雨が降っていた
病室のドアをそっと開ける
そこには、真っ白なベッドと、窓から空を見上げる男が座っていた
かつて、俺の恋人だった人
けれど、あの人はもう――俺のことを覚えていない
事故だった
仁人は仕事の帰りに交通事故に遭い、脳への損傷で数年間の記憶を失った
ちょうど、勇斗と一緒に暮らしていた時間が、まるごと抜け落ちていた
医師から「記憶は戻る可能性は低い」と告げられた勇斗は、何度も病院を訪れた
そのたびに、
「はじめまして。ごめんなさい、どこかでお会いしましたか?」
と、仁人は丁寧に、でもまるで他人に対するように言った
今日もその日と同じだった
「こんにちは……あの、今日はどういったご用件で?」
勇斗は無理に笑った
「……前にも会ったことがあるんです。ほんの少しだけ」
仁人は少しだけ困った顔をして、それでも柔らかく微笑んだ
「そうですか。すみません、記憶が……」
「いいんです。あなたが笑ってくれるだけで、十分です」
窓の外で雷が鳴った
勇斗はふところから、小さな箱を取り出した。
中には、ふたりで撮ったチェキが5枚
花火大会
眠った仁人にキスをしている勇斗の横顔――
仁人はそれらを見て、しばらく黙っていた
「……これは、僕?」
「うん。全部、あなた」
「隣にいるのが、あなた?」
「……うん」
仁人はその写真をそっと手に取り、ひとつ深く息を吸いこんだ
「……ごめんなさい。何も、思い出せないんです。でも……」
「でも?」
「あなたの目を見ていると、なんだか胸がきゅっとする。悲しいような、懐かしいような」
勇斗はそれを聞いて、静かに微笑んだ
「それで、十分です。思い出せなくても、あなたが“何かを感じてくれる”なら、それだけで」
彼は写真を箱に戻し、立ち上がった
「今日で最後にします。もう、あなたの前に来るのはやめます」
仁人は、驚いた顔をした
「どうして?」
「忘れてしまった人間に、これ以上しがみつくのは…俺のためにも、あなたのためにも、よくないから」
少しの沈黙のあと、仁人が言った
「また、会いに来てくれますか?」
勇斗は答えず、代わりに小さく微笑んで言った。
「……また、晴れた日にでも」
そう言って、ドアを閉めた
それから時間が経って、仁人は退院した
記憶は戻らなかった
ある朝、ベッドの引き出しから写真の箱が出てきた
知らないはずの写真
知らないはずの人
けれど、彼の心臓は、その人の顔を見て、少しだけ速くなった
その日から、仁人は毎朝、コーヒーを淹れながら、ぼんやりとその人の名前を探している
END
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