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「きゃっ……!」
小さな悲鳴とともに盆が傾き、薬湯が跳ねた。わずかにこぼれた液体が、レオンの袖口を濡らす。
「レオン王子殿下、大変申し訳ございません……!」
薬湯を運んでいた侍女が、青ざめた顔でその場に膝をついた。父王への面会を断られ、離宮の回廊を引き返した直後のことだった。
周囲に控えていた王妃派の侍従や護衛たちの冷ややかな視線が、一斉にこちらへ向く。
レオンは、いつものように笑った。
「いいんだ。僕の方こそ、前を見ていなかったからね」
「殿下、どうぞこちらをお使いくださいませ」
侍女が差し出したのは、一枚の白いハンカチだった。彼女は周囲の目から隠すように、レオンの袖口を熱心に拭う。
その一瞬。細い指先が、布越しに素早く彼の手のひらをなぞった。
一本。二本。三本。四本。
(……夜の四つ鐘、か)
レオンは顔色一つ変えなかった。何も気づいていないふりをして、ハンカチを返す。
「ありがとう。もう大丈夫だよ」
「ご無礼を、どうかお許しくださいませ」
「許すも何も、たいしたことじゃないよ」
肩をすくめてみせる。
「重い薬湯を運ぶのは大変だね。王妃陛下に叱られないといいけれど」
その言葉に、侍女の肩がわずかに揺れた。
「……お気遣い、ありがとうございます」
彼女は盆を抱え直し、足早に廊下の奥へ去っていく。その背中を見送りながら、手のひらに残された四本の線の感触を、そっと握り込んだ。
***
自室に戻り、すぐに衣服を着替えた。けれど、袖口から立ち上っていた匂いが、どうしても頭から離れない。鼻の奥にまとわりつくような、不快な甘い匂い。
(あの匂い……どこかで)
記憶を辿り、はっとした。かつて、アイリス領でリリアンヌが倒れた時と同じ匂いだ。
血の気を失った顔。わずかに黒ずんだ唇。医師が告げた、睡眠草による中毒。
(……父上の薬湯にも、混ぜられている可能性が高い)
***
その夜。離れの自室に、控えめな音が響いた。
――トン、トーン、トン、トン。
壁際の本棚の奥。隠し扉の向こうから聞こえた、一定のリズム。夜の四つ鐘──22時頃。昼間の侍女が告げた時刻だった。
レオンは本棚をずらし、隠し扉の鍵を開ける。そこに立っていたのは、昼間、回廊で薬湯をこぼした侍女だった。
「レオン王子殿下」
深々と頭を下げる。
「エレナ、で合っているかな?」
「……セドリック様から、お聞きに?」
「名前だけはね」
エレナ。かつて、侯爵令嬢時代のカサンドラに仕えていた侍女。同僚の失態を押しつけられ、処分されかけたところを、レオンの母――前王妃に救われた。
以来、前王妃に仕え、その死後は国王のそばに残っている。
「見張りの交代の隙をつきます」
彼女は、震える声で告げた。
「お会いいただける時間は、ほんのわずかですが……」
「ありがとう、エレナ」
「礼には及びません。……行きましょう」
隠し通路の奥へ足を踏み入れた。
***
通路は狭く、ひどく暗かった。王族の魔力にのみ反応する小さな魔石灯だけが、二人の足元をかすかに照らしている。
古い石材の匂い。湿った空気。遠くから、甲冑の擦れる音が近づいてくる。
エレナが、ぴたりと足を止めた。レオンも壁に身を寄せ、息を潜める。薄い壁のすぐ向こう側を、王妃派の護衛が歩いていく気配がした。
「……今見つかれば、君もただじゃ済まないよ」
かすかな声で囁く。
「承知の上でございます」
やがて彼女は、通路の突き当たりにある小さな木扉の前で足を止めた。
「この先が、陛下の寝室でございます」
扉を細く、音もなく開ける。そこは、国王の部屋にあるクローゼットの奥へ繋がっていた。寝室内は厚いカーテンに閉ざされていた。豪奢な寝台の上に、一人の男が横たわっていた。数年ぶりに見る父の姿は、記憶の中にあるよりも、ずっと小さく、脆そうに見えた。
顔色は灰色に沈み、頬はこけている。唇は、不自然に黒ずんでいる。浅く不規則な呼吸だけが、かろうじて命の灯火を繋ぎ止めているようだ。そして、部屋の奥に置かれた器からは、あの忌まわしい甘い匂いが漂っていた。
「……父上」
声をかけても、返事はない。レオンは寝台のそばへ歩み寄り、父王の枯れ木のような手に、自分の手をそっと重ねた。
身体に流れる魔力を、直接感じ取るために。指先から、薄く光を流す。ほんの少しだけ。
けれど、重ねた手のひらから返ってきた魔力は、あまりにも異常だった。健康な人間なら、魔力は澄んだ水のように巡る。だが、父王の魔力は違った。泥を混ぜられた水のように、重く淀んでいる。何かが強引に巡りを塞ぎ、光を曇らせていた。
「これは、病じゃない」
「……え?」
エレナが息を呑む。レオンは父王の生気のない顔を見下ろしたまま、告げた。
「――やっぱり、毒だね」
コメント
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「薬湯、やっぱり毒でした」…タイトルからしてもうゾクゾクした!!💫 エレナが指で“四本の線”をなぞって時刻を知らせるところ、めちゃくちゃかっこよくて痺れたよ😭✨ 隠し通路で息を潜める緊張感もドラマチックで、まるで自分まで一緒に息を止めてた! そして最後の「やっぱり毒だね」——レオンの静かな確信が胸に刺さる。あの甘い匂いがリリアンヌの時と同じって伏線も鮮やかすぎる…!父王の魔力が“泥を混ぜた水”みたいって表現、すごく映像的に浮かんだよ…次回が待ち遠しすぎる!🌟