コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
己の年上の恋人が幼い子どものように己を全面的に信じて身を委ねてくれたことが嬉しくて、恋人の実家からの帰路、ラジオに合わせて歌ったり先程見たウーヴェの信頼の証やテディベアを押し退ける様子を思い出しては顔をにやつかせていたが、広い家の広いベッドを独り占め出来るのだと気付いて更に顔を綻ばせる。
だがその歓喜に舞い上がったのはたった数時間だけで、しんと静まりかえった部屋から恋人が不在だと思い知らされ、シャワーを浴びて寂寥感を誤魔化すためにいつも二人で使っているベッドに潜り込んだのだが一向に眠りは訪れず、短く苛立ちの声を発した後、己のために用意された部屋の古くてギシギシ音が鳴るパイプベッドに潜り込んだのだ。
一人でも大丈夫だと見栄を張った己を存分に罵りつつ夜を何とか過ごし、翌日には休暇が控えている事実から仕事に精を出し、同僚達はヴィーズンに出かける話で盛り上がっているのを尻目に今日も早々に帰路に就いたが、必要なものだけをバッグに詰めたリオンがウーヴェから借りたAMGに乗り込んで向かったのは実家である児童福祉施設だった。
AMGを彼方此方が破れているフェンスの横に置くと夕ご飯を食べ終えた子ども達が児童福祉施設の敷地から出てくるが、周囲では見たことも触ったこともない高級車から降り立ったのが自分たちと同じ児童福祉施設出身のリオンだったため目を輝かせて傍に寄ってくる。
「リオンだー! リオン、この車買ったの!?」
「おー、エマにリンダも大きくなったなー」
最近は忙しくてなかなか帰って来られないからと頷き、この車は俺の恋人が貸してくれたものだから傷を付けるなと周囲の子ども達に念を押し、一番小さな妹であるイルザを抱き上げると、イルザが嬉しそうに笑みを浮かべてリオンの首にしがみつく。
「……お帰りなさい、リオン」
そんな子ども達の向こうで手を組み嬉しそうに顔を綻ばせているシスターを発見したリオンは、イルザを抱いたまま大股に歩み寄り、彼女の頬にキスをする。
「ただいま、マザー」
「もうお仕事は終わったのですか?」
「うん。今オーヴェが実家に帰っててさ、家に帰っても一人なんだ」
だから晩飯を食わせて欲しいこと、出来れば今日は泊まって帰るが、明日朝一番にウーヴェの実家に向かうことを伝えると彼女の目が軽く見開かれるが、お休みなのに忙しいですねと息子の多忙さに顔を曇らせる。
「大丈夫だって。色々話聞いて欲しいことあるからさ、メシ食ったらちょっと俺に付き合ってよ、マザー」
「ええ。分かりました。……みんな、リオンと少しお話しをしたいのですが、構いませんか?」
マザー・カタリーナの子ども達にも確認を取る態度が昔を思い出させ、いつもその横や後ろに控えていた気の強い姉の姿が永遠に喪われた事実を思い出して唇を噛み締める。
「リオン?」
「んー? 何でもねぇよ。俺はマザーと話があるからみんなと遊んでこい」
夏が終わりを迎えたがまだまだ陽は沈まないため、子ども達は教会の敷地やその前の道で走り回り始め、そんな子ども達の様子を隣近所の人たちが厳しくも温かく見守ってくれる、リオンが幼い頃と変わることのない光景が目の前に広がり始める。
遊びを始める子ども達を笑顔で見送った二人はどちらからともなく顔を見合わせると、リオンがマザー・カタリーナの肩に腕を回して歩き出す。
「マザー、オーヴェがさ、過去の事件を全部話してくれるって言ってくれた」
「そうなのですか?」
「うん。……辛いことなんだけどな」
未だに夢で魘される辛い事件なのに、自ら語ってくれることを昨日教えてくれたと伝えると、マザー・カタリーナが手を組んで短く祈りを捧げる。
「どうかその苦しみが短いものでありますように」
「ダンケ、マザー。で、親父にも聞かせたいことがあるって言われた」
「ウーヴェだけではなくお父様からもですか?」
「うん。……みんな俺を信じてくれてるんだなーって思った」
生まれも育ちも決して褒められたものではない己だが、恋人だけではなくその父からも信頼を得ていることを実感し、嬉しさ反面身が引き締まる思いだと笑うリオンにマザー・カタリーナも小さく笑みを浮かべ、あなたの彼に対する真面目な思いが通じたんですよと笑うとリオンが照れたようにそっぽを向く。
「で、その事で何か悩んでいるのですか?」
息子の悩みを素早く見抜いたマザー・カタリーナが優しく問い掛け、教会の隣にある児童福祉施設のドアを開けてキッチンに向かうが、ドアの向こうに赤い髪を持つ壁が存在していることに気付いて苦笑する。
「何だ、カインが来てるのか?」
「ええ。今日は早く仕事が終わったそうです」
昨年の夏、リオンの姉でありマザー・カタリーナの娘でもあるゾフィーが亡くなる悲しい事件があったが、それに先だってこの街に戻ってきていた赤毛の幼馴染みの背中に笑ったリオンは、ドアを開けて背の高い幼馴染みを押し退けると、嵩張って邪魔だから何処かに座れと言い放つ。
「あぁ?」
一触即発としか思えない空気が流れるが今キッチンにいる者でその空気に慌てる者は誰もおらず、また本人達の顔を見れば不敵な笑みを浮かべ合っているため、少し離れた場所でお茶の用意をしていたブラザー・アーベルが溜息を吐きつつ二人とも早く座りなさいと命令をする。
「アーベル、腹減った!」
だから今すぐ飯を食わせてくれと叫ぶリオンにブラザー・アーベルが口を開くが、何かを言いかけてそのまま口を閉ざしてしまう。
天使像そっくりな男の口から出てくる言葉を予測したリオンは、胸に生まれる疼痛をここにいる皆が共有していることを思い出すと同時に、彼女の存在は決して忘れることも消えることもないと改めて気付き、いつも見せていた笑みを浮かべてブラザー・アーベルの肩に腕を回すともう一度同じ顔で腹が減ったと笑う。
「仕方がないヤツだな、本当に」
「だーってさ、オーヴェがいないんだ、仕方ねぇだろ?」
そこの赤毛ののっぽも飯を食うのかと振り返ったリオンは、マザー・カタリーナの頬に帰りの挨拶のキスをしている幼馴染みを発見し、残念そうな声で帰るのかと聞くと灰色の切れ長の瞳に冷たい笑みを浮かべて鼻先で笑う。
その笑い方には人を小馬鹿にするような色が含まれているが、幼馴染みのその癖をよく知るリオンは意に介さず、手を挙げて出て行く背中を見送るとマザー・カタリーナが腰を下ろすテーブルに同じく座り、煙草を取りだして火を付ける。
「ヘル・バルツァーは毎年この時期になると旅行に行ってるんだったな?」
「あー、うん、そう。でも今年はその旅行先が実家なんだよなぁ」
今まで避けてきた実家への帰省の旅行は悲喜交々なため、ただ今絶賛精神的に不安定中だと肩を竦めるリオンにブラザー・アーベルが目を瞠り、精神の不安定さを絶賛などと言うなと窘めるが、窘められた方は何も感じていない顔で笑い、マザー・カタリーナの苦笑に気付いてもう一度肩を竦める。
「もう一度聞きますね、リオン。……ウーヴェや彼の家族があなたを信じてくれている、その事で何か悩みがあるのですか?」
母の一言に小さく溜息を零し言葉にならない感情を煙草を灰皿に押しつける手に込めたリオンは、俺に出来るだろうかと呟いて慌てて己の言葉を打ち消すように手を振る。
滅多に見ることが出来ないリオンの心の奥底に眠る思いだが、ここにいるのはそれを今まで様々な形として見届けてきた人たちばかりであるため、マザー・カタリーナがそっと頷いてリオンの手に手を重ねる。
「あなたなら出来ます。いえ、ウーヴェの信頼に応えることはあなたにしか出来ないことであり、あなたがしなければならないことなのですよ」
今のような不安を感じるのは分かるがそれ以上に今もっとも不安を感じているのは誰なのか思い出しなさいと優しく諭されて目を見開いたリオンは、自分が感じる不安など些細なもので、本当に不安で恐怖を感じているのは誰なのかを思い出すと、自然と手を握りしめる。
「彼を愛しているのでしょう? ならばどんな不安や恐怖にも立ち向かえますね?」
たとえこの後、あなたの想像を絶するような話を聞かされたとしても怒りにまかせてその場にいる愛する人を傷付けたりせずその痛みや苦しみを分かち合い、その人の支えになることが出来ますねと疑う気持ちなど毛頭無い顔で頷くマザー・カタリーナから力を貰ったリオンは、素直に頷く変わりに握りしめていた拳を開いて母の手を撫でる。
皺が増えて苦労が滲み出ている小さな細い手だが、この手が今までどれだけの人を守り助けてきたのだろうか。
あまり昔話をしないマザー・カタリーナだが、彼女自身も幼い頃から家族に恵まれずに苦労してきたそうで、そんな彼女だからこそ自らと同じ境遇の子ども達を見捨てることが出来ないのだといつだったかゾフィーに説教の後に聞かされたことを思い出したリオンは、この細くて小さな手がいつでも己を護ってくれていて、今もまた守り支えてくれているのだとも知ると、母のような大きく偉大な手を持っている訳ではないがそれでもこの手で支えたい人の横顔を思い描くと脳内で不安に歪んだ顔が無言で見つめてくる。
端正なその顔には悩みではなく穏やかだったり優しさが溢れる笑みを浮かべて欲しかった。
苦痛に歪んだり恐怖に引きつる顔など、もう二度と見たくなかった。
「……ダンケ、マザー」
本当に苦しいのは誰か、俺が本当に望んでいるのは何かを思い出せたと笑ったリオンは、その言葉に静かに頷く母の手を取りそっとキスをする。
「な、マザー。最後に笑って欲しい、一緒に笑いたいから……今苦しくても我慢できるんだよな」
「ええ、そうですね。それに……神の与える試練はその人ならば必ず乗り越えられるものなのですよ」
神の愛はそれほどまでに慈悲深いものなのですと笑うマザー・カタリーナに頷いたリオンは、ブラザー・アーベルがそっと出してくれたカフェオレを受け取り、隣に腰を下ろす天使像の横顔に笑いかける。
「オーヴェには笑って欲しいなぁ」
「そうですね」
マザー・カタリーナの笑顔の同意に頷いたリオンは、カフェオレを飲んで溜息を吐くと、安堵したことから思い出した空腹感に眉尻を下げる。
「アーベル、腹減った……」
「ゼンメルとチーズで良ければありますよ」
「ダンケ、マザー! それで良い!」
今何かを食べられるのならば嫌いであまり食べたいと思わないサラダでも食べると力説するリオンに呆気に取られたブラザー・アーベルは、本当に仕方がないといつも呆れながらも決してそんなリオンを拒否しなかったゾフィーの横顔や後ろ姿をつい思い出して悲しくなってしまうが、そんな彼の表情の変化を素早く察したリオンが痛みを昇華した笑みでブラザー・アーベルを見る。
「アーベルはマジで天使様だよなぁ」
ノーラが良く言っていたが、本当にお前は天使のように厳しくもあり優しくもあると笑うと、端正な顔が一気に赤くなる。
「リオン、あまりアーベルをからかうのではありませんよ」
「大丈夫だって。な、アーベル……?」
真っ赤になった天使様と笑うリオンだったが、ジーンズの尻ポケットに突っ込んだままの携帯から着信音が流れていることに気付いて立ち上がる。
「……ボス、まさか事件とか言わないですよね」
例え事件があったとしても明日の休みは何が何でも取得すると涙すら浮かべそうな顔でじっとりとした声を出したリオンだが、聞こえてきたのが苦笑混じりの言葉だったために何の用事だと問い返し、日記が届いたことを教えられて目を瞬かせる。
「日記?」
『ああ。アルノー・エンデの日記だ』
「……あ、あの教会で見つかったって言ってたヤツ!?」
『ああ。明日ドクの所に行くんだろう?』
もしもそうなら今夜中に取りに来て明日持っていけばどうだと、リオンを気遣う言葉に密かに感謝しつつ頷いたあと、今ホームにいるからすぐに取りに行くと返し、見上げてくる二人に頷いて車のキーを取り出す。
「30分後に署に行きます」
『分かった。コニーがいるから預けておく』
「Ja. ありがとうございます、ボス」
いつもはクランプスだ何だのと上司を思いっきり心ゆくまでからかい罵倒しているリオンだが、己を思ってくれている気持ちを読みとれないほど子どもではないため素直に礼を述べて通話を終えると、ほぼ同時にすぐに出て行くのか、食べてから行けばいいだろうと言われて肩を竦める。
「んー、食いたいけど、日記を早く受け取りたいってのもあるしなぁ……」
「ではプレッツェルのサンドを作りましょうか」
「マジで!? じゃあオバツタとチーズが良い!」
「それではチーズだらけになってしまいますよ。ラディッシュも一緒にサンドしましょう」
さすがにリオンを幼い頃から育て見守ってきたマザー・カタリーナには勝てないのか、チーズが好きなんだから良いじゃないかとぶつぶつ文句を垂れると、サンドとは別に持ち帰りようのオバツタも用意してあげますと教えられて歓喜に拳を突き上げる。
「ひゃっほー!」
「本当に、相変わらずオバツタが好きですね」
「ん、マザーのは最高だもんなぁ。あ、今度さ、オーヴェにも教えてくれよ。オーヴェに作ってもらうからさ」
「ええ、そうですね」
リオンが喜ぶ料理なら数え切れないレパートリーを持つマザー・カタリーナは、呆れるブラザー・アーベルに笑って子ども達のおやつとしてプレッツェルサンドを作ろうと声を掛けて席を立つ。
「マザー、俺に出来るよな?」
席を立って己の食事の用意を始める母の背中に小さく呼びかけたリオンは、身体ごと振り返って胸の前で手を組むマザー・カタリーナに目を瞠る。
「あなたならば出来ますよ、リオン。あなたを信じてくれているウーヴェを思えばやれますね?」
「……うん」
「じゃあ頑張れますね」
「もちろん」
静かな穏やかな声で息子の背中をそっと押す母に頷いたリオンは、マザー・カタリーナに抱きつくとウーヴェの為のサンドも作って欲しいと笑う。
「ウーヴェと一緒に食べるのですか?」
「うん。オーヴェの家にもう行こうと思うからさ、あっちで食べさせて貰う」
「分かりました」
早く愛するダーリンの傍に行きたいと笑うリオンにマザー・カタリーナも同意をするが、ブラザー・アーベルが咳払いをする。
「アーベル、今日はサンドを貰って帰るけどさ、また近いうちに来るな」
「ヘル・バルツァーによろしく」
「分かった」
二人の伝言を必ずウーヴェに伝えると頷きマザー・カタリーナが手早く用意をしたプレッツェルのサンドイッチとオバツタを袋に入れて貰ったリオンは、本当に慌ただしいのだからと苦笑する二人の頬に素早くキスをし、また近いうちにウーヴェと一緒に来ることを言い残して児童福祉施設を後にするのだった。
前夜の己の態度を思い出せば羞恥のあまり何処かに隠れてしまいたくなるが、だが心の何処かではそんな言動を見せた相手がリオンである事実を受け入れ、誇りにすら感じてもいた。
穏やかでいつも冷静で感情を昂ぶらせることや大きな声を出す事がないと大学の同級生達の間でも評判の大人しいウーヴェではあったが、それは事件後に己の感情を無闇に爆発させない術を学んだからであり、実際はリオンがベルトランに告げた様に最も大切な何かに蓋をして封じ込めていただけだった。
それを見抜かれてしまえば意地を張る必要もなく文字通り総てをさらけ出しても良いのだと気付き、全身の力を抜くことでそれを伝えたのだが、その思いは通じたようで言葉に出さなくても思いを伝えられる存在の希有さにも気付いてしまう。
ウーヴェのように人の心の機微に聡くないと悲しそうに顔を歪めるリオンだが、ウーヴェが本当に伝えたいことは誰よりも理解していて、その言葉が謙遜なのかと思わず嫌味を言いたくなってしまうが、リオンの出自から想像出来るのはリオンにとっては相手の本音を瞬時に見抜かなければ不利になる、そんな状況が当たり前だったかも知れない事実だった。
教会という慈善団体の最高峰に集う人達は不遇な人達へ心から手を差し伸べてくれるのだろうが、その人達の手から零れ落ちないようにしなければならず、高潔な思いだけでは生きていけない厳しい現実を常に感じ取っていたはずだった。
そんな中で人の顔色や言葉の端々から相手の感情を読み取る術を手に入れた事は疑いようが無く、それを思えば幼いリオンが身を置いていた状況が過酷なものに感じるものの、だからこそ今言葉にしなくても本音を見抜けるようになっているとも思うと、帰ってきたら黙って広い背中を抱きしめてやろうと思うようになっていた。
そんなウーヴェに過去からの手紙のような日記と一縷の望みであったハシムの弟がこの街に来ている事実を引っ提げたリオンが、もうすぐ実家につくと連絡をしてきたのはウーヴェがヘクターとハンナの二人と一緒にキッチン-ウーヴェの家に比べれば狭いが機能的で暖かい空気に満ちている-で夕食を食べ終えた時だった。
ハンナが腕によりを掛けて作ってくれた食事をヘクターと二人で食べ-さすがに父や母達とはまだ一緒に食事が出来なかった-、デザートはアリーセ・エリザベスが作ってくれたケーキだと笑いあっていたのだが、リオンからの電話でウーヴェの表情が更に柔らかなものになり、声も聞いた事が無いような穏やかな、信頼して総てを丸投げしていることを示すようなものになり、早く帰って来いと伝えた答えがもうすぐそちらに着くというものだったため、思わずハンナの顔を見ながら夕食はどうすると問いかけると意味を察した彼女が静かに立ち上がる。
「うん? ああ、マザー・カタリーナが作って下さったのか?」
『そう! だからビールだけ欲しい』
「分かった。用意してあるから気をつけて来い」
『ダンケ、オーヴェ。もうすぐ行くからなー』
昨夜の醜態-とウーヴェが感じているもの-など微塵も思い出させないいつもと変わらない声に頷きじっと見つめて来るハンナに肩を竦めたウーヴェは、リオンが来たら騒々しくなるから今のうちにケーキを食べておこうと笑いかけ、電話の向こうから悲鳴を発せさせる。
『どーゆー意味だよ、オーヴェ!』
「そういう意味だ」
『くそー、覚えてろっ!』
制限速度なんか無視して突っ込んでやると怒鳴るものの携帯越しのキスだけは忘れないリオンからキスを受け取り、待っていると返して通話を終えればヘクターとハンナがもうすぐリオンが来ると頷きあう。
「どうした?」
「ウーヴェ様が嬉しそうなのが嬉しいのですよ」
「……」
ハンナの言葉にウーヴェは何も返せなかったが、ちょうど食事を終えたらしいアリーセ・エリザベスがキッチンに来た為、もうすぐリオンが来る事を伝えるとデザートが足りるだろうかと心配そうに呟かれてしまう。
「……大丈夫だと、思う」
「足りなければあなたのを分けてあげなさい、フェル」
姉の言葉に何も返せなかったウーヴェだが、続いて入って来た父に一瞬顔を強張らせるが、昨夜小さな声で挨拶をした気持ちが背中を押したのか、リオンがもうすぐ来るからデザートを食べるのならば今のうちだと小さく震える声でもしっかりと伝えるとレオポルドの目が一瞬見開かれる。
「リオンが来るのか。なら早く食べなければ全部食われてしまうな」
「……そうよ、あの子ったら絶対全部食べるって言い張るわ」
だから早く食べてしまいましょう、そう笑うアリーセ・エリザベスの目元がうっすらと赤味を帯び、レオポルドが娘のその表情に小さく頷いて末っ子の頭に手を載せる。
「あいつが全部食うと言っても俺の分を残しておいてくれ」
「……俺、も……、食べる、から」
だから父さんとリオンと取り合いをして下さいと何とか口角を持ち上げると、レオポルドの大きな掌が髪をぐしゃぐしゃにする。
「リオンが来たら教えてくれ」
己の髪を一頻りぐしゃぐしゃにした後キッチンを出て行くレオポルドを見送ったウーヴェは、ヘクターとハンナの目が潤んでいることに気付き、咳払いをしてキッチンの隣の家事室へと避難すると昨夜から続く変化の一端に己でも驚きつつもやはりリオンのせいだと気付いて胸に手を宛がい、鍵の形をした約束に目を閉じるのだった。
マザー・カタリーナ手作りのオバツタとそれを使ったプレッツェルサンドを片手に、片手には過去の遺物をぶら下げたリオンがやってきたのは間もなくの頃だったが、その時には皆が揃ってリビングでお茶を飲んでテレビを見たりウィスキーを片手にチェスに盛り上がる息子と娘婿を見守ったりと絵に描いたような団らんを送っていて、突如響いたあり得ない物音に驚愕のあまりハンナなどはソファの上から文字通り飛び上がってしまう程だった。
その物音の発生源はリビングのドアで、似たような状況をいつも経験しているウーヴェが事情を察して深い溜息を吐き、何度か経験したことのあるアリーセ・エリザベスが頭痛を堪えるように眉を寄せるが、リオンがノック――と言い張って聞かないが実際はドアを殴っているだけ――に返事をしなければいつまでも殴り続けることに気付きウーヴェがどうぞと声を掛ける。
「ハロ、オーヴェ! エーリヒに聞いたらみんなここにいるって教えてくれた」
エーリヒ、つまり昨夜ウーヴェ達が実家に戻って来る時に車を運転し、以前リオンが仕事がらみでこの家に来た際にリビングに案内してくれた青年が皆揃っている事を教えてくれたと朗らかに宣うが、一体いつ仲良くなったと皆が疑問を抱く中、ウーヴェがリオンを迎えに行くように立ち上がると、顔中に笑みが広がって荷物を置いた手がウーヴェを抱き寄せる。
「今日も一日頑張って働いて来たぜ、オーヴェ」
場所は違っていても交わす言葉は変わらないことを伝えるようなリオンにウーヴェが苦笑するが、実家というある種の緊張をせざるを得ない場所でのいつもと変わらないそれに安堵する気持ちもある為、広い背中に手を回して抱きしめる。
「……お疲れ様」
「うん。頑張ったから腹減った」
マザー・カタリーナが作ってくれたプレッツェルサンドを食べようと笑いウーヴェの額にコツンと額を重ねたリオンは、抱きしめた身体が緊張や不調に囚われていないことに胸を撫でおろし、にやりと笑みの質を変える。
「オーヴェ、頑張った。今日も一日頑張った!」
二度目になるその言葉にだからさっき労っただろうとウーヴェがさすがに呆れるが、リオンが何を望んでいるのかを察し、背後の視線を気にしつつも笑みを浮かべてリオンが待ち望みつつも不満で尖り始める唇にキスをする。
「お帰り、お疲れ様、リーオ」
「ダンケ」
そのキスで今日の疲れが総て吹き飛んだ、でも空腹は増したから一緒に食べようと笑うとレオポルドがそんな所でいちゃついていないで早くこっちに来いと怒鳴り、リオンが顔を向けてにやりと笑みを浮かべる。
「ボスと一緒で奥さんにキスして貰えないからって僻まなくてもいいだろ?」
「誰が僻んでいる!」
「親父!」
ウーヴェのこめかみにキスをし、僻むなと恋人の父に向けて不敵な笑みを見せたリオンは、皆が集まるソファに近寄ると初対面の男性に向けて質の違う笑みを見せる。
「わ、本物のミカだ!」
いつもはテレビや雑誌でしか見たことがないが本物のラリードライバーだと目を輝かせるリオンにミカも最初は驚くが、その屈託のない笑顔につられて笑みを浮かべ、立ち上がって手を差し出す。
「よろしく、リオン」
「よろしく! ……な、サイン書いて貰って良いかな?」
「?」
「職場にミカのファンがいるからさ、一枚20ユーロで売ってやろうかなーって」
ミカの手を握って自己紹介をした後、こそこそとウーヴェの耳に囁くが、当然ながらそれはミカやミカだけではなくアリーセ・エリザベスの耳にも入り、恋人の姉からは恐ろしく冷たい目で睨まれ、本人からはサインぐらいは書くが20ユーロ程度なのかと落胆した声で問われ、ウーヴェにはピアスの填った耳を思いっきり引っ張られてしまう。
「お前は!」
「ぃたいいたい痛いっ! ごめんごめんごめん、お願い許してオーヴェ!」
「うるさい!」
「ごめーん!」
お前の義兄で小遣い稼ぎをしようとした俺を許してと両手を組んでウーヴェに向けて泣きべそを掻いたリオンは、頭上に拳を落とされて首を竦めるが、そのひとつで許してくれた事に気付いて情けない顔で小さく笑う。
「へへ」
「まったく……!」
ソファに腰を下ろし食べ物が入っている袋からサンドを取り出すが、封筒に入れた日記をどうするか一瞬思案し、封筒のままウーヴェの腿の上にそっと置く。
「どうした?」
「うん……日記が出てきたって言ってただろ?」
その日記が封筒の中に入っている。
リオンの少しだけ真剣みを帯びた声にリビング中の空気が一瞬して凍り付き、アリーセ・エリザベスなどは己の夫に不安そうにしがみつくほどだった。
「詳しい話は後でするけどさ、確かめたいことがある。――オーヴェ、その日記、辛ければ読まなくても良いけど、どうする?」
昨夜は例え少しの間辛く苦しかったとしても一緒に頑張ろうと言ったものの、今までのウーヴェの苦しむ顔を思い出せばやはり決意が鈍ってしまうリオンだったが、封筒に手を載せてじっと俯くウーヴェの横顔を見ると同時に太い笑みを浮かべる。
「……そうだよな。お前は自分から決めたら絶対にやり通すよな」
お前を甘く見ていたと素直に認めて白とも銀ともつかない髪にキスをして抱き寄せ日記のことは後でちゃんと話をするから先にメシを食わせてくれと囁くと、ウーヴェが立ち上がってくすんだ金髪のてっぺんにキスをする。
「ビールを取ってくるから待っていてくれ」
「ダンケ、オーヴェ」
静かに出て行くウーヴェの背中を見送り左右から己に集中する視線に肩を竦めたリオンは、ここにいる人達ならば分かるだろうと口の中で呟くと、封筒を目の高さに掲げながらアルノー・エンデの日記があの教会から発見されたと告げて一人一人の顔を見つめていく。
その顔はウーヴェには滅多に見せることのない刑事の顔で、日記の内容についてはまだ誰も読んでいない事、ここに書かれている事実が他の犯罪に関係していたとしてもウーヴェの誘拐に関する事件はすでに解決されているために誰も裁かれることはないとも告げると、ひとつ溜息を吐いてレオポルドの顔を正面から見つめる。
「だからオーヴェを守る為に警察にも言わなかった事実を教えて欲しい。もう二十年以上も経ってるんだ、直接の損害を被る人は少ないと思う」
実際、昨日警察署にやってきたハシムの弟に告げた様にもう解決した事件を調べることで新たな犯罪が出てくるかも知れないことを断ると、今まで微笑ましい顔で見守っていたイングリッドの顔色が一瞬で変わり、レオポルドに身を寄せると不安そうに夫の腿に手を置く。
「レオ……」
「大丈夫だリッド。確かにリオンが言うように直接被害を受ける人はいないだろう」
今までウーヴェを護るために口を閉ざしていたが、この機会に洗い浚い何も知らない第三者に話を聞いて貰った方が良いかもしれないと頷き、不安に顔を曇らせる妻の頭にキスをする。
「リオンになら……教えても大丈夫だろう」
何しろウーヴェが自ら過去を話しているのだからとも告げるとリオンがその信頼を受けて頷き、ウーヴェの戸籍上の父と遺伝上の父が違う事や事件の首謀者の一人が遺伝上の伯母にあたりそこに母もいたことも知っていると告げると、イングリッドが血色の悪い顔を上げて震えながらも厳しい声を発する。
「ウーヴェの母はわたくしです」
「うん。そうだと思うしオーヴェもそうだと思ってる」
あなたがウーヴェを愛し守り育ててきた母であることは疑いようもないことだからと母という言葉につい己の感情を必要以上に込めたリオンは目を瞠るイングリッドに頷き、だからあなたはウーヴェの母であるしまたウーヴェもあなただけを母と思っているとも告げて封筒を下ろす。
「俺の望みはただひとつです」
この日記を読んでウーヴェが苦しむかも知れないがそれでもそれを通り過ぎた時に一緒にただ笑って欲しい、怖い顔で怒ったりすることがあっても二人で一緒にいて笑いたいのだと、ここ数日に気付いた本心を告げると皆の顔に徐々に血色が戻り始める。
「オーヴェには笑って欲しいんです」
俺にいつも笑ってくれと言ってくれるウーヴェにこそ笑って欲しいのだと告げてひょいと肩を竦めたリオンは、急に気恥ずかしさを感じたのかいきなり立ち上がってウーヴェの名を叫ぶ。
「オーヴェぇ、腹減ったから早く帰って来てくれよー!」
「……うるさいヤツだな、お前は」
リオンの魂の叫びに応えたのはウーヴェではなくウーヴェと似通った顔立ちの男で、ドアが開いて入って来た瞬間、部屋の中に一種の緊張感が芽生えたことにリオンが気付く。
「人の家で大きな声を出さないで欲しいものだな」
リオンに向けて苦言を呈したのは今日の仕事を早々に切り上げて帰宅したギュンター・ノルベルトで、不愉快さを隠さない顔で睨んでくる恋人の兄に肩を竦めたリオンだが、ウーヴェが戻ってきた事に気付いて顔を輝かせるだけではなく、ギュンター・ノルベルトの姿を発見して身体を強張らせたウーヴェの傍に駆け寄ると、一見すればしがみついているが実際の所ウーヴェの心を支えるように腕を回して抱きしめながらお前の兄貴が苛めると泣きべそを掻き、じろりと睨むギュンター・ノルベルトに舌を出すのだった。