬が遠慮がちに言う。
「……別に、そんなことないよ。」
「明らかに顔色悪いって。るぅとくんも言ってたでしょ?」
ころんがソファの肘掛けに座りながら、鋭く指摘する。
「うん。正直、ちょっと心配してた。声のトーンが安定してない日もあるし……。」
るぅとも真剣な眼差しでうなずいた。
さとみは黙っていた。否定も肯定もしない。その沈黙が、逆に答えを物語っていた。
「さとみくん、もし何か悩んでることがあるなら、俺たちは聞くからね。」
静かに言った。そのなーくんの声には、兄のような包容力があった。
しばらくの沈黙のあと、さとみはポツリとつぶやいた。
「……俺さ、昔からストレスを抱えると……ちょっと、変になっちゃうことがあって。」
「変って……?」
ジェルが少し身を乗り出す。
「俺ね、病院で……“精神幼児化障害”って診断されてる。」
空気が止まったようだった。
「……それって……」
莉犬が声を詰まらせた。
「うん、精神的に負荷がかかると、意識が“子ども”みたいになっちゃう。自分でもよく覚えてなかったり、思考や言葉が幼くなる。……正直、誰にも言いたくなかった。笑われると思って。」
「……そんなん、笑うわけないやろ。」
ジェルが、まるで誰かの声を遮るように、静かに言った。
「むしろ、ひとりで抱え込んでたことのほうが辛いやろ。俺ら仲間やん……家族みたいなもんやろ?」
その言葉に、さとみの肩が小さく震えた。
ほんの一瞬だけ、彼の表情が“幼い何か”に変わったような気がした。
その日の夜。
ジェルはさとみの家を訪れていた。
部屋に入ると、さとみはぬいぐるみを抱きしめながら、床に座っていた。
「……おかえり……ジェルく、……」
その声はまるで五歳児のようだった。
「……でたか、発作。」
ジェルは優しく微笑んで、そっと隣に座る。
「んー、さとちゃ、……さとちゃ、……おやつたべたいの……」
「そっか。じゃあ一緒にクッキー作ろうか。」
「うんっ!」
まるで幼い弟を相手にするように、ジェルはキッチンへ連れていく。
器具を手渡し、チョコチップを一緒に混ぜる。小麦粉まみれになりながら、ふたりは笑った。
でも、ジェルの心の奥では
「このままずっと戻れなかったら」という、
不安が渦を巻いていた。